第六十三話 腰越状
腰越の夜は海の音ばかりが近かった。
牛若は板敷の上に立ったまま、こらえきれない涙を溢れさせていた。かすかに肩を震わせ、同じ場所に立ち尽くし続ける。
継信が死んだ時、主はためらいなく泣いた。あの時の涙はさわやかでさえあった。
今は違う。兄に怯えすぎて、満足に泣くことさえ禁じられているかのようだ。
「牛若さま……」
三郎が遠慮がちに声をかけたが、牛若は答えない。
主の泣きじゃくる声だけが、潮の匂いのする宿の中を細く渡っていた。
夜が明け、宿所の者が粗末な食事を運んだが、牛若は手をつけなかった。
三郎たちは腹を空かせながらも牛若をそっと見守っていた。
牛若は泣き疲れ、時折目を閉じる。目を覚ますと同じことをつぶやく。
「なぜ……会えぬのだ」
誰も答えられずにいると、三郎がさっと進み出る。
「その……お兄さまは……」
考えの足りない頭で必死に考えているらしい。
「その……悪いやつの讒言に騙されているんですよ。……あいつに」
三郎が「帳面じじい」のことを言っているのは明らかだった。
「讒言……?」
牛若は頼りない声で、それでいて強く反応した。呼吸が荒くなる。
(三郎め、天界の稚児に似つかわしくない、不潔な言葉を吹き込みおって)
吐き捨てたくなりつつ、弁慶は牛若の涙まみれの目から目を離せずにいた。
「讒言……それは、一体……」
その小さな、いくらか恨めしい言葉は、弁慶にしか聞き取れまい。牛若は誰かの讒言ではと、清らかに疑ってはいるものの、それが梶原景時によるものだという思いには至らないらしい。
牛若の壊れそうな表情にびくついた三郎が、慌ててわざとらしく辺りを見回す。
「この腰越、湿っぽいいやな場所ですね」
牛若のまぶたが揺れる。三郎は一気に言葉を続ける。
「都の、静御前や帳面女さんが懐かしいです。このまま待っていても仕方ないですし……いったん帰りませんか、牛若さま……?」
牛若の目からまた涙が溢れ、三郎がぎょっとしてしまう。
「このまま、帰ってしまえば……」
牛若の声は哀れにも震えている。
「兄上に、ますます嫌われてしまう……」
三郎は口を開けたまま、何も言えなくなった。鷲尾と駿河も顔を伏せる。
その時、忠信が静かに膝を進めた。
「義経さま」
牛若はゆっくりと忠信を見る。
「ただ待っていても、おつらいでしょう」
忠信の声は、低く落ち着いていた。
「義経さまは、何もおかしなことはなさっていません」
牛若の唇がわずかに動く。ただ怯えている。
「何も……?」
「はい」
忠信はまっすぐ主を見る。
「ここは……その清らかなお気持ちを、手紙にしたためて送ってみてはいかがでしょう」
三郎が顔を上げた。
「それは名案だな」
鷲尾も身を乗り出す。
「会えなくても、手紙なら伝わるはずだ。俺だったら字が読めねえけどさ」
駿河が短く続けた。
「北条時政殿が一番の権力者ですが、今鎌倉殿の一番近くで身の回りを助けているのは大江広元殿です。貴族のご出身なので、時政殿よりは九郎さまのお心が理解できるかもしれませぬ」
牛若の目にかすかな光が宿る。
「手紙なら――」
牛若は潤んだままの瞳で虚空を見つめる。
「兄上に、私の心を届けられるだろうか」
「ええ」
忠信が強く頷いた。
「きっと、届きましょう」
瞬間、牛若は弾かれたように弁慶を見た。
「弁慶、紙と硯を用意してくれ」
「はい」
弁慶は即座に動いた。
紙を出し、硯を置き、水を差す。筆を整え、灯りを寄せる。手は迷わず動いた。胸の奥だけが、ひどく重い。
手紙が届けば、頼朝は牛若を許すのか。その思いが、弁慶の胸の底に濁って沈んだ。
「……一人にしてくれ」
牛若は筆を見つめたまま言った。
