第六十七話 土佐坊
六条堀川の屋敷には、まだ白湯と野菜の匂いが残っていた。
景季と景高を騙しおおせたあと、屋敷の者たちは妙な安堵に包まれていた。
「まだ残っておりますわ」
牛若は郷御前に食べるよう言われた、膳の青菜を見つめている。静御前はその横で、粥の温かさを確かめるように椀へ指を添えていた。
「判官さま、もう少しだけ召し上がってくださいませ」
「……うむ」
牛若は素直に箸を取った。
「お味がお気に召さなければ作り直します」
いつも台所に控えている、静の母の磯禅師も、今は牛若の食べる様子をじっと見つめている。行家の思いつきで始まった仮病の騒ぎの後だというのに、女たちは本当に主の食事を整え直す気でいるらしい。
三郎は庭先で大きく伸びをした。
「いやあ、何とかなったな。景季さんも景高さんも、すっかり信じてくれたじゃねえか」
「お前は何もしていないが」
駿河が短く言うと鷲尾が笑った。
「俺たちが黙ってるのも仕事だったんだよ」
「鷲尾もいいこと言うじゃねえか」
弁慶は何も言わず、牛若の後ろ側に控えていた。
頼朝は牛若を叱らず、牛若に会わず、ただ周りを嗅ぎ回らせている。ころりと騙された愚かな二人も、父親の帳面の先にいる存在の不潔さには気づいていないだろう。
門の方で、慌ただしい足音がした。
「義経さま」
那須与一の声だった。牛若はゆっくりと顔を上げて微笑んだ。
直垂の裾を乱した与一が、息を整えながら庭先に膝をついた。背には弓がある。遠くから急いできたらしく、額にうっすらと汗が浮いていた。
「何かあったのか」
牛若の声には柔らかさがあった。与一は顔を上げ、少し迷うように唇を動かす。
「奇妙な噂を聞きました」
庭の空気に、やや緊張が走る。
「土佐坊という男が、八十騎あまりの僧兵を従えて、都へ今日あたりたどり着くとか」
「何だそれは」
三郎が身を乗り出した。皆が与一の言葉に耳を傾ける。
「何のためかは、都の者にも分からぬようです」
与一は慎重な口調で続けた。
「それがしにも、確かなことは分かりませぬ」
「そうか……」
牛若はただ無感動につぶやいただけだった。天界の稚児はこのような不気味な知らせを解釈する術を持たない。
「八十騎の僧兵って……坊主の行列にしては多すぎるだろ」
三郎が低い声を響かせたが、那須は「あの……」と口ごもる。
「実は……那須にいる父から使いが参りました」
与一は少し言いにくそうに、姿勢を正した。
「前にも一度、私を探して都へ来たそうですが、その折に私は山科におりましたゆえ、会えなかったとのことで……」
屋島の海で扇の的を射抜いたこの男にも、戻るべき場所があるのだ。
「鎌倉より沙汰がありました」
与一は牛若へ向き直る。
「私は荘園を賜るとのことで……」
「荘園……?」
牛若は小さく目を見開いた。荘園という言葉の知識はあるだろうが、そのような物欲を持たない牛若には夢うつつの話でしかなかろう。
「父はいったん戻れと申しております。私もお受けするかは分かりませぬが、仔細を確かめませんと」
与一は庭の土を意味もなく見つめていた。
「……寂しくなるな」
牛若のつぶやきはおっとりとしていたが、それは俯き加減での言葉だった。
また牛若の周りの人間が一人、消えていく。いや、消されていくのかも知れない。
「あんた、行っちゃうのか……その……いや」
三郎は何かを言いかけてためらい、結局は途中で断ち切った。弁慶は横目でその様子を見ていた。
山科にずっといた与一は、近頃の頼朝の不潔な動きを知らない。わざわざ教えずともよいだろう。三郎も気は利くようだった。
