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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第三部 栄光の空洞

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第六十四話 板挟み

 腰越へ戻るまで、弁慶は懐に残った文の熱を思い出していた。元の文は今もある。


 鎌倉の館の門は高く、夜の中で黒く沈んでいた。弁慶は取次の男に大江広元殿へ届ける文であると告げて渡した。「お返事は腰越へ届きましょう」と男は文を抱え、門の奥へ下がっていった。


 牛若は、弁慶が戻るとすぐに顔を上げた。涙の跡はまだ残っていたが、目には幼い期待が宿っている。


「弁慶、渡せたのか……?」


「はい。大江広元殿へ届けるよう、しかと託して参りました」


「そうか」


 牛若はほっとしたように息を吐いた。


 三郎も隣で明るく頷く。


「あれだけ立派な文なら、お兄さまだって分かってくれますよ。なあ、弁慶」


「……ああ」


 弁慶は静かに答えた。


 その日、牛若は何度も外の気配に耳を澄ませた。馬の蹄の音が近づくたびに顔を上げ、通り過ぎるたびに肩を落とす。三郎は「まだ読まれてないだけですよ」と声をかけ、鷲尾も「そうですよ」と言ったが、二度三度と同じことを繰り返すうち、声の勢いも鈍っていった。忠信は牛若の近くに座り、駿河は宿所の者へ、使いが来た時の取り次ぎを確かめていた。


 弁慶は戸口の方は見ず、牛若の背を見ていた。


 あの文を、頼朝はどう読むか。牛若の清らかな泣き声を、あの冷酷で不潔な兄はどのように受け取るか。


 牛若の目が戸口へ向くたび、胸の底に落ち着かない熱が残った。その熱が安堵なのか、期待なのか、別の何かなのか、弁慶は考えないようにした。


 翌日の昼前、宿所の外で複数の馬が止まる音がした。


 駿河が先に立ち、三郎が牛若の前へ半歩出る。弁慶は長刀へ手を伸ばした。


 戸口の向こうから、落ち着いた声がした。


「義経殿はおられるか」


 北条時政だった。


 牛若は慌てて立ち上がった。顔に期待と怯えが同時に出ている。


「時政殿……!」


 時政は庭先に膝をつき、静かに頭を下げた。


「義経殿。鎌倉殿は、貴殿の文を読まれました」


 牛若の唇が開きかけたが、微かな息が聞こえてくるだけだった。


 弁慶の舌に苦いものが残る。文は届いた。頼朝は読んだ。その上で、この男を寄越したのだ。


「御沙汰にござる」


 時政は淡々とした声で続けた。


「宗盛父子を伴い、都へ戻られよ。道中、両者を鎌倉殿の手の者が斬首を執り行う。そのまま都へ戻り、御役目に励まれるがよろしかろう、とのことにござる。斬首と検分の役として、門前に(たちばな)(ほり)の両名が待っており、宗盛父子も輿と馬で連れてきております」


 牛若はしばらく動かなかったが、息遣いが荒くなっていた。


「あ、兄上は……?」


 その声はひどく頼りなく震えていた。


「ほかには、何と……?」


 時政の表情は特に変わらなかった。


「以上にござる。鎌倉殿からは、この御役目のみ承っております」


 三郎がとっさに前へ進み出た。


「おい、あのきれいな手紙、読んだんだろ?」


「読んでおられます」


 時政は三郎の方は見ずに答える。


「読んで、それだけかよ」


 三郎の声は苛立っていた。


 時政は三郎を責めるでもなく、ただ同じ声で答えた。


「それがしが承ったのは、この御沙汰のみにございます」


「兄上は、何も……?」


 乱れるつぶやきと共に、牛若の目が潤み始めた。時政の前で――兄の手の者の前で泣くまいとしているのか、まばたきだけが増える。


(どういうことだ、これは……)


 弁慶は奥歯を噛み締めた。


 不思議にも、頼朝は明確な怒りを見せなかった。だが許しもしなかった。会おうともしなかった。牛若が泣きじゃくりながら魂を差し出した文に、ただ仕事だけを返した。


 心臓がどくどくと脈打つ。拳が少しずつ握られていく。 


 怒声の方が、まだ温かみがある。叱るなら、牛若は兄の声を聞ける。だが、頼朝は弟を叱らず、会おうとせず、ただ斬首と検分の役などというどうでもよい者をよこし、仕事だけを動かす。声のない拒絶にも見える。だがこれでは牛若はまだ、あの冷酷で不潔な、人間の心を持たぬ男を断ち切ることはできまい。