三郎たちはうなずいた。戸の向こうに牛若が消えると、背に腹は代えられないようで、三郎が「ちょっと食べるか」と小声で言い、隣の控えの間へ移った。
弁慶は戸の影に控えたままだった。牛若の手元は見えないが、衣の擦れる音、筆を取る気配、そして息遣いは聞こえる。
宿所の者が、控えの間へ飯を運んだ。
強飯、粥、干した小魚、塩のきいた魚、海藻、湯。海辺の宿所らしい、粗いものばかりだった。三郎は真っ先に箸を手にした。
「食わねえと動けねえからな」
誰に言い訳するでもなく言う。鷲尾も食事に飛びついていた。
忠信は静かに膳へ手を伸ばし、途中で止めたが、駿河が椀を差し出した。
「食べるがよい」
忠信は黙って受け取った。
弁慶は戸の影から動かなかった。
「弁慶」
三郎が小声で呼ぶ。
「お前も食っとけよ。倒れたら牛若さまを抱えられねえぞ」
「……ああ」
弁慶は生返事をするだけで、そのまま牛若を戸の向こうから見守り続けた。
戸の向こうでは筆の音が続いていた。
初めは静かだった。やがて、少しずつ速くなっていく。紙の上を走る音が、時々止まる。時が経つにつれ、筆の運びが乱れていくのが分かった。
三郎たちの食事の音が静かになってきた頃、戸が開いた。
泣きじゃくり続けていた牛若の目に、今は別の光がある。実にうれしそうで、それでいて心細さはあって、何かを差し出す子どものようだった。
「弁慶、書けた」
牛若は文を両手で差し出した。
弁慶はそっと受け取った。紙の端が少し湿っている。最初の字は美しかった。細やかで気品がある。比叡山で見たどの書よりも、主の字は澄んでいた。
だが読み進めるほどに、字は揺れていく。墨の濃さが変わる。線が震える。後半になると、ところどころ筆が紙をひっかき、言葉の熱だけが先走っている。
牛若は弁慶を見つめたままだ。
その視線に胸を高鳴らせつつ、弁慶は文へと目を落とした。
鞍馬で学問を修めたという牛若らしい、綺麗な言葉遣いの文章ではある。天界の稚児がこのような整った文章を書けるというのは当たり前のことのようにも思えるし、世の理の言葉が一応書けているのは意外でもある。弁慶はその美しい文章を、祝詞のように敬いながら読み進めた。
『源義経、おそれながら申し上げます。
私は鎌倉殿のお代官の一人として選ばれ、勅命のお使いとして朝敵を討ち、源氏代々の弓矢の道を示し、父祖以来の恥辱をそそぎました。
ところが、本来ならば賞を頂けるはずであったところ、思いがけない讒言によって大きな勲功を黙殺されました。
この義経には罪がないのに咎を受け、功があって過ちはないのに御勘気をこうむり、むなしく涙に沈んでおります。
讒言した者の真偽も正されず、鎌倉の中へ入れていただけないため、私の本心を述べることもできず、ただ数日を送っております。
このままお顔を拝することができないなら、血を分けた兄弟の縁も空しくなってしまうように思われます。
これは私の宿運が尽きたのでしょうか。
それとも前世の罪の報いなのでしょうか。
悲しいことです。
亡き父上の霊がもう一度この世においでにならないなら、誰が私の悲しみを申し開きしてくださるのでしょう。
誰が私を哀れんでくださるのでしょう』
(すでに、痛々しい……)
弁慶は片手で拳を握りしめた。牛若の文面はすでに情にまみれ始めている。三郎が軽々しく口にした「讒言」という言葉を、そのまま考えもなく入れてしまうところは幼い。
牛若が一度も口にしたことのない「賞」や「勲功」という言葉が書かれている。牛若がほしいのは恩賞などではあるまい。天界の稚児が慣れることのない、鎌倉の武士の言葉を使って書こうと頑張っているのだろう。