(ふん、余計な者はいなくなればよい)
頼朝の汚さを知らないまま帰るなら、それでよい。
「これからお戻りになるのですね」
静御前が、牛若の横から穏やかに言った。
「どうかお気をつけて」
与一は静御前に深く頭を下げ、また牛若に向き直る。
「義経さま、弓が必要な時は、いつでもお呼びください」
「うむ」
与一はもう一度深く頭を下げ、名残惜しそうに庭先から下がった。門へ向かう足音は、来た時よりずっと静かだった。弓が必要になることはこれからいくらでもあるだろうが、この男ともう会うことはあるまい。
与一の足音が遠のききらぬうちに、奥の方から酒の匂いが流れてきた。
「九郎」
だらしなく伸びた声が、柱の影から落ちてくる。
行家の髪は少し乱れ、頬は赤い。目は開いているが、半分は酒の底へ沈んでいる。梶原兄弟を騙せた安心感で、いつもより多く飲んだのだろう。足元をふらつかせながら、柱に片手をつき、もう片方の手で瓶子をぶら下げている。
「聞こえていたぞ。頼朝は、お前を殺しに行かせたのではないか」
いきなりの言葉を三郎は「おい」と制しようとするが、行家の口は止まらない。
「そんな聞いたこともない、くだらない坊主に九郎を討てるわけがないがの。そいつをさっさと捕まえて斬首に処し、そろそろお前も反旗を翻してはどうじゃ」
「兄上が……?」
牛若には行家の言葉の意味自体は理解できるだろうが、現実のことには聞こえないようで、不安気な顔で首を傾げている。
「行家殿、あまり不用意なことを口になさいませぬよう」
忠信が凛とした声を挟んだ。
郷御前は何も言わず、ただ行家を冷徹に見据えていた。静御前は牛若の表情を確かめるように少しだけ歩み寄っている。
「まあよい――まあわしには関係ないゆえ」
行家はそれだけ言うと、ぐらりと体勢を崩すなり、そのまま床に倒れ込んだ。
今回は誰も駆け寄らなかった。
行家はその場ですぐに大きないびきをかき始めた。三郎はそれをいまいましそうに見下ろした。
「行家殿は郷御前と一緒にお運びしておきますわ」
静御前があきれたような声でいい、郷御前は鋭く頷く。
「……兄上が、私を……?」
牛若は再びつぶやいていた。言葉を噛み締めたのか、怯えが見える。
「いや、行家のいつものやつですから」
三郎は手を不恰好に振りながら、慌てて払い落とすように言った。
「けどさ……」
鷲尾が、いつになく真剣な声でつぶやく。
「けどさ、本当にその坊主たちが義経さまを殺しにくるなら大変なことだぞ」
「残念ながら一理あります」
忠信も強く頷いていた。
「聞き捨てなりませぬ。そんな妙な集団が来ているのであれば」
「坊主風情なら、とりあえず捕まえればよい」
駿河はそう言うなり、弁慶を気まずそうに見た。一応弁慶を僧の端くれと思ってくれているらしいが、「ああ」と短く同意だけしておいた。
「私もその場にいさせて下さいませ」
静御前の声は柔らかかったが、退く気配はない。
「本日は私も台所で耳を澄ませておりますね」
磯禅師も力強く言う。普段はずっと台所にいるのであまり存在感がなかったが、彼女も牛若のことを心配しているようだ。
「私も、しっかりと取り調べに加わらせて頂きますわ」
郷御前も冷徹な声で言う。
「おお、帳面女さんなら安心だよな」
郷御前が無言で睨みつけると、三郎は無様に震え上がる。そのまま考え込む仕草をした。
「えっと弁慶、俺たちでその坊主を捕まえに行こうぜ。たぶんもう来てるだろ」
「――ああ」
