第六十九話 決意
「放せ……!」
牛若の声が甲高く張り裂ける。弁慶はその身体へ覆いかぶさっていた。短刀を握る手首を渾身の力で押さえ込む。
「なりませぬ!」
「放せ、弁慶……!」
暴れようとする牛若を、背中から回り込むような格好で取り押さえ、短刀を持つ手を全力で押し留める。
今この両手を放せばその刃は喉へ届く。牛若は死ぬ。この世からいなくなる。弁慶の前から消え去ってしまう。
「ご自害など、なりませぬっ!」
「死なせてくれ……!」
のたうち回るようにして牛若の膝が畳を蹴る。袖が乱れ、息が乱れる。弁慶の腕の中で、その身体は驚くほど軽かった。
「放せ……! 死なせてくれ……!」
涙を溢れさせながら叫ぶ牛若を、弁慶はその巨躯で容赦なく包み込んだ。がっしりと抱き込む。この泣き声を誰にも聞かせたくなかった。髪から天界の稚児の香りがする。胸をかきむしりたくなりながら、力を込めて弁慶も叫ぶ。
「牛若さま、何卒おやめ下さいっ!」
「放せと言っているのだ……!」
弁慶に押さえ込まれた牛若は、暴れようと必死にもがくのに空回りしている。ただ短刀だけは必死に握りしめている。
戦場で太刀を持てば神業の舞を見せる主が、腕力では自分の足元にも及ばないことに弁慶は気づいた。喉の奥が妙な音を立て、身体に熱さが宿り出す。
「放せ……! 放せ……!」
もう牛若は泣きじゃくるだけだ。必死に暴れているつもりのようだが、ほとんど動けていない。握り込む短刀を捨てさせることはまだできていないが、弁慶はほんのわずかだけ安堵した。牛若の腕力は自分の足元にも及ばない。自分が手の力を緩めない限り、この牛若は絶対に死ねないのだ。弁慶は牛若の非力さに心から感謝した。
牛若が死ぬことなど、絶対に許さない。
弁慶はもう牛若の声を聞いていなかった。奇妙な気の昂りを覚える。
弁慶は主の耳元へ顔を寄せた。
「牛若さま――」
部屋の外に聞こえないよう、抑えた声をどっしりと、天界の稚児の清らかな耳に響かせた。
「――死んではなりませぬ」
泣きじゃくりながら嗚咽を漏らす牛若を覆い隠しながら、腹に力を込めて続ける。
「――牛若さまが死ぬなど、この弁慶が許しませぬ」
「放せ……」
牛若の声はひどくか細くなっていた。乱れた息と泣き声だけが漏れ出ていく。
「――牛若さま、落ち着きなさいませ」
丁寧すぎる口調であやすようにささやく。
「弁慶……」
牛若がこちらの名前をつぶやいてくれた。それでも短刀は握りしめたままだった。
「――無礼を、お許し下さい」
弁慶はその手首を畳へ強引に押しつけた。牛若の手首は、掌の中で折れそうなほど頼りない。容易なことだった。その清らかな手首をねじり、刃を取り上げるなり投げ捨てる。短刀は乾いた音を立てて転がった。
刃物を失った牛若は、もう泣くことしかできない天界の稚児だった。肩だけで息をしていた。
弁慶は牛若の身体に覆い被さりながら、牛若の呼吸のために少しだけ力を緩めた。
「――さあ、息をお整え下さい」
耳元でささやいた後、沈黙が落ちる。嗚咽の音が少しずつ、少しずつ小さくなっていく。
「――弁慶が、ここにおります」
ゆっくりとささやいた。深く息を吸い込んだら髪の清らかな香りがした。
牛若は落ち着こうとしているわけではなさそうだが、もう涙が枯れてしまったらしく、いつの間にか呆然としていた。
走る足音が近づく。
「判官さま……!」
「まあ、義経さま……!」
静御前と郷御前が最初に現れた。静御前はとっさに、弁慶に抱き込まれたままの牛若の手を無言で握りしめた。牛若は呆然としたままだった。
「弁慶殿、これは一体何事ですの?」
郷御前の声はわずかに震えている。
「――えっ、牛若さま……!」
三郎たちも駆け寄ってきた。磯禅師も台所から来たようだ。
「おい、一体何があったんだ……?」
三郎も郷御前と同じ問いを発した。弁慶は答えずに、牛若の身体を解放した。立ち上がると数歩進み、畳の上に落ちた短刀を拾い上げた。
柱を見ると、鞘に収めた太刀が立てかけてあった。弁慶はそれも手に取った。
「弁慶……!」
動揺しきった様子の三郎の声が響くのを弁慶は無視し、短刀と太刀をまとめて自分の腕に抱え込んだ。
「――牛若さまは、自刃しようとなされた」
全員が息を呑んだのが分かった。
牛若の自刃を止めたのは、この自分だ。
「――今宵より、牛若さまの刃物はすべて、この弁慶が預かる」