「すぐにご出立されよ。それがしは鎌倉に戻ります」


 時政は静かに立ち上がった。


 牛若は時政ではなく、自らの足元を意味もなく見つめていた。


「……承りました」


 子供のような声が、風で空しく消えていく。何のためらいもなく時政は馬で走り去ると、「何だよあいつ!」と三郎が叫びながら牛若に駆け寄った。顔を怒りで紅潮させながら、無遠慮に肩に手を置くのが見ていて腹立たしい。


「牛若さま、気にしないでください! あいつ、帳面じじいよりもっとおかしなやつかも知れませんね! 俺たちはどんな時も牛若さまの味方ですから!」


(歯の浮くような言葉ばかり並べおって)


 心の中で吐き捨てていると、鷲尾が「頼朝さまは、義経さまの綺麗な手紙を読んだのに、会ってくれねえのか……」と肩を落としている。


「お兄さまのことはいったん忘れましょう。とりあえず都に帰って、静御前や帳面女さんの顔を見て元気を出しましょう!」


 牛若は目を潤ませて呆然としたままだ。口が微かに動いているのは、「兄上」と無意識につぶやいているのだろう。


「とりあえず、義経さまのお気持ちは届けたのですから、いったんは帰るのがよいですね」


 忠信が穏やかな声で言うと、駿河も「幸い、九郎さまを悪く言っているわけではありませんし」と静かにつぶやく。


 頼朝のことを三郎でさえ、はっきりと悪くは言えない。それは弁慶も同じだった。いや、頼朝からはっきり拒絶の口上が来たら、口汚く罵ってやるつもりだったかもしれない。しかし今その勇気はまだ出せなかった。




 宗盛はまた輿に乗せられ、清宗は父の近くで馬に揺られていた。鎌倉方からは橘と堀という中年の男が同行している。


 牛若は前を歩いていた。


 宗盛が時折こちらを見ても、牛若は気づかないようだった。清宗の若い顔に怯えが浮かんでも、主の目は遠いままだ。


 普段の牛若なら、処分される父子に心を痛めたはずだった。何か言葉をかけようとしたはずだ。


 今の主には、それができない。


 会えなかった頼朝のことだけが、牛若の胸の中を塞いでいる。宗盛の沈黙も、清宗の怯えも、遠い景色でしかない。


 篠原(しのはら)の近くで馬を休ませると、橘と堀が短く言葉を交わした。弁慶は耳を澄ませようとはしなかった。


 しばらくして、駿河が牛若の前に進み出た。


「九郎さま」


 牛若が顔を上げる。


「私が、九郎さま側の検分役を務めてまいります」


「……そうか」


 呆然としたままの牛若の返事には力がない。


 駿河はすぐに走り去る。振り向くと橘と堀が下男たちに命じて、宗盛父子を河原の向こうへ連れて行くのが見えた。臆病に見えた二人も最後の誇りはあるのか、取り乱す声は聞こえない。弁慶はすぐに目をそらした。


 三郎がすぐに牛若のそばへ歩み寄った。


「牛若さま、ここは駿河に任せて、少し先で休みましょう」


「……うむ」


 牛若は生返事でうなずき、二頭の馬を引く三郎に促され、何も持たずに歩みを進める。忠信が静かに牛若の横へ回り、鷲尾も空いたところを埋めて馬を引く。


 弁慶もその後から馬を引いて付いていく。ここで牛若に見せる価値のあるものは何もない。頼朝が返してきた仕事の切れ端など、天界の稚児の目に触れさせる必要はなかった。


 しばらくして駿河が戻ってきた。大きな布には梟首のための首が包まれているのが分かる。普通よりも布が二重三重に厳重だ。顔色に変化はない。一番近くにいる弁慶の方を見てくる。