弁慶は庭先に置いていた長刀を手に取った。
「よかろう」
土佐坊たちは、御家人が都を去って空いた屋敷の一つを宿所にしているという。
「……あそこか」
三郎が顎で示した。
屋敷の門の前には、僧兵らしき男たちが何人も立っていた。
門の奥から、僧形の落ち着いた男がこちらを見ていた。
「あなたが土佐坊か」
弁慶が向こうに声を低く響かせると、周りの僧兵は静まり返り、男の顔に微かな動揺が走った。
「……いかにも。それがしが土佐坊ですが」
「牛若さま……判官さまがお呼びだ」
三郎が踏み出して言う。
「来てもらうぜ」
「義経殿が……?」
土佐坊は周りの男たちと目を見合わせている。
「何か御用でございましょうか」
「行けば分かる」
弁慶は短く吐き捨て、静かにその目を睨んだ。
「――承知いたしました」
土佐坊は渋々、門の外へ出てくる。拘束したわけではないが、土佐坊は従順に二人の後を付いてきた。三郎は横からじろじろとその顔を覗き込んでいたが、弁慶は視線を外して前に向き直り、静かに歩みを進め続けた。
落ち着いた坊主ではあるが、大した男ではあるまい。
屋敷に戻ると、牛若は縁側に座っていた。静御前と郷御前が左右のかなり後ろに控え、忠信と駿河、鷲尾はそれより前にいる。三郎が土佐坊を庭の前へ押し出した。
「それがし、土佐坊にございます」
牛若に向かってにやりと微笑みながら、落ち着いた声を響かせている。牛若はさほど興味はなさそうで、ただ「うむ」と頷いた。
「皆がそなたに聞きたいことがあるらしい」
牛若の顔はあどけない。
土佐坊は深く一礼した。
「承知いたしました」
「あんたは牛若さまを殺しにきたのか」
三郎がいきなり言った。これではあの梶原兄弟と大して変わらないだろう。
「牛若、さま……? あ、義経殿のことでございますか。いや、そんな物騒なことなど……」
「頼朝さまが最近こっちを嗅ぎ回っているんだ」
鷲尾の声はいつになく真剣だった。
「そして、大人数が都に入ったのは不自然に思います」
忠信が静かな口調で言う。
「しかと、申し開きされよ」
駿河の声は冷たい。
静御前も郷御前も、土佐坊をまっすぐに見ていた。
土佐坊は、しばらく目を伏せた。その肩が小さく震える。
「う……」
声が漏れ、土佐坊の目から涙が溢れた。
「ああ、そこまで皆さまが追い詰められていましたとは……この土佐坊、おいたわしくてなりませぬ」
嗚咽が静かな広間に響く。
三郎たちは息を呑んだ。牛若も驚いたように、この泣き始めた坊主を見つめている。
「確かに……確かにこのところの鎌倉殿は、義経殿のことをお疑い申し上げておりました。腰越におられた義経殿を追い返した、とも聞き及んでおります」
「その通りですわ」
郷御前が鋭い声を響かせた。
「そのことをどう説明いたしますの?」
「判官さまはずっと深く心を痛めておいでですわ」
静御前は牛若の方を見ながら言う。
土佐坊はますます泣きじゃくっていた。両手を地面についたまま、肩を上下させている。
「それもこれも……あの梶原景時殿が、あらぬ讒言を頼朝さまに繰り返しておられたのです……!」
「やっぱり、あの帳面じじいかよっ」
三郎が拳を振り上げかけるのを、忠信が横から押さえた。
「しかしながら……ご子息の景季殿と景高殿が必死に景時殿の讒言を否定なさり、鎌倉殿はお考えを改められたのです」
「えっ……本当かよ?」
三郎の声が裏返った。
牛若は膝の上で手を握りしめていた。
「あ、兄上が……?」
「はい」
土佐坊は顔を上げた。涙が後から後から頬を伝っている。