「お前、それは……」
「この弁慶が預かる」
三郎がためらいを見せようとするのを、弁慶は同じ言葉で跳ねつけた。
「太刀も、短刀も、すべてだ。牛若さまを守るためだ」
三郎はまた息を呑んだ。誰も、もう言い返さなかった。
静御前に手を握りしめられたままの牛若も、ただ呆然と畳に視線を落としている。
痛ましい沈黙がその場を支配した。みな、弁慶と牛若をかわるがわる見つめていた。あまりの事態に、何も言えずにいるようだ。
一体どれだけの時間が経っただろうか。
「――義経さま」
郷御前がゆっくりと、それでも力強く進み出た。
牛若の視線は動かなかった。静御前に手を握ってもらったままだ。
「生きて下さいませ」
郷御前は膝をついた。袖を整え、両手をつく。
「――死ななければならないのは、義経さまではございません。この私ですわ」
「えっ」
後の三郎が間抜けな声を出したが、郷御前は振り返らずに懐から紙の束を取り出した。
「私は、鎌倉の間者でしたの」
えっ、という声が遠慮がちに部屋のあちこちで響いた。それ以上、何も言えずにいるらしい。
なるほど、言われてみれば納得できることではある。そもそも間者がいて困ることなど、何もないが。
「ご覧なさいませ。これらは私が鎌倉へ送った、報告書の写しですわ」
郷御前は紙の束を牛若の前へ置いた。
「都に来ていた鎌倉の者へ、折々に渡しておりましたの」
「うわっ、そんなに……?」
三郎が動揺した声でつぶやく。予想以上の紙の量だったからだろう。
「帳面女さん、あんたは……」
「ええ、私は重大な任務を負った、武士の端くれですわ」
郷御前は三郎を見ずに答える。その真剣な目は牛若だけを見ていた。
「もう刃物を禁じられておいでですから、義経さまはどうぞ弁慶殿に命じて、私をお殺めくださいませ」
牛若は、しばらく郷御前を見つめていた。赤く腫れた、それでも清らかな目が静かに向けられている。
「――郷、そなたは……」
かすれた声がした。
「私のそばに、いてほしい……」
蚊の鳴くような声なのは、郷御前の告白に動揺したからではないだろう。牛若はまだ、鎌倉の兄に殺されかけた痛みが何も消えないのだ。
「あの、何と……?」
郷御前には牛若の声がよく聞こえなかったらしい。
「もう一度おっしゃって下さいませ」
郷御前はいつものような口調で鋭く言った。牛若はわずかに我に返ったようだ。
「そなたは、私のそばにいてほしい」
それは同じ言葉を繰り返しただけだった。清らかな天界の稚児の言葉そのものだ。ただそばにいる者がこれ以上減ってほしくないだけだろう。郷御前の間者などという不潔な話はよく分からないにちがいない。
三郎たちがほっとする息も聞こえた。
郷御前は牛若の目を真っ直ぐ見つめた。
「……そう言って頂けて、郷はたいへんうれしいですわ。私を殺したくなったら、いつでも構いませんのよ」
珍しく微笑んで見せながら、一瞬だけ天井を見て、すぐに視線を戻す。
「私の父が河越重頼であることはご存知ですわね。このお屋敷の皆さま、誰も興味をお持ちではありませんでしたが」
そう言って周りを見渡すと、三郎たちは気まずそうに頭をかいている。この堅物の女にも、残してきた家があるのだろう。
「父は、義経さまの宇治川や一ノ谷の戦にも加わっておりましたのよ。私が輿入れした際も、何も申さなかったようですが。おそらく口を聞いたこともありませんわね」
「えっ」
三郎が驚きの声を上げる。まさか郷御前の父が一緒に戦っていたというのは、弁慶も初耳だった。
「任官で鎌倉殿から罵倒された者の中に、父の弟、すなわち叔父の重経もいますの」
「気付かなくてごめんな、帳面女さん」
三郎が言うと、郷御前は無表情に頷く。
「私は父からは、好きにせよと言われておりますの。『弟への間者の任務をその妻に与える鎌倉殿の意向はよく分からない。妻は夫に従うもの。父は父として思いのままに生きるゆえ、郷も好きにせよ』、と言われておりましたわ」
郷御前はそこでゆっくりと深く息を吸い込んで、うつろな目の牛若に向かって言う。
「今、はっきりと申し上げますわ。私は義経さまのお味方をさせて頂きますの。もう河越の家には戻りませぬゆえ、これからも奉公を務めさせて頂きますわ」
その声は、いつもより少しだけ高かった。
「……そなたがいてくれるのは、うれしい」
牛若はか細くつぶやいた。牛若はもう片方の手で、静御前の腕をぎゅっと握りしめていた。
