第六十八話 堀川夜討
喧騒の中で、弁慶は揺さぶられた。
遠くで大勢が叫んでいる。耳元で女の声が鋭く飛び交う。
夢の中の音だと思った。
身体が重い。まぶたが上がらない。口の中に、まだ酒の甘さが残っている。
牛若の手から渡された杯。赤く染まった頬。自分を見つめていた目。
「――いい加減、起きて下さいませ!」
頬を叩かれた。
「うう……」
弁慶は息を吸い、ようやく目を開けた。
目の前に郷御前がいた。
「弁慶さま……!」
静御前もその横にいた。二人とも衣を乱し、息を切らしていた。郷御前の手には、弁慶の長刀があり、静御前は懐剣を握っている。
「土佐坊が襲ってまいりましたわ!」
郷御前は弁慶の肩をつかみ、もう一度強く揺さぶってきた。
「さっさと起き上がって下さいませ!」
弁慶は身体を起こそうとして、酒の重さに一瞬、身体を取られた。郷御前が長刀の柄を床に突き、息を継ぐ。
「今は義経さまがお一人で戦っておられますわ!」
その鋭い言葉で、弁慶は目を見開いた。
「な、何だと……?」
「どうか、判官さまを助けてくださりませ……!」
静御前が悲痛な声で叫ぶ。郷御前は弁慶を冷徹に睨みつけていた。
「私が弁慶殿の長刀を拝借しましたの。静御前と二人で、やっと一人の坊主をそこに縛り上げたのが精一杯ですわ」
「っ……!」
なんとか身体を起こしかけると、弁慶の頭の後ろで、磯禅師が縛り上げた僧兵の縄を押さえていた。口に布を噛まされた男が畳の上で身をよじるたび、磯禅師は両手で縄を強く引き、足を踏ん張っている。
「この老婆めも、お役目を果たしますゆえ、何とぞ判官さまをお助け下さい」
「すまぬ……」
弁慶はまだ立ち上がれない。酔いの醒めない、掠れた情けない声でつぶやくと、郷御前がさらに進み出てこちらを見下ろしてくる。
「女子の力ではこれが精一杯ですわ。残りは弁慶殿、あなたさまが片付けて下さいませ!」
そのまま長刀を弁慶の胸元へ押しつけてきた。
「他のみなさま、酔い潰れて起きませんのよ……!」
静御前も泣きそうな声でありながら、気丈に声を張り上げていた。
「私の分の長刀はございませんでしたわ……! ずっと判官さまがお一人で戦っておられますの。弁慶さま、今すぐお行きなさいませ……!」
やっと弁慶は跳ね起きて立ち上がった。おそろしい事態に身体がやっと気づいた。頭が割れるように痛み、喉の奥には酒の匂いが残っている。
「牛若さまはっ……?」
「だから、一人で戦っておられると申し上げておりますの!」
郷御前が長刀をさらに押しつけてきた。
弁慶はやっとそれを受け取った。握った柄は郷御前の体温で温かくなっていた。
(俺としたことが……!)
泣き喚きたい気分だ。自分一人だけが起きているはずだった。この夜の闇を受け止めているはずだった。怯える牛若を背中で守り、くだらない敵たちを勇ましく斬り伏せるはずだった。
(今まで何をしていたのだ……!)
気づけば眠っていた。自分が一人で守るはずだった、孤軍奮闘を見てもらうはずだった牛若の、あの甘ったるい誘いに身体が抗えず、酒をどんどん無様に飲まされ、あの幸せそうな甘い声に縛られ、そのまま泥のように眠っていた。
「どけ……!」
弁慶は畳を蹴るように駆け出した。女たちの声は振り払った。
三郎たちは一人残らず死んだように眠ってしまっている。この自分が酒で眠らせた。何もかも思い通りになると信じていた。
その情けない身体たちを跨ぎ終えると、弁慶は長刀を握って外へ飛び出た。裸足のまま地面に着地する。
「――お、加勢が現れたぞ!」
どこからの声だろう。庭の向こうには敵が大勢いた。庭石のそばで倒れている者がいる。門の方にも何人かが膝をついていた。這うようにして逃げようとする者もいた。
天界の稚児が、たった一人で戦っていた。太刀で哀れな舞を舞っていた。弁慶に気づきもせず、ただ大勢の敵を薙ぎ払い続けていた。牛若の声が、聞こえない。
「牛若さま……!」
弁慶の声に、牛若は振り返らなかった。荒い息遣いだけが聞こえる。
咄嗟に駆け寄りその横顔を見て、弁慶は愕然とした。
目が真っ赤だった。泣き疲れた後の、涙が枯れきった目だ。
(俺は、何ということをしてしまったのだ……!)
