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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第三部 栄光の空洞

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第六十二話 腰越

 六条堀川の屋敷は、梶原父子が去ってからさらに静かになった。


 昼近く、門の方から大きな声がした。


「いやあ、都も静かになりましたな」


 市中へ買い物に出ていた多田行綱が、荷を抱えて戻ってきた。庭先へ入ると、牛若に向かって深く頭を下げる。


「義経さま。御家人の方々も、ずいぶん都を去られたようでございますな。市中も、少しばかり風通しがよくなったように思えます」


 三郎が眉を上げた。


「それがどうしたんだよ」


「妙な話を聞きましてな」


 行綱は荷を置き、声を少し落とした。


「鎌倉殿より、西国に残る御家人たちへ、義経さまの下知に従うべからず、との沙汰が回ったとか」


 庭の空気がそこで止まった。牛若がゆっくりと行綱を見る。


「私の下知に、従うな……?」


 不思議そうな、不安そうな、それでいて怯えの混じった声だった。


 三郎が身を乗り出す。


「何だよそれ。随分嫌味な命令じゃねえか」


「義経さまには何も言ってこないのにさ……」


 鷲尾も納得いかない様子だ。


「やり方が陰湿な気がします」


 忠信が静かに言うと、駿河も「まさに」と強くうなずく。


 一方、行綱はからっとした笑い声を立てていた。


「それがしは鎌倉の御家人ではござらんので、そんな命令は関係ありませぬ。ここのみなさまもですな。わはは」


 行綱の笑いに、忠信と駿河は気まずそうに目を合わせていた。事態はそんな単純なものではないはずだ。


「――義経さま、それはゆゆしきことですわ」


 郷御前の声が、廊の方から届いた。数歩近づいて立ち止まる。


「義経さまを直接叱ってはおられないものの……義経さまに従う者を、先に引き剥がしておいでなのが不気味ですわ」


 牛若の唇がかすかに開いた。


「兄上は、私には何も……」


 その声が途中で止まる。


 弁慶は長刀の柄に触れた。鎌倉は、もう牛若を切る方へ動いている。


「兄上は……」


 同じつぶやきを繰り返し、牛若の息が上がるのが分かった。


「なぜだ……兄上は私を……叱っても下さらぬ。これまでの労いなど、なくてもよい。私がもし兄上を傷つけているなら……私を叱責して下さればよいのに」


 牛若は泣いてはいない。泣くのを懸命にこらえていた。屋島で継信が息を引き取った時のようには泣けずにいる。泣くのが怖くてたまらないほどに、牛若は全身で怯えきっているのだ。