三郎が進み出ると、報告書の束を見下ろす。
「これ、見てもいいのか……?」
「どうぞ」
郷御前は冷徹な声で言った。
「これ以上、隠す意味もありませんわ」
そう言う声はいつもより穏やかだった。三郎はその中の数枚を手に取るなり、目を細めた。
「……帳面女さん、こんなかわいい平仮名だらけの文で報告してたのかよ。これなら俺でも全部読めそうだぜ」
郷御前は微かに口元を緩める。
「女子はそういうものですわ。私は目録程度の漢字は読めますが、すべてをそれで整えるのは無理ですの」
三郎は紙を近づけたり遠ざけたりしていた。
「なんか……意外だな」
「どうぞお読みなさいませ」
郷御前が鋭く言うと、三郎は軽く咳払いをした。
「ええっと……『義経さまは、今日も鎌倉殿のお言葉をお待ちであるご様子ですわ』……なるほど。それから、なになに……? えっと、『どの従者も義経さまの一挙一動にいちいちうっとりしているだけで、主に対してろくに忠告もしない、甘やかしてばかりの日々ですわ』、えっ? 『毎晩、義経さまの寝所を鼻息荒く大の男が何人も団子のようになって集まり盗み聞きして、情事の有無を確かめておりますの。誠に気持ち悪いですわ』って、おいっ、何だよ帳面女さん! 続き、俺たちの悪口しか書いてないじゃねえか!」
三郎は心外だと言うように顔を赤くしている。
この女、なんとも失礼な報告を送っていたようだ。不快にも程がある。
「当たり前ですわ」
郷御前は少しも悪びれない。
「もし義経さまが一度でも、謀反を起こしたいだの、兄上を殺したいだの、鎌倉と戦をしたいだのとおっしゃっていれば、とっくに報告しておりますわ。おかしいのはあなたさまたちの方ですもの」
三郎は紙を見つめたまま口を尖らせた。
「いやそれ、喜んでいいかも分からねえ……」
「喜ぶべきですわ」
郷御前はきっぱり言った。
「帳面女さん……いや」
三郎は少し迷って紙を下げる。
「帳面ねえさん、かな」
郷御前の眉がぴくりと動いた。
「これからは帳面ねえさん、俺たちの仲間ってことでいいんだよな」
「また変な呼び名をこしらえましたの? お好きになさりませ」
そう言うなり、三郎から目をそらした。
三郎は面白そうに少し笑った。部屋の緊張がほんの少しだけ緩む。
牛若は笑ってはいないが、郷御前や三郎を見ながら、わずかに穏やかな表情になっていた。
三郎が別の紙をめくる。
「次、読むぞ。『間者として送り込まれたはずの駿河殿の鎌倉への報告内容が……』、えっ? あんたもかよ!」
三郎が駿河を指さしたが、駿河はすぐに目をそらした。
「それは、はるか昔の話だ」
「昔って、いつだよ」
「細かいことは気にするな」
そのまま駿河はあさっての方を向いている。なるほど、この男が間者でもおかしくはない。「九郎さま」という、頼朝が牛若を呼ぶ際と同じ名で呼んでいたのは、牛若の信頼を得るために言い含められていたのだろう。だが、探られて困ることも何もない。
「とりあえず続きを読むぞ」
三郎が続けた。
「『鎌倉への報告内容が途中からおかしくなった理由は、到着してすぐに分かりましたわ。とっくに頭がおかしくなっておられましたの』、って何だよこれっ」
「おい」
駿河が低い声で言った。三郎はとっくに笑い出している。
「俺は頭がおかしくなどないが」
三郎は構わず続けた。
「『いつの間にか義経さまの情事の有無を確かめるために耳を澄ませることを、新しい任務にしておいででしたわ』!」
三郎が腹を抱えて笑い出す。
「新しい任務って何だよ!」
鷲尾も笑いをこらえきれず、肩を揺らしていた。忠信もつられて遠慮がちに笑っていた。
駿河は気まずそうにうつむいて黙り込んでいた。
「否定はしませんのね」
郷御前が追い打ちをかける。
「私も輿入れ前に拝見しましたが、鎌倉に届いた文、義経さまの麗しさを絶賛するばかりで、ろくな報告がございませんでしたわ。だから私が新しい間者になりましたの」
「駿河、お前何してんだよ」
三郎は腹を抱えて笑いながら言うと、駿河は仕方ないというように顔を上げた。
「九郎さまを見ていれば、そうなるのだ」
「開き直るなよ!」
ほんの少しだけ、部屋に明るさが戻った。
牛若は笑ってはいないが、痛々しい表情が緩んできてはいる。
「まだあるぞ」
三郎は次の紙へ手を伸ばした。
「『義経さまと、弁慶殿について』」
(俺のことか……?)