兄のためだけに必死に戦っていたのを、「勅命」や「朝敵」という言葉で覆うのは一見知恵もあるようで奥ゆかしくもあるが、武士だらけの鎌倉の理をかえって刺激するという発想は持てていない。結局のところ、子供の手紙でしかないだろう。
『今さら申し上げるのも愚痴のようですが、この義経はこの身を受けて間もなく、父は殺され、逃げる母の懐に抱かれ、捕えられた後に孤児となって以来、一日片時も安らかな思いを得たことはありません。
甲斐のない命を長らえながらも、京の近くを巡ることも難しく、諸国を流浪し、あちこちに身を隠し、辺境の地を住まいとして、土民百姓に仕えるような身でもありました。
しかし機が熟し、平家一門追討のために上洛し、まず木曾義仲を討ち、その後、平氏を攻め滅ぼすため、ある時は険しい岩山に駿馬を駆り、敵のために命を失うことも顧みず、ある時は広い海で風波の難をしのぎ、身を海底に沈め、亡骸を鯨の口に掛けることも惜しみませんでした』
(これは、武士の文ではあるまい……)
牛若の視線を感じ、弁慶は慈しむような目をほんの少しだけ向けてから、再度文面を見つめる。
牛若の過去はもちろん涙を誘うが、頼朝は牛若のような清らかな情緒で判断するわけではないはずだ。もっと武士の理で正当化せねばならないのに、牛若の文章は気品がありすぎ、貴族の和歌や物語を読まされているような気分にさせられてしまう。
坂東の不潔な田舎者たちに、死体が鯨に食べられても惜しまないなどと述べる美しい例え言葉など、死んでも書けないだろう。
『甲冑を枕とし、弓矢を業とした本意は、すべて亡き父の魂の憤りを鎮め、年来の宿望を遂げるためであって、他意はありません。
加えて、この義経の任官は源氏の面目であり、まれな重職です。
これ以上の名誉がありましょうか』
(牛若さまご自身は、頼朝や景時の真似をして理の言葉を使っているつもりか……)
牛若が亡父の義朝を懐かしがるのを聞いたことなど、ほとんど皆無に等しい。六条堀川の屋敷に住み始めた時も、亡父は空想の中の人物にすぎず、牛若は兄との同居の方をずっと楽しみにしていた。牛若は兄への想いをそのまま書くのがよくないと、幼い理解で思い込んでいるのかもしれない。
直後に柄にもなく任官を誇ってみせているのが、その場の感情だけで文章を書き連ねている証に思える。牛若は当初任官で兄の言いつけを破ることに怯えていたが、任官後も頼朝はたったの一度もそのことに苦言を伝達してはこなかった。だからと言って、許しを乞う文でこんな風に触れるのは危険で幼いとしか言いようがない。
突如沙汰文が来た梶原兄弟や忠信を守りたいという気持ちもありそうではある。浮かんできた気持ちを無理に頼朝が好みそうな理の言葉で書き綴っているだけで、それがかえって鎌倉の理に反していることに天界の稚児は気づいていない。
牛若は戦略的にこの文を書いているわけではないというのが、弁慶にはいじらしくも思えた。
その文字たちはどんどん拙いものに変わっていく。
『されど今、私の愁いは深く、嘆きは切実です。
仏神のお助けがなければ、この訴えをどうして届けられましょう。
神仏にも一心に願いましたが、一向にお許しはありません。
ただ広大な御慈悲を仰ぐのみです。
私が許しを頂けるなら、積善の余慶は家門に及び、栄華は子孫に永く伝わることでしょう。
そうなれば、年来の愁いの眉を開き、この一生の安らぎを得ることができます。
愚かな言葉は書き尽くせません。
どうか賢明なお察しを垂れてくださいますよう、この義経、おそれかしこまり申し上げます。
源義経』
乱れきった筆のまま、天界の稚児らしい奥ゆかしい名文は終わりを告げていた。
これは、申し開きなどではない。泣き声だ。一つ一つの言葉は美しいが、全体としてみたら支離滅裂でしかない。