「……静かな最期だった」


 弁慶は頷いた。それ以上は聞かない。


「橘殿と堀殿には、急ぎであろうからそのままお帰り頂くようお願いした。九郎さまも認めておられる、と」


「なるほど。それでよい」


 ここであのどうでもよい二人の武士に斬首の報告などされても、牛若の心をかき乱すだけだ。駿河も随分気が利くようになったと弁慶は感心した。


 もともと鎌倉武士についてきて都と鎌倉を往復していた下男たちは、そのまま橘と堀に付いていったようだった。


 これで余計なものたちはいなくなった。牛若たち一行は急ぐことなく、そのままほとんど無言でゆっくりと都を目指した。




 六条堀川の門前で牛若が馬を止める。即座に忠信が牛若の下馬を手伝った。全員が馬から降りる。


「判官さま……お帰りなさいませ」


 門の向こうに控えていたらしい静御前がそっと進み出た。郷御前はその半歩後ろに立ち、牛若の顔色をじっと見ている。多田行綱も胸を張って控えていた。


 牛若は真っ先に静を見た。


「静……今、戻った」


 牛若の消え入りそうな声に、静御前はわずかに瞳を潤ませながら、ただ温かく微笑む。


「ご無事で本当によろしかったですわ。お顔が……お疲れですわね。まずは少し、お休みになってくださいませ」


「ご無事で何よりですわ」


 郷御前が通りのよい声を重ねた。


「鎌倉では、うまくいきませんでしたのね」


 郷御前の声は静かだった。責めてはいない。見れば分かる事実を口にしただけだが、ほんの少しの情愛はあるかもしれない。


 牛若は答えずにうつむく。


 行綱は、牛若の様子を理解しているのかそうでないのか、その場に膝をついてみせた。


「義経さま、お屋敷はこの行綱が守っておりましたぞ。ご無事でなにより。よくぞお戻りになりました」


 場違いに明るい声に、牛若が顔をそっと上げる。


「……行綱も、守ってくれていたのだな」


「はっ……!」


 行綱の顔に、分かりやすい喜びが広がった。


 静御前の顔を見て少しほっとしたらしい三郎が、「お久しぶりです!」と妙にかしこまった声をかける。静御前は「お久しぶりですわ」と優しく返した。


 三郎は思い出したように郷御前の方を見た。


「あんたも久しぶりだな、帳面女(ちょうめんおんな)さん」


 郷御前の眉がぴくりと動いた。


「誰のことですの?」


「げっ」


 三郎はうっかりあだ名で呼んでしまったことに気づいたが、もう遅かった。


「なぜ、そのような名前でお呼びになるのかしら?」


「いや、その……立派に帳面をつけてそうだなって……」


 三郎が情けない声になりながら白状すると、郷御前は「勝手になさいませ」と吐き捨てた。三郎は震え上がっている。


 小さなやり取りだった。牛若の重い沈黙を壊しきるほどではない。だが屋敷の者たちはその声で、ようやく少しだけ息を吸えた。


 廊の奥から、酒の匂いが流れてきた。


「どうだ、お前の兄は? さすがに許したであろう」


 ふらついた足音が近づく。


「その前に叱られたかもしれぬがな」


 片手に瓶子を下げた行家が、柱に肩を預けて笑っていた。いつもより顔が赤い。目も据わっている。


 牛若はその様子をぼうっと眺めた。


「叔父上……」


 三郎と忠信が同時に顔色を変えた。行家は瓶子を落としそうになる。郷御前や行綱の前では変名の「義盛」と呼ぶべきだった。


「こらっ」


 その様子に郷御前は表情を変えなかった。行綱だけが「叔父上?」と小さく呟く。