弁慶は妙に不安な気持ちにさせられた。三郎は少し居住まいを正して読み上げ始めた。
「『義経さまは、ただひたすら鎌倉殿から愛されることや、夢の同居、労いの言葉を一心に待っておられるようでしたわ』」
牛若の肩が、わずかに動くのが見えた。皆が一様に複雑なため息をつく。
「『それらが何一つうまくいかないたびに、毎度泣きそうになりながら心を壊しそうになっておられますの』」
三郎の声が少しおとなしくなっていた。皆、牛若の哀れさに思いを馳せているようだった。
「『それを心配するふりをしながら、いちいち興奮して熱っぽく見つめる弁慶とかいう化け物みたいな僧の鼻息が、気持ち悪くてたまりませんわ』、何だこれっ」
言うなり三郎はまた吹き出してしまった。皆が一斉に笑い出す。弁慶は初めてその場にいることを恥じた。なんと邪推まみれの、不快な報告なのだろう。
「三郎、それ以上読むな。もうよい」
弁慶は厳しい声を投げつけた。身に覚えのない奇妙な羞恥に首が熱くなってくる。
「私はこの目で見たままの事実を報告しただけに過ぎませんわ」
「ふん、捏造にもほどがある」
吐き捨てて目を背けてやるが、どっと笑いが起きるのが癪に触る。
なんと不快な女だとは思ったが、牛若のことを悪く報告していなかったのは意外ではある。鎌倉のあの汚らしい男は、彼女がいくら牛若が潔白だと書き送っても黙殺したのだ。
牛若は畳の上に腰を下ろしたまま、そっと遠くを意味もなく眺めているようだった。
廊下の奥から、大きなものが倒れるような音がした。
「ぐぐ……」
三郎が怪訝そうに振り返る。
「何があったのじゃ?」
行家が柱に片手をつきながら入ってきた。髪はだらしなく乱れ、眠気まなこの様子だ。まだ酒の匂いがした。
「夜討ちがありましたのよ」
郷御前が冷たく言い捨てた。なるほど、この男はずっと寝入っていた。かなり話を遡らなければなるまい。
静御前は牛若に握られていた手を外し、自身が握っていた腕も解放すると、斜め前にそっと位置をずらした。牛若はただ天井を見つめていた。
「は? 夜討ち……? なるほど、土佐坊じゃな!」
行家は思い出したように叫んだ。
「あんたが寝ている間に俺たちがやっつけたぜ」
三郎がいまいましそうに吐き捨てると、行家は「それはご苦労じゃの」と高みから答えたものだから、ますます皆は苛立っている様子だった。
「そうだ、帳面ねえさん、こいつのことは報告書に何て書いたんだ?」
「おかしいお人であることは分かっておりますが、報告するほどではありませんわ」
「おい、一体何を申す」
行家は心外であるかのように顔をしかめていた。
「わしの扱いが随分雑ではないか」
「雑に扱われるだけのことはなさいましたわ」
「失礼な女め」
行家は口を尖らせたが、酔いが覚めたのか、急に真面目な顔つきになった。
「……本当に、頼朝が九郎を殺しに来たのか」
「ああ」
三郎が真面目な顔で答えた。
「あの坊主が白状した。鎌倉のお兄さまに命じられたってよ。もう蒸し返すな」
行家の顔から酒の赤みが少しだけ引いた。
「九郎」
行家はふらつきながら牛若の前へ進み出る。
「もうよいであろう。あいつはもはやお前の兄なんかではない」
牛若はゆっくり行家を見上げていた。
「普通の兄が、弟へ刺客を送るかって話じゃ」
行家の声は珍しくまっすぐだった。
「しかも、正々堂々と戦うならまだしも、土佐坊などという聞いたこともない下らぬ坊主どもにこそこそと夜討ちをさせ、お前の心を踏みにじらせおった。頼朝のやつを兄などと思ってはならん。ただの敵じゃ。卑怯で冷酷な、人間の心を持たぬ獣じゃ」