その涙の主の牛若は目を輝かせている。弁慶の胸はわずかに痛んだ。
「どうだ、弁慶」
ここまで弾む声が聞けるのは久しぶりのことだ。
「私の心は、兄上に伝わるだろうか」
弁慶の心臓が妙に高鳴る。
頼朝がこれを読めばどうなるか。冷酷としか言いようがない兄が、天界の稚児の泣き声をどう受け取るか。
弁慶は深く息を吸った。ゆっくりと吐き出す。もう一度、息を吸い込んだ。
「とても、素晴らしい文にございます」
「そうか、素晴らしいか」
天界の稚児の瞳がさらに輝く。
「ただ、お心の乱れが、そのまま筆のかたちに現れておられます」
「そうか……私の筆は拙いからな」
牛若の照れたような微笑みは、弁慶の心臓を鷲掴みにする。
「いえ……達筆ではいらっしゃいますが、今の牛若さまは疲れておられますゆえ」
弁慶は、牛若の方を見ずに、文に目を落として言葉を続けた。
「比叡山で筆も鍛えましたそれがしが、美しい文字で代筆させていただきます」
見上げると牛若の顔に、悲痛な安堵が出ていた。
「それはうれしい。弁慶、頼むぞ」
牛若は弁慶の肩にそっと手を置く。弁慶は鼓動が早まるのを深呼吸でごまかした。
「私の字は拙い。もっと美しい字で整えてくれ。……文面は、直すべきところはないか? そのままで兄上に気持ちは伝わるだろうか」
弁慶は牛若の透き通った声を夢心地に聞きながら、牛若の華奢な肩に視線を移した。
「……ええ。このままで、大丈夫でしょう」
弁慶の胸の中に、甘痒いものが差し込んだ。
「そうか。もし直すべきところがあれば遠慮なく直してくれ」
いつもよりずっと饒舌になる牛若の、あどけない表情を見上げる。
「はい、どうぞご安心を。大江広元殿への言葉も書き添えておきます。牛若さまはあちらで食事をおとり下さい」
「ああ」
牛若は素直に頷いた。
ずっと食事に手をつけなかった主が、目をきらきらさせて三郎たちの方へ歩いていく。三郎が慌てて膳を寄せるのが見えた。
「牛若さま、こっちです。粥、まだ温かいですよ」
控えの間が少しだけ動き出す。牛若は膳の前に座るなり、「書き終えた。弁慶が清書してくれる」と弾む声で三郎に告げ、また弁慶の方をうれしそうに見つめてくる。
弁慶は柄にもなく微笑を返して牛若に深く一礼すると、そっと戸を閉めた。
文の前に座る。硯の水が光っていた。
筆を取って最初の一画を置く前に、文面をもう一度よく見た。
こんな、政治のかけらも理解しない情まみれの支離滅裂な手紙が頼朝に届けば、頼朝はますます牛若を疎んじるにちがいない。ますます怒りを買う手紙でしかないだろう。
だが牛若は目を輝かせていたのだ。
筆先が紙へ触れる。墨が静かに走る。
胸の奥がかすかに痺れた。甘いとも、苦いともつかぬものが、内側を薄く撫でていく。
源義経という尊い名を丁寧に書き終えると、一つ一つの文面を心を込めて書き写していく。途中の乱れたところも端正に置き直す。文字だけは綺麗に整えながら、その中にある泣き声だけは消さなかった。
筆は進む。
戸の向こうから三郎たちの声が聞こえてきた。
「牛若さま、たっぷり食べてくださいよ」
「ああ」
牛若の声には、久しぶりに少しだけ力があった。
談笑の声をよそに、弁慶は想いを込めた筆を止めない。筆はどんどん進んだ。
大江広元は北条時政とはちがい、情を込めて頼めば断れないただの貴族だ。弁慶が清書したこの文を、頼朝は必ず読むことだろう。あの、弟が何度死地に命を捧げても労いの言葉一つよこさない、冷酷極まりない不潔な心しか持たない、牛若の心を抱き止めるのにふさわしくない男が読むのだ。
弁慶は最後の字を書き終えた。大江広元への添え書きも加えた。途中から筆が乱れきった牛若のものとはちがう、最初から最後まで綺麗な文字で彩られた、非の打ち所がない文が出来上がった。