取り返しがつかない。弁慶がだらしなく眠っている間、牛若は泣きながら一人で戦っていたのだ。
兄が、自分を殺そうとした。そのことで牛若は心が壊れかけているにちがいない。
「牛若さま……!」
ただ名を呼ぶことしかできない。それ以外の言葉が白々しすぎる。牛若はただ太刀で舞い続ける。弁慶は長刀で近づく敵を薙ぎ払う。
(この俺が、泣かせた……)
牛若が泣きながら戦い続けていた間、自分は何もせず眠りこけていた。あれだけいる従者が、誰一人牛若を助けに来ず、この弁慶も牛若の信頼を裏切った。今すぐ消えてしまいたくても、牛若を守ることが先だ。
「牛若さま、もうご安心くだされ……!」
白々しい言葉を言うしかない。弁慶は長刀を振り回し、周りの敵を薙ぎ倒していった。牛若が気づいてくれているかは分からなかった。
「――な、何だよこれっ! 牛若さまっ!」
奥から三郎の焦った声が響いた。弁慶は振り返らなかった。
「土佐坊のやつ、全部嘘っぱちだったのかよ!」
床を蹴る音がした。何かに足を取られたのか、三郎が低く呻く。
「うっ、まだ酒が残って……いや、そんなこと言ってる場合かよ!」
三郎が必死に駆け寄ってくる。
「牛若さま! こっちに下がってください!」
言うなり牛若の横顔を見てぎょっとなっている。
「すみません! ほんと許して下さい! 俺が全部倒しますから! 弁慶もすまねえ!」
無様に叫びながら三郎は短剣で必死に敵を追っている。
「げっ、義経さまっ!」
奥から鷲尾の叫びも飛んだ。
「寝ていてごめんなさい! 俺が倒します! 義経さまは逃げてください!」
必死に叫びながら、こちらも短刀で敵を斬り伏せていく。
「義経さまっ! 遅れましたことをお許しを……!」
忠信の声もした。ひどく息が乱れていた。太刀を振るって敵を倒していくのが見える。
「九郎さま! この駿河、心からお詫びいたしまする……!」
悲痛な声の駿河が太刀を抜いて庭へ出てきた。一気に敵を斬り伏せる。
戦いは長く続かなかった。「逃げろ!」、と口々に言うのが聞こえる。土佐坊たちはすでに天界の稚児の舞だけで崩れ始めていたらしい。いつもの従者がそろえば、烏合の衆など敵ではなかった。行家はまだ寝ているだろうがどうでもよい。
相手は総崩れとなった。
「この縄をお使い下さいませ!」
「逃してはいけませんわ!」
縁側から郷御前と静御前が縄を投げてくる。三郎たちはそれらを受け取り、倒れた敵たちを次々と縛り上げていった。
牛若は太刀を鞘に納めていた。まだ肩で息をしている。目は赤いまま、視線が定まらない。
「牛若さま、こいつらどうしましょう?」
大勢を縛り上げた三郎が問いかけたが、牛若は呆然としたまま答えない。
「蔵へ入れろ」
弁慶が代わりに短く答えた。
「そうだな! よし、蔵へ押し込め!」
三郎が怒鳴り、不潔な男たちは引っ立てられていく。八十人よりは随分少ないから、逃げた者も多そうだが、別に良いだろう。
土佐坊は気を失ったまま忠信に取り押さえられていた。三郎に引っ叩かれて目を覚ます。縄を受け取った三郎は土佐坊を睨みつけた。
「う……これは残念。捕まってしまいましたか」
土佐坊の声は堂々としていた。太々しいと言った方がよいだろう。昼間の涙の影はどこにもない。三郎に襟をつかまれ、庭の土に両膝をついている。
「お前、よくも牛若さまを騙したな!」
三郎の声は震えていた。怒りだけではなく、自分も騙されたことへの悔しさが混じっているだろう。
土佐坊は遠くに立ち尽くしたままの牛若に視線を泳がせるなり、喉の奥で低く笑った。
「ふふ……」