 行家は慌てて咳払いをし、すぐに牛若へ無遠慮に顔を寄せて話を戻した。


「まあよい。だがその顔……まさかお前に会いもせず、ただ追い返したのではあるまいな」


 牛若の目がまた潤んでいく。


「……はい……」


「ん、叱られたのか」


「いえ……その、会うことは……」


 三郎が行家の前へ出た。


「あんたはいい加減黙ってろ」


「ふふふ」


 行家の口元が大きく歪んだ。


「――ついにあの頼朝め、九郎にも本性をあらわしおったか!」


 遠慮のない声が腹から周囲に響く。酒の匂いが強くなる。


「まあお主も妙な行いがあったのは確かだが、もしお前がおらず、あの無能な範頼だけであったら、何十年も戦が続いたはずじゃ」


 行家はガハハハと面白そうに笑った。


 牛若は俯いたまま、何も言わない。


 三郎の手が太刀の柄へ近づく。鷲尾は本気で嫌そうな顔をしている。忠信の目も冷えきっていた。


 行家はいっそう高らかに笑い始める。


「ハハハ! わしはな、お前が頼朝に冷たく叱られて、頼朝の冷酷さを思い知るがよいと、密かに期待してはおった」


「義盛殿」


 忠信が静かにその変名を呼んだ。


 行家は止まらない。


「だが、会いもせず、あれだけあいつのことばかり考えていたお前に全く顔を見せずにそのまま追い返すなど! そこまで冷酷で陰険な化け物のような対応をするとは、この悪どいわしでもさすがに思いつかんかったわ!」


 瓶子を持つ手が大きく揺れる。


「さすが頼朝、性根が腐りきった男じゃ! お前がおらんかったら、今頃、戦の下手なあいつはとっくに死んでいたであろうに!」


「義盛殿。言葉が過ぎます」


 忠信の声音は冷静さに努めているのが弁慶にも分かった。


「鎌倉殿は義経さまに、捕虜を処断まで護送する任務をお与えになりました。決してただ追い返したわけではありませぬ」


 駿河も一歩前に出た。


「九郎さまは鎌倉殿を慕っておいでです。無礼は慎まれよ」


 行家はまた笑った。


「はははは、それがお前たちの忠義か。ろくに家来もおらぬ一匹のわしとは、えらい違いじゃ」


 赤らんだ目が牛若を見た。


「九郎の顔を見て、あの頼朝を悪く言うなという方が、ずっと不忠ではあるまいかの」


「あんた、いい加減に黙れ」


 三郎の声が低くなる。


「いつも気持ち悪いんだよ」


 鷲尾も心底気持ち悪そうに言葉を投げつける。


 行家は構わず、瓶子を振り上げた。


「ガハハハハ! 頼朝がわしのような欲深な老体もどきに本性をあらわすのはよい! こんな青二才の九郎にまで同じことをやってのけるとは、さすが見上げた源氏の棟梁じゃ!」


 次の笑い声は途中で切れた。


 行家の身体はぐらりと傾き、柱にぶつかり、そのまま床へと崩れ落ちた。


「叔父上!」


 牛若はまたそう呼んで駆け寄った。もう死んだなら、それでよいと弁慶は思った。


 三郎がしゃがんでのぞき込む。


「こいつ、死んだか?」


 鷲尾も横から無遠慮にのぞき込んだ。


「その方が良さそうだよな」


 行綱は一歩引いて事態を眺めていた。


「いったいこの人は誰なのでしょう?」


 郷御前と静御前が行家のそばに膝をつく。郷御前はその口元に手を近づけ、冷静に一人で頷いた。


「生きておいでですわ。お酒の飲み過ぎですの」


 そして一同を鋭く見渡した。


「このお方が義経さまの叔父の行家殿ということなど、とっくに分かっておりましたわ。鎌倉殿から追われている方ですわね。こんな変な人を匿うことに、誰一人反対しませんでしたの?」