弁慶はしばらく、紙の上の墨を眺めていた。我ながら、牛若ほどではないが整った字だ。いまいましい比叡山で積んだ修行を、主の泣き声を整えるために使うことができた。
文言は、一字たりとも変えなかった。
任務を終えてほっとすべきなのに、弁慶の心臓はどくどくと激しく脈打ち続けていた。
一度だけ深呼吸をすると、墨が乾いた文を持って立ち上がる。牛若が書いた元の文は無造作に丸めて懐に入れ、そっと戸を開けた。
「牛若さま、なんとか出来上がりました」
食事中だった牛若が目を輝かせて立ち上がるのを、弁慶は「どうぞ、お席でご覧ください」と穏やかに制する。弁慶は牛若の斜め後ろに座り、そっと文を見せた。渡しはしなかった。
「おお、実に整った字だ……すごいな、弁慶……!」
牛若は子供のような歓喜の声を上げて弁慶を褒めてくれる。弁慶は甘痒い感覚を胸に抱きながら、「そのお言葉、もったいのうございます」と一礼を返す。
三郎がまだ口の端に飯粒をつけたまま、弁慶の持つ文を覗き込んだ。
「お前、字うまいな」
「弁慶は、やはり頼もしい」
そう言う牛若は自分のことを褒められたような顔で弁慶を見つめている。弁慶は牛若の首元を見ながら「ありがたき幸せ」、と再度頭を下げた。「お前、でかいだけじゃなかったんだな」と三郎も肩を小突いてきた。
鷲尾と忠信、駿河も立ち上がり、弁慶の後ろまで来て文を覗き込む。「おお」と口を揃えて感嘆するのが弁慶には誇らしかった。駿河はさっと、硯を置いていた部屋に向かっていた。
「俺、字は読めねえけど、こんな綺麗な文を渡されたら、頼朝さまも誤解を解いてくれそうな気がする」
鷲尾の言葉に忠信が「そうですね」と力強くうなずく。
「そもそも、自分の兄弟を憎むものなどおりますまい。兄者さえ……」
「うんうん、そうだよな」
三郎が必死にうなずき、鷲尾も「当たり前だよな」と同調している。継信を失った忠信の言葉は説得力があるが、世の中にはもっと不潔な心の者がいることを、この男たちは知らないのだろう。
「――この見事な文を大江広元殿へ届けるなら、早い方がよいでしょう」
駿河が封に使う紙と紐を持ってきていた。
弁慶は無言で頷いてそれを受け取った。駿河はちょっと覗き込んだだけで「見事な文」と思ったらしい。確かに、牛若ほどではないが、人生で一番綺麗な文字で書けたのは確かだ。
皆に全文を読ませたりはしない。墨が乾いたのを再度確かめ、丁寧に折り、封をする。手紙は封の中へ閉じ込められた。
「牛若さま、行ってまいります」
弁慶はためらいなく立ち上がった。
「弁慶、よろしく頼む。気をつけて行ってきてくれ」
いつになく饒舌な牛若をいじらしく思いながら、弁慶は「はい!」と頼もしい返事を張り上げる。
「頑張ってこいよ!」
三郎たちが見送ってくれる中、弁慶は手際よく宿所の外へ出た。
外は潮の匂いが強かった。
無言で馬にまたがり、手綱を握り締めるなり、馬の腹を蹴って一気に走らせる。
れっきとした奥州武士の佐藤兄弟などとはちがい、弁慶は無名の従者でしかない。弁慶は堂々と頼朝の館を目指すことにした。頼朝には会おうとしたりはせず、入り口の者に大江広元への文だと告げればよい。広元に届こうが、警戒されて別の者に開封されようが、頼朝の弟の文が捨てられることはあるまい。
夜の道が前へ伸びる。手綱を握る手に力がこもる。
主が望む通りに、この文が頼朝の目に触れるのだ。
蹄が土を叩いた。潮の風が頬に当たる。封じた文は懐にある。その熱を衣越しに感じる。
胸の奥が、またかすかに痺れた。息遣いが荒くなる。
弁慶は歯を食いしばり、手綱を強く握りしめ続けた。
月の低い道を、馬はどこまでも進んでいった。