「鎌倉殿は涙を流しながらこうおっしゃいました。『自分の弟がかわいくない兄がこの世にいようか。思えば、弟を腰越で追い返したのは間違いだった。もう誤解は全て解けた。今までの仕打ちを心から詫びたい。そのことを伝えてきておくれ』と。泣きながら頼んでこられたのです。……ああ、あの時の……鎌倉殿の、血を吐くような涙を思い出しまする」
土佐坊は声を上げて泣きじゃくっていた。
それは恥も外聞も捨てた男の泣き声に聞こえた。見ると、三郎の目が赤くなっている。
「……くそっ、そうだったのかよ……」
三郎は袖で目を拭った。
鷲尾も唇を噛んでいる。忠信は俯き、駿河はぎゅっと目を閉じた。静御前も目を潤ませ、郷御前もまぶたはわずかに濡れていた。
牛若は土佐坊の涙を呆然と見つめていた。
「兄上は……ようやく、私への誤解を解いてくださったのだな……」
「さようにございます」
土佐坊は泣きながら、深く頭を下げた。
「お前、嘘をついたら承知しねえからな。本当なんだろうな」
三郎の声は涙で濡れていた。
「はい、神仏に賭けましても」
いつの間にか、郷御前も嗚咽を漏らしていた。気丈に言葉を紡ぎ出す。
「ご兄弟ですもの。今までがおかしかったのですわ。他人の讒言があったのでしたら、義経さまを追い返したり伊予守に推挙したりという……辻褄の合わない対応も説明がつきますもの。それに……あなたさまも、お坊さまですものね。世の中には、おかしな僧も一部おりますけど――」
なぜか郷御前は一瞬だけ弁慶を見たが、弁慶は気づかないふりをした。郷御前はじっと土佐坊を見つめる。
「それだけの涙、人の心の痛みを知る者の涙ですわね……。この私も、信じますわ」
「ずっと判官さまは、お兄さまのことばかり考えておられましたわ」
静御前はそっと袖の涙を拭いた。
「これで元の、普通の兄弟に戻れますのね」
「そうだよな。今までがおかしかったんだよ」
鷲尾が大きく頷く。
「あの帳面の御仁の差金だったというのは、筋が通ります」
忠信も静かな声を響かせた。
「九郎さまの真心、鎌倉殿に通じぬはずがありますまい」
駿河も力強く言う。
牛若は少しだけ息を吐いた。胸の奥で固まっていたものが、ようやく溶けたような吐息だった。
土佐坊はまだ嗚咽が止まらないまま、ゆっくりと立ち上がった。
「お見苦しいところをお見せいたしました。それがしがやや大人数で都に来ましたのは、この後熊野に寄り、源氏のご兄弟がいつまでも仲良くあるよう、お祈り申し上げるためでございます。熊野は僧兵もおりますゆえ、武具を帯びた者がいるのはその備え。鎌倉からはこれから正式な使者が参りましょう。まずは心穏やかにお過ごしくださいませ」
三郎たちは皆一様に涙を拭きながら頷いた。
土佐坊は深々と頭を下げた。何度も振り返り、何度も頭を下げながら、静かにその場を立ち去ろうとする。弁慶は一歩だけ進み出た。
「気をつけて帰られよ」
その背中へずしりと声を響かせた。
「ありがたきお言葉にございます」
土佐坊は振り返って一礼し、そっと屋敷を出ていった。その足音は静かに遠ざかっていく。
屋敷には涙の余韻が残っていた。三郎はまだ目元を袖で拭っている。鷲尾は照れくさそうに咳払いしているが、涙を止められないらしい。忠信と駿河も、救われたような表情で牛若を涙に濡れた目で見つめていた。
弁慶は土佐坊が去っていった方角をじっと睨んでいた。
(ふん、比叡山で散々生臭坊主を見てきたこの弁慶を舐めるな)
土佐坊の涙は見事ではあったが、あんなもの、比叡山ではうんざりするほど見てきた。