 三郎たちは答えられずに目をそらした。


 牛若は行家の顔を心配そうに覗き込んだままだ。


「郷、叔父上は……?」


「命に別状はございませんわ。ただ、義経さま。このお方の存在はもっと厳重に隠すべきですわ。もっと奥の部屋に、厳重に閉じこもっていただきましょう」


「そうか……」


 牛若は心配の表情のままただ頷いた。


「判官さま、こちらのお方は私たちが運びますわ」


 静御前が優しく言う。 


「どうか、今はまずお休みなさいませ。お顔が、ひどく青くていらっしゃいます」


 静は行家を眺めて眉を寄せる。


「この静にも、こんなおかしなお方をずっと匿う決断が良くないことは分かりましたわ。ただ、今さら外へ出すわけにもまいりません。奥へお連れしましょう」


 三郎と鷲尾がとっさに動こうとした。


 郷御前の声が飛ぶ。


「あなたさま方はいい加減に、牛若さまを見ていなさいませ」


 三郎も鷲尾も情けなく「はいっ」と足を止めた。


 郷御前と静御前は、酔い潰れた行家を女子の力で手際よく奥へと運んでいく。瓶子だけがその場に転がったままだった。




「さすが帳面女(ちょうめんおんな)さん、全部知ってやがったか……」


 三郎は行綱に顔を向ける。


「あんたも黙っててくれよな」


「それがしは義経さま以外に興味はございませんので」


 本当にどうでもよさそうな表情ではある。


 弁慶は、行家の消えていった廊の奥を見つめていた。


 あの酔っ払いはいつも不潔だ。酒臭い。口も軽い。ろくでもない男だ。だが、頼朝について言ったことは全て正しい。


 頼朝は牛若に会いもしなかった。叱りもせず、ただくだらない仕事だけをよこした。行家の罵倒を聞いて、胸が少し晴れそうになる。それが弁慶にはかえって腹立たしかった。


 よりにもよって、あの汚い男と同じ方向に怒りが向いているのだ。


 弁慶は長刀の柄を握り直した。牛若はただ呆然と立ったままだった。




 行家が奥で寝息を立て始めた頃、門の方から控えめな声がした。


「多田行綱さまへ、急ぎの文にございます」


 よく鎌倉から来ていたような、不遜な物言いではない。


 行綱が駆け寄る。


「それがしに? おお」


 行綱にとって見覚えのある男のようだった。使いは所領の代官から差し向けられたのだろう。泥のついた草鞋のまま庭先で膝をついた。


 文を受け取った行綱の顔から、みるみる血の気が引いていく。


「我らが摂津(せっつ)の、多田荘(ただのしょう)が……?」


 近くにいた牛若は首を傾げていた。


「行綱?」


 行綱は文を握りしめたまま、しばらく声を出せずにいた。


「……その……鎌倉方が、多田荘を召し上げにきたと申しておりまして。……それがしに、追放の沙汰が」


「何だって……? 追放かよ……!」


 すぐ隣に来ていた三郎の顔から、さっきまでの軽さが消えた。


「義経さま」


 行綱は深刻な声で牛若の前に両手をついた。


「もう手遅れかも知れませぬが、それがしはとにかく領地へ帰り、ことの次第を確かめてまいります」


 その声はわずかに震えていた。


 牛若は心配そうに行綱を見た。


「行綱、それは間に合うのか?」


 今の心地でどこまで行綱の言葉を聞いているのかは分からないが、ただ行綱が困っていることだけは肌で理解したようだ。


「義経さまはご安心なさいませ」


 行綱は力強く答えた。今の牛若に心配はかけられないと思ったのだろう。


「ならば、すぐ戻るがよい」


 牛若の表情はあどけなかった。


「また……戻ってくるのか?」


 行綱は意味もなく瞬きを繰り返した。


「……はい、もちろんにございます。義経さまのお屋敷を守る役目、決して忘れませぬゆえ」


 そばに来た静御前が、行綱の前に進み出た。


「どうか、お気をつけくださいませ」


 声は穏やかだった。


「戻られた時には、またお食事を一人分増やしますわ」


「あ、ありがたき幸せ……!」


 行綱は涙ぐみながら深く頭を下げた。


「必ずや戻ってまいります」


「うむ。待っているぞ」


(戻ってこなくても一行に困らぬ。我が身の心配をすればよい)


 弁慶は心の中で吐き捨てながら天井を見上げた。歪んで見えてきそうになる。


 多田行綱は過去の罪が多い男だ。頼朝が単に危険視して追放しただけかもしれない。だが、一ノ谷で牛若を助けた男でもある。この時期にまた一人、六条堀川から男が去る。


 牛若本人へは何も言わず、会うことも説明することも避け続ける。そのくせ、周囲の者だけは一人ずつ削っていく。景季、景高、行綱。次は誰だろう。


(陰険な策謀家め。人の心を持たぬ化け物めが)