行家が酒で濁った声で頼朝を口汚く罵るのが、妙に心地よくて癪に触る。誰も行家に反論はしなかった。今となっては全てが本当のことだからだ。
牛若の反応は鈍かった。以前の牛若なら、愛する兄のことを悪く言われて傷ついたことだろう。
「……はい」
牛若の言葉は短かった。少しだけ震えていたが、力は残っていた。うつむいてはいても、意識ははっきりしているようだ。
弁慶の胸の奥がむず痒くなる。いや、気が昂っていた。
あの頼朝から、牛若の心がついに離れたのだ。
自分を殺そうとする相手を愛することができる人間はいまい。そもそも牛若は黄瀬川の時から、ほんの数えるほどしか頼朝という男に会っていないのだ。よくそんな、会おうともしない冷酷な男のために今まで戦ったものだ。牛若の想いを踏みにじった頼朝は、ろくな死に方をしないだろう。
「義経さま」
郷御前の冷徹な声が響いた。
「土佐坊は都を騒がせ、義経さまのお屋敷に夜討ちを仕掛けた、罪深い男ですわ。その手の者たちも」
牛若は郷御前を見る。その表情はあどけなくさえある。
「検非違使としての、お沙汰を」
「斬れ」
行家が横から鋭く言う。
「斬ればよい。頼朝への無言の返事じゃ」
郷御前は行家を一瞥してから牛若に向き直った。
「そうですわね。検非違使として、処刑をお命じなさるのがよろしいですわ」
牛若は天井を見つめていたが、「うむ」、と短く答えた。
「牛若さま、当たり前ですよ!」
三郎が心から同意している。皆が歓迎している様子だ。
牛若は土佐坊の処刑に同意した。それは怒りでも復讐でもないだろう。ただ助ける理由がないだけに過ぎない。
(土佐坊も、馬鹿な男だ)
牛若の心を少しでも労る言葉を嘘でも吐いていれば、命だけは助かったかもしれない。あの愚かな坊主は、最後までそれをしなかった。
牛若が最もほしがっていた兄の情愛を残酷にも偽り、牛若を奈落の底へ突き落とした。捕らえられた後も、泣いた者たちをただ嘲笑い、何の同情も見せなかった。
(このお方は、慈愛に満ちた仏ではない――)
弁慶は牛若の横顔を目に焼き付けていた。
(ただ肉親の情愛をほしがる、天界の稚児でしかないのだ)
牛若は、土佐坊の命は救わなかった。平時忠父子の命をわらび姫との婚姻の形で救ってしまったのは、時忠が牛若に偽の情愛と労りを見せたからだ。
土佐坊は違う。ただ牛若の心を深く傷つけることしかできない、くだらない男だった。
目の前の行家という叔父の存在が全てを物語っている。牛若に剥き出しの好意さえ見せれば、牛若は簡単に助けてくれるのだ。
「よし」
行家が突如立ち上がった。
「ならば、次の手じゃ」
三郎が嫌な顔をする。
「あんた、またろくでもないことを言う気だろ」
「大事なことじゃ」
行家は三郎を振り向かず、牛若を真っ直ぐ見た。
「これから、あの頼朝を討つ院宣を、法皇さまから頂くのじゃ」
牛若は何も言わない。いきなりの言葉がよく分からなかったのか、あどけなく首を傾げている。
「九郎。お前はあの男に殺されかけたのじゃ。黙っておれば、次も来る」
行家は語気を強める。
「法皇さまにお願いするのじゃ。頼朝を討て、と命じて頂く」
牛若はかすかに頷いた。顔は無表情だった。
弁慶はごくりと唾をのみ込んだ。頼朝の方だけに伸びていた主の糸が、どこかで切れたように見える。
行家は牛若の反応を承諾と受け取ったらしい。
「よし。法皇さまのもとへ参る準備を始めるぞ」
牛若は答えなかったが、その目はもう兄の幻影を探していなかった。それを見る弁慶の胸の奥は、妙に昂らざるを得なかった。