(お前の、その不潔な涙が嘘泣きであることなど、それがしには一瞬で分かった)
あの、人の心を持たない頼朝が、しおらしく泣くはずがない。牛若へ詫びるはずもない。
(生臭坊主め、この屋敷の清らかさを侮りおって。大方、こちらを油断させ、今夜あたり夜討ちを仕掛けてくるつもりであろう)
弁慶は奥歯をぎゅっと噛み締めた。
牛若の横顔は久しく見なかったほど穏やかだった。兄に許されたと信じている。
静御前も郷御前も、その横顔を壊さぬように見守っている。三郎たちも、ようやく苦しみが終わったのだと思いたがっているようだ。
あのような小物の坊主の集団など、八十人いようがいまいが、ものの数ではない。夜の闇の中で、自分一人が牛若のそばに立ち、すべてを斬り伏せればよい。三郎も鷲尾も、忠信も駿河も要らぬ。行家はすでに寝ているし、女二人は戦力の外だ。
牛若を守る影は、一人で足りる。
「よし、今日は祝いの酒だ!」
三郎が元気よく叫んでいた。
「ようやく牛若さまへの誤解が解けたんだ。飲まねえわけにいかねえだろ」
「気が早いですわ」
静御前はそう言いながらも、止めはしなかった。
「判官さまも今日はお飲みになるとよろしいですわ」
静御前も温かい声をかける。
牛若は夢の中にいるような表情をしていた。
「兄上が……」
信じられない、と小さく口が動いているようにも見える。それでも瞳に喜びが宿るのは抑えきれないようだ。
磯禅師が酒と肴を運んできた。行家は最奥の部屋でいびきをかいたまま起きてこない。
三郎は真っ先に杯を取った。鷲尾も続き、駿河は少し渋ったが、三郎に押されて口をつける。忠信も静かに飲み始める。静御前と郷御前も酌を適宜務めつつ、三郎や鷲尾から杯を控えめに受けた。
弁慶は、誰よりも甲斐甲斐しく酒を注いでまわった。
「三郎、まだ入るだろう」
「おっ、今日は気が利くじゃねえか」
「鷲尾、お前も飲め」
「うん」
気が張り詰めていたのが、一気に解ける感覚がよいのだろう。皆ためらわずに弁慶の勧めるがままに酒を喉の奥に流し込んでいく。
「忠信、今宵は良き日だな」
「ああ」
忠信も静かに杯を受け続けた。
「駿河。お前もだ」
駿河にも注ぐと、駿河は杯を静かに飲み干した。
弁慶は女二人には勧めなかった。酔っていようがしらふだろうが、女たちの力はたかが知れている。そう言えばもう一人磯禅師がいるが、彼女は台所にいるただの老婆にすぎない。
男たちは次第に崩れていった。そのまま酒に呑まれていく。
三郎が一番騒ぎ、鷲尾がそれに付き合う。忠信と駿河は姿勢を保とうと努めていたが、やがて壁にもたれた。広間はひどく緩んだ空気に包まれていく。
喜びの中で、男たちは少しずつ意識を手放していく。全員が酔い潰れるのも時間の問題だろう。
弁慶は杯に口をつけるふりだけを続けた。にんまりと、口の端が上がりそうになる。
(――これでよい)
今宵、土佐坊の軍勢が屋敷を襲うにちがいない。
自分だけが起きている。あの嘘泣きの坊主がどれほどの男を連れてこようと、裏切られて怯える牛若には指一本触れさせない。牛若は弁慶の孤軍奮闘を目に焼き付けてくれることだろう。
「――弁慶」
甘い声が耳元で響いた。弁慶の身体が固まる。
牛若が、いつの間にかすぐ隣へ来ていた。酒で頬が赤くなっている。瞳は色っぽく潤み、口元には花のような笑みがある。ふらりと身体が近づいたかと思うと、そのまま弁慶の腕に突如抱きついてきた。
「う……っ」
心臓が一気に跳ねた。
「牛若……さま」