 今になって思い返せば、牛若が鎌倉にいた時でさえ頼朝がほとんど牛若に会おうとしなかったのも頷ける。あの汚物にとって、全ての行いが不潔な政治でしかなかったのだ。


 行綱は荷をまとめると、去り際にもう一度牛若に平伏する。


「それでは、行ってまいります」


「うむ。私は待っているぞ」


 牛若の声は穏やかだった。行綱はさぞ感動していることだろう。


 牛若は行綱を一人の親しい男として認識しているから、それなりに優しいだけだ。この優しい声音に渇望が含まれていないことに、この裏切り魔の男は気づかないにちがいない。


 行綱は顔を上げ、涙で濡れた目のまま笑った。やがて門の外で馬の足音が遠ざかっていく。


 三郎は門の方を見たまま、小さく息を吐いた。


「周りのやつ、どんどん減っていくな……」




 日にちが経つと夏が深まってきた。


 都の暑さは庭の白砂までじりじりと温める。昼間は蝉の声が屋敷の屋根から降り、夕方になっても板の間には熱が残った。


 壇ノ浦以来戦もない。牛若は都で検非違使の任務を淡々とこなし続けていた。法皇の召しに応じ、市中へ出向く。表向きには、日々穏やかだった。


 頼朝からの言葉は何も来ない。


 屋敷の外で馬の音が遠くから聞こえるたびに、牛若は一瞬だけ顔を上げる。無関係と分かると、その目は静かに伏せられた。蝉の声が高くなり、夜の風が少しだけ湿りを失っても、兄の声だけは届かなかった。


「失礼いたします」


 今日来たのは法皇の使いのようだ。


「法皇さまのお呼びにございます」


「……承知いたしました。すぐに参ります」


 牛若は姿勢を正して御所へと向かう。穏やかな日常には慣れつつあった。弁慶と三郎も後を追う。


 白砂の照り返しが強い日だった。弁慶と三郎は庭先に控え、奥へ進む牛若の背を見ていた。


「九郎、喜ぶがよい」


 法皇の声は妙に明るかった。


「鎌倉の頼朝より、そなたの任官の推挙があったのじゃ」


「えっ」


 牛若が驚愕した声で顔を上げる。


「兄上、から……?」


「うむ。そなたを伊予守(いよのかみ)に、との申し入れじゃ」


 牛若のちょっぴり弾む吐息が聞こえる。牛若の目に、かすかな喜びが差した。


 三郎が弁慶の耳元で「すごいじゃねえか……!」とぶちまける口を弁慶は無遠慮に押さえつけた。握り拳に力が入る。


「兄上が……私を……推挙してくださったのですか」


 信じられないといった口調だ。なるほど、弁慶にも信じられはしない。


「左様じゃ」


 法皇はうれしそうな声を隠そうともせず頷いた。


「先日のことは朕も心を痛めておったが、そなたを傷つけたくなかったゆえ、これまで黙っておった。朕も、今回のことはうれしいぞ。……九郎の働きに、頼朝もようやく思い至ったのであろう」


 牛若は弾む息を整えていた。喜んでいるように見える。だがそこで、視線が地面に落ちた。


「四国の伊予は……遠い国にございますね」


 それは小さなか細い声だった。


(なるほど……)


 弁慶は頼朝そのものを吐き捨てたくなった。伊予守という遠い国の名は、追放にも許しにも見えるのだ。

 こんな、心をもやもやさせるような陰湿な人事があるだろうか。あの何の戦功もない範頼は、牛若よりずっと前に鎌倉に近い三河の国守になっている。牛若はあれだけの戦功がありながら今までずっと無視され続けてきた。それが、あの魂を賭けた手紙を払い除けた後に、遠い四国の国守に推挙するというのは異常極まりない。


 牛若は、黄瀬川で初めてあの冷酷極まりない兄に会った時から、ずっと兄との同居を楽しみにしていた。この六条堀川の屋敷も、その妙な準備が済んでいったいどれだけの月日が経ったことだろう。


 牛若はずっと戦だけを続けさせられた。その間範頼は鎌倉に帰ってさえいたのに、牛若はずっと頼朝に会うことを許されなかった。頼朝は牛若に褒美をやったと見せかけて、遠い僻地に追いやる決断を冷酷にも下したのだ。


(どこまでも陰湿な男め)


 もし牛若が腰越ではっきりと頼朝に捨てられたなら、弁慶はその場で主を受け止めることができた。だが、あの男は、あの清らかな泣き声の、弁慶が心を込めて清書した手紙を無視し、捕虜の処理というくだらない任務だけよこして都へ追い返し、またこうやって不潔なものだけを投げてくる。