「何がおかしいんだ!」
「その、お優しい方々だと思いましてね」
土佐坊は三郎たちを見回しながら、ひどく面白そうに笑った。
「昨夜はみなさま、よく泣いてくださいました。頭の悪そうなあなたさまだけでなく、そちらの気品のあるお侍さま方や、向こうの冷徹な奥方さまたちまで。伊予守任官の件はそれがしには分かりかねますが、何もかも都合よく受け取って勝手に感動なさる滑稽な方々ばかり。それがしの『鎌倉殿が和解したがっている』という言葉に、あれほどお喜びになるとは」
「黙れ!」
三郎が腹立たしげに叫ぶが、土佐坊の言葉は止まらない。そのまま牛若へ声を向けた。
「義経殿も、お信じになられましたね。『兄上が許してくださった』、などと。そのお顔を見て、これなら夜にはよく眠ってくださると思いました」
「それ以上言うな! とにかく黙れ!」
三郎が土佐坊の襟を揺さぶったが、土佐坊は少し咳き込んだだけでまた笑った。
「何もかも、嘘にございます」
屋敷の全員が息を呑んでいた。事実を受け入れられずにいるらしい。
「鎌倉殿が涙を流したなど、あり得ませぬ」
土佐坊は取り押さえられたまま続けた。
「兄弟の仲直りも、熊野の祈りも、この夜のための大嘘にございます」
「もうそれ以上言うな」
忠信が低く鋭い声で言った。土佐坊は忠信を見たが、口元はまだ笑っている。
「鎌倉殿は、義経殿を必ず殺せと、それがしにお命じになりましたゆえ」
牛若は呆然と立ち尽くしたままだった。弁慶はその表情を直視するのが怖かった。
土佐坊は、なおも口の端を上げたままだ。
「泣くのは面倒でしたが、簡単なことでございました。皆さまがあまりにもよく信じてくださるので、随分楽でございました」
「お前、もうしゃべるな!」
三郎が土佐坊を乱暴に蔵の方へ押し出した。
「牛若さまにその声を聞かせるんじゃねえ!」
三郎は笑い続けている土佐坊を荒々しく蔵へ放り込むなり戸を閉めた。ざわざわと声は聞こえてくるが、何を言っているかまでは分からない。
「錠を下ろす前に、捕らえた者の身元を聞き出すべきですわ。御家人なのか、在地の者の寄せ集めなのかも気になりますもの」
いつの間にか郷御前が帳面と筆を持っていた。
「そうだな、帳面女さん」
いつもの三郎の不用意な呼び方に、今の郷御前は反応しなかった。三郎は牛若に視線を移すなり、またぎょっとしていた。
泣き腫らして涙が枯れた真っ赤な目は、あまりにも痛々しかった。
「――兄上は……」
その声は甲高く震えていた。弁慶は目をそらしたくなりながらも、自分はそんなことを許される身ではないと思い直す。それでも真っ直ぐ見ることはできなかった。
「……本当に、私を殺そうとされた……」
か細い声だった。
誰も声を出せずにいた。寄り添おうとしていたらしい静御前でさえも、牛若の痛々しい様子を見て泣きそうな表情になっている。
その場に沈黙が落ちた後、三郎が両手を土についた。深々と頭を下げた。
「牛若さま……本当にすみませんでした」
牛若は、三郎を見た。まるで今初めて気づいたかのようにきょとんとしていた。
「俺、ずっと寝てました。あいつの言葉なんか信じて、酒なんか飲んで……牛若さまが一人で戦ってる時に、俺は寝てました」
鷲尾もその横に膝をつき、無様に頭を下げる。
「俺もです。本当にごめんなさい。義経さまが死んでたら取り返しがつかなかった……」
「おそろしいことを言うんじゃねえ……!」
三郎がぴしゃりと言う。
「義経さま、それがしも申し訳ありませぬ」
「九郎さま、遅れたことを深くお詫びいたします」
忠信と駿河もその場に膝をつき、深々と頭を下げている。