「弁慶……私は、今日ほど己のことを幸せと思ったことはない」
牛若は弁慶の腕に額を寄せた。熱い。酒の熱か、牛若の清らかな身体が喜びで発する熱か、弁慶には分からない。
「兄上が、私を許してくれたのだ……」
その声は、あまりに無防備だった。
「さあ弁慶……私を祝ってくれ。お前は、全然飲んでいないではないか」
弁慶の喉がごくりと鳴った。自分だけろくに飲んでいないことを、この主は見ていた。妙なうれしさと動揺が胸の中へ押し寄せる。
「あの、それがしは、今宵の番を……」
「そんなのはよい」
牛若は上目遣いで弁慶の瞳をじっと見つめてきた。
その澄みきった目に見つめられた瞬間、弁慶の身体は金縛りにあったように動けなくなった。五条の大橋で長刀を封じられた時よりも、ずっと全身を、深く縛られていた。心臓の鼓動がどくどくとうるさい。
牛若が気品のある手つきで杯を持ち上げる。
「さあ、私の酒を飲んでくれ」
杯が弁慶の口元へと近づいた。
断らねばならない。今宵は土佐坊が来る。自分だけは起きていなければならない。
そう頭の片隅では分かっていた。
だが、牛若の綺麗な指が杯を支え、その向こうで赤い唇がわずかに開いているのが見えた。目が離せない。弁慶の唇に、酒の縁が触れる。次の瞬間、酒が唇を貫いて胸の奥へ落ちていくような感覚が走った。
弁慶はそれをひと思いに呑み込んだ。
「うむ、よいぞ」
牛若はあどけない表情で嬉しそうに笑った。
「さあ、もう一杯だ」
「牛若さま……」
結構にございます、そう言ったつもりなのに、言葉が喉の奥に引っかかったまま音にならない。情けなく掠れるだけだった。
「もっと、飲んでくれ」
杯がまた近づいてきた。
今度は牛若の指が、弁慶の顎の近くに触れた。それだけで、弁慶の首はもう動けなくなった。酒の匂いが鼻先に満ちる。牛若の甘い吐息が、杯の縁を越えてかすかにかかった。
弁慶は目をぎゅっとつぶり、その誘惑する甘い液体を飲み干した。
熱が先ほどより深く落ちた。喉を通り、胸を焼き、腹の奥でゆっくり広がる。長刀の柄を握るはずの指が、畳の上でわずかに開いた。
「ふふ、まだだ」
牛若が甲高い声で小さく笑う。
「今日は、本当に最高の日だから」
赤い頬をした牛若が、再び満たした杯を両手で持つ。弁慶はその手から目を離せない。細い指先が杯の丸みに沿い、ほんの少しだけ揺れた。わずかにこぼれた酒が牛若の指筋を濡らし、その一滴が杯の外へと伝っていく。
その滴まで見てしまった。
再び唇に当たるその尊い液体を、今度こそ拒もうとした。だが、目を輝かせた牛若がじっと色っぽく見つめている。その目を曇らせることなどできなかった。
酒が体内を満たし、弁慶の背中に熱が走っていく。
周りの音が遠ざかり出した。牛若の顔だけが妙にはっきり見える。
「弁慶」
名を吐息混じりに呼ばれる。それだけで、弁慶の身体はまた杯を受けねばならなかった。
ほとんど味が分からなかった。手も喉も身体も止められなかった。ただ、牛若の手から渡されているということだけが分かった。杯の縁が唇を押し、酒が舌に広がっていく。弁慶の頭の中がとろけていく。
(まずい……)
そう思った。思っただけで、もはや身体は動かず、声も出せなかった。
牛若が自分を見て微笑んでいる。兄に許されたと信じて、心から笑っている。
この天界の稚児を、守らねばならない。今夜、自分が、一人で。
それなのに、身体が熱を放つのを止められない。
床がゆっくり傾いていく。
弁慶の意識は、そのまま泥の底へと沈んでいった。