「そうか――確かに伊予は遠いの……」


 法皇の声も寂しそうに沈む。官職の兼任は前例がない。牛若は検非違使の任務を解かれざるを得ない。


 決して気に入りはしないが、この、父親の真似事をしようとするねっとりとした法皇の方が、鎌倉という下界の極悪な男よりもずっとましであることは確かだ。それをあの不潔な男は巧妙に引き剥がそうとしている。牛若はますます兄のことを忘れられず、これまで以上に苦しめられる。今まで以上の地獄になるにちがいない。


 牛若は悲しそうなため息をついたまま沈黙していた。あまりにも哀れだった。弁慶の胸の中をどす黒いものが駆けめぐっていく。


「九郎……」


 法皇はただつぶやくと、老人の哀愁が漂うため息を遠慮がちに繰り返した。弁慶はそれを遠くからじっと見据えていた。


「――うむ、九郎。朕は決めた……!」


 突然声を大きくした法皇に、牛若の華奢な背中がびくついている。


「法皇さま……?」


「ふふふ、朕もなぜこんな簡単なことに気づかなかったのか。伊予守には代官がおればよいのじゃ。武士の世界では何と言うか知らぬが、朝廷や貴族のならわしでは目代(もくだい)と呼ぶ。そなたは都に検非違使として留まり、ただ目代から収入を受け取るだけでよい。どうじゃ? 実に簡単であろう」


 新しい玩具を見つけた子供のような無邪気な声で、法皇は牛若に力強く言ってみせる。


「目代……?」


 牛若が驚いたように顔を上げる。


「私は、このままここに……?」


「うむ。そなたは伊予守になりはするが、検非違使の任務もこれまで通り励むのじゃ!」


「あ……ありがとうございます……!」


 庭先で、弁慶は長刀の柄を力強く掴んでいた。


(この老人、正気を失いおったか……)


 伊予守となりながら、検非違使を続ける。全く前例のないことだった。牛若かわいさのあまり、法皇は何百年も続く慣例をぶち破ることにしたのだ。頼朝が全く予想もしないことをやってのけた。


 心臓の鼓動が異常に高まるのを、抑えきれない。


 呼吸をわずかに乱しながら、弁慶は牛若の顔を見ようと首を伸ばす。遠くの主の表情を見ることは叶わない。


 弁慶はあのいまいましい比叡山で、有力貴族の官職や任国(にんごく)の噂に敏感で賄賂を企む欲深な生臭坊主を散々見てきたから、偶然この長年の慣例を知っているが、天界の稚児はそうではない。いくら教養が深くとも、生まれながらに無欲な牛若はこのくだらない慣例の知識を持つにはあまりにも清らかすぎる。


 牛若は、法皇がやってのけたことのおそろしさを全く知らないにちがいない。法皇の声の、温かさだけを受け取っているのだ。法皇もおそらく、ことの重大さを分かっていまい。


 弁慶は不思議と気が昂るのを抑えることができそうになかった。


「都には、これからもそなたが要るのじゃ」


 法皇の声はねっとりと柔らかみを帯びていた。


「朕にも、そなたが要る」


「あっ……」


 気づくと法皇は、牛若の身体をそっと抱き寄せていた。弁慶はその苛立たしい光景から目をそらしたが、今だけはこの王者が正気を失ったことをさわやかにさえ感じていた。


 戸惑う牛若の吐息が聞こえるが、うれしさを隠しきれていない。子供の呼吸だ。


 弁慶は庭先で深く息を吸い込んだ。三郎も感慨深そうに横で何かを呟いているが放っておく。


 あの鎌倉の不潔な男は牛若を初めて推挙した。褒美の形で遠い伊予なんかに追い払えると、汚物の浅知恵を働かせたにちがいない。だが、あいつの狙いは外れた。


 頼朝は、今度こそ怒る。


(こそこそと、訳の分からぬことを陰湿に続けた報いであろう)


 弁慶の喉の奥が熱くなる。


 法皇の腕の中で、牛若は安心している様子だった。


 庭の白砂に、蝉の声が降っていた。弁慶の握った手の甲を、生温かい風が通り過ぎていった。

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