弁慶の喉も、動いた。
「牛若さま……」
声がうまく出せなかった。
土に膝が食い込むように跪き、頭を地面にすりつける。
「それがしも……申し訳ございませぬ」
「……弁慶は、間に合ったもんな」
三郎が無邪気にかばってくれているのが癪に触る。間に合ってなどいない。
「みんなが無事で、うれしい」
牛若の言葉はどこまでも清らかな響きがした。
「顔を上げてくれ」
牛若は真っ赤な目のまま優しく微笑んでいた。弁慶は心臓を突き刺すような痛みを感じさせられた。
牛若は、郷御前と静御前の方を見た。
「郷、静、ありがとう」
「判官さまがご無事で何よりですわ」
静御前の声はいつも温かい。今の弁慶にこの言葉は言えない。
「これから先のことは、あの男たちの取調べが済んでからが良いですわ」
郷御前はもう次の話に移ろうとしている。牛若は微笑んだままだった。
牛若は密かに後に控えていた磯禅師にも目を向けた。
「磯禅師も、ありがとう」
磯禅師は深く頭を下げた。
「ご無事でうれしゅうございます。私は台所を確認して参りますね」
そう言って静かに去っていく。
「皆も、ありがとう」
牛若は三郎たちを見回して微笑んだ。皆がまた深々と頭を下げる。
牛若は最後に、弁慶をじっと見つめた。
「弁慶、本当にありがとう」
その微笑みが、弁慶に向けられた。
弁慶の胸が熱くなった。名を呼ばれ、礼を言われた。まっすぐ見つめられた。身体の奥が震えそうになったが、それはあまりにも恥じるべきことだった。
牛若の声は、あまりにも静かだった。
牛若は磯禅師を追うように、ゆっくりとその場から歩み去っていく。
弁慶はその哀れな後ろ姿に何も言うことができなかった。追うこともできなかった。
「――さあ、帳面には私が書きますの。蔵を開けて今から取調べですわ」
「私もお手伝いしますわ」
「そうだな」
三郎が頷き、蔵を勢いよく開ける。土佐坊たちが騒がしく声を上げるのを三郎が大声で黙らせる。他の男たちも蔵の中へ入っていった。
弁慶はその場に立ち尽くしたままだった。
(俺は……何てことを……)
牛若が無事でよかった。牛若をあそこまで泣かせたのは自分だ。それなのに「ありがとう」などと言わせた自分が許せない。
(「ありがとう」……?)
天界の稚児がそんな言葉を自分にかけてくれたことが、これまでに何度あったのだろう。ほとんど覚えがない。今言われるのは妙だ。
今まであれだけ鎌倉の頼朝に足蹴にされても「兄上」と泣き続けていた牛若が、戦いが終わっても涙が出ていなかった。ただ優しく微笑むだけだった。
(何かが、おかしい……)
全身から違和感が込み上げてきて、心臓がどくどくと鼓動を速め、一気に脈打ち出す。
「……牛若さま……!」
声が出た時には、弁慶はすでに駆け出していた。まだ酔いが残る脚をもつれさせながら、必死に奥を目指す。裸足のまま走り続けて土を辺りに散らした。床が汚れるのも構わずどたどたと音を立てて上がる。
「牛若さま……!」
中は静寂そのものだった。奥の襖の向こうに牛若の影が見える。
「牛若さま! お返事を……!」
弁慶の叫び声はもはや泣き出していた。襖を勢いよく蹴り倒す。
牛若は肩で息をしながら短刀を握りしめていた。鞘が横に落ちていた。
「牛若さま! おやめなされよ……!」
声が枯れる。天界の稚児は振り向きもしない。今まさに刃を喉に当てようとするところだった。
「牛若さま……!」
弁慶は無様に割れた声で必死に叫びながら踏み込み、畳を蹴り飛ばすようにして、その華奢な身体に全身で飛びついていた。