 三郎たちも牛若の様子を見ておろおろするばかりだ。牛若は何度も何かを言いかけてはやめる。やがて深く息を震えながら吸い込んだ。


「――兄上に、会いに行く」


 庭先にいた者たちがいっせいに主を見る。


「牛若さま……?」


 三郎がつぶやくと、牛若は「ああ」と震える声で頷く。目は真っ直ぐ遠くを見つめていた。


「会えば、分かってくださるはずだ。私は、兄上に背いてなどいない。私は兄上のために生きてきた。兄上は……私の声を聞いておられぬだけだ」


「行きましょう、牛若さま」


 三郎が力強く言うと、鷲尾が「俺も行きます!」と叫び、忠信と駿河もうなずく。


「鎌倉では牛若さまのお兄さま、ちょっとは優しそうでしたからね。それがこんな……悪いやつに騙されてるんじゃないですか?」


「悪いやつ?」


 鷲尾が首を傾げると、すかさず三郎は閃いたように「そうだ!」と声を張り上げた。


「帳面じじいの変な報告とかを信じたんじゃないですかね! それなら筋が通ります」


「なんと姑息な」


 忠信は景時のことを思い出したようで、嫌悪感を剥き出しにした表情になっていた。


「でも帳面じじい以外に牛若さまを悪く言うやつはいないはずですから」


 三郎は自分で言って安心したようで、「大丈夫に決まっています!」と叫んでみせる。


「……行くなら、備えましょう」


 駿河の思慮深い声に皆が反応する。


「平宗盛清宗父子をお連れしてはいかがでしょう」


 駿河は慎重な面持ちで言った。


「鎌倉殿へお目通りする名目にもなります。手土産、と申しては畏れ多いが……捕虜となった平家の棟梁父子を無事にお届けするとなれば、道は開きましょう」


「そ、それはよいな……!」


 牛若の声が一気に明るくなる。


「宗盛殿と清宗殿をお連れして兄上にお会いし、平家を討った時の土産話も、兄上に直接申し上げられる」


「……はい」


 駿河は笑顔になった牛若からは目をそらして目を伏せた。深刻な事態がうまくいく秘策とまでは思えていない様子だ。


「そうと決めたら、出立の用意を進めよう……!」


「はい、牛若さま……!」


 牛若の必死な声での決意に、三郎がすかさず同調し、他の者も一斉にうなずいた。




 出立の支度は急に進んだ。牛若は出発前から目元を潤ませ、何度も門の方を見た。


「義経さまには、他意がないですもの」


 郷御前は強い声で言った。


「堂々と申し開きしてきたらよろしいですわ」


 言葉はきっぱりとしているが、冷徹な中にも牛若を案じる心が見え隠れする。


 静御前は牛若の前へ進み出た。


「判官さま。私には母しかおりませぬが、血のつながった相手を疎ましく思う者など、この世にはおりませんわ」


 牛若は静を見つめて微笑む。


「お兄さまを想うそのお気持ちを、まっすぐにお伝えなさりませ。必ずや伝わりますわ」


「……静は、優しいな」


 牛若のつぶやきがいつもより重く落ちると、静はうれしそうに牛若の袖を手の平に包み込んだ。。


 郷御前は行綱へ目を向けていた。


「多田殿」


「はい」


「あなたさまの留守番の任務は、とっくに終わっておりますわ。ご領地か、都の空き家に戻られては?」


 静御前も首を縦に振る。


「お食事の用意が、一人余分ですわ」


「さようですね」


 準備を手伝っていた磯禅師が後ろで頷く。


「引き続きこのお屋敷の守りを担当させて頂きたく」


 行綱は任せてくださいと言わんばかりで答える。


「所領には代官がおりますゆえ。せっかくの機会、もうしばしここで義経さまの留守居をさせて頂きたく」


 郷御前はうんざりしたようにため息をついた。


 行綱は牛若へ向き直り、まっすぐに頭を下げる。


「義経さまの屋敷は、この行綱が守りまする」


 牛若の表情が少し緩んだ。それを見て行綱はうれしそうに笑う。


 その時、外から駆け寄る足音が聞こえた。皆が振り向く。


「兄上……!」


 庭の端から現れたのは一条能成だった。公家の袖を整え、深く頭を下げている。案じるような、まっすぐな目をしていた。


「申し開きに東へ行かれると聞き及びました。どうか兄上、お気をつけて」


「能成……」


 牛若は少し驚いた表情で能成を見ていた。


「武家のことは、私にはよく分かりませぬが」


 能成は言葉を選ぶように続ける。


「兄上の心の言葉が、鎌倉のお方に届くことを願っております」


「……うむ」


 牛若はわずかに微笑んだ。そっと口を開いて何かを言いかけたが、すぐにそれを閉じた。不思議な呼吸の間の後、また口を開きかけたが、そのままうつむいて口ごもってしまう。


「兄上……?」


 能成が小さく首を傾げると、牛若は「……大丈夫だ」と微笑を返して虚空を見つめた。


 弁慶は分かっていた。牛若は母の常盤のことを聞きたいのに、言えずにいる。牛若の胸の奥にあるものが、うまく言葉にならない。言葉にする勇気が、天界の稚児にはないのだ。


 その幼さと知恵のなさに、弁慶は密かに安堵せずにはいられなかった。


「――九郎」


 酒の匂いの混じる声が奥から届いた。


 行家が柱にもたれながら立っていた。顔には酔いが残っている。


「あの頼朝も、一番の功労者のお前を、さすがに悪くはすまい。悪くすれば、御家人どもが怒るであろう」


「あんたもたまにはまともなこと言うじゃねえか」


 三郎が褒めると、行家は「わしはこの屋敷で一番まともじゃ」と胸を張ってみせる。


 その様子を見た牛若は、おかしそうな笑い声を立てていた。


 行綱が前へ進み出る。


「幸運を祈っております」


 その声は実にまっすぐだった。


「義経さまの清らかな心が招いた奇跡は、これまで皆が何度も見ております。必ずや、兄君も分かってくださるでしょう。屋敷はそれがしにお任せを」


「うむ」


 牛若は笑顔でうなずいた。




 残る者たちとの別れを終えて、牛若は都の出口で従者たちを待たせ、弁慶だけを伴ってそのまま時忠父子の宿所へ向かった。


「時忠殿、私は鎌倉へ行ってまいります。兄上に、誠意を尽くすのです」


「……さようでございますか」


 時忠は息子の時実に袖を握りしめられたままつぶやいた。牛若の事情を知っているようだが、これほど反応に困る言葉もないだろう。自分の家を滅ぼし捕虜にしている総大将が、兄に誠意を尽くしてくるなどと言って、どう答えれば正しいか、弁慶にも分かりはしない。


 時忠は深く頭を下げていたが、以前会った時よりも表情に不安が滲んでいた。わらび姫を差し出し、義理の父のように振る舞おうとした策が、鎌倉に漏れたのではと、その黒い腹で心配しているにちがいない。


「……九郎殿のお心は、まっすぐでございます」


 その不思議な言葉は、己の保身と、牛若への奇妙な感情から生まれたものらしかった。


 牛若はその言葉は解さずにそっと微笑んだ。


「私が留守の間、時忠殿と時実殿は、わらび姫の邸へ移るのがよいでしょう」


 時忠が驚いたように顔を上げた。


「九郎殿……?」


「留守中は、娘殿とおられるのがよいはず。時実殿と三人でおられれば心強いことでしょう」


 時忠は面食らった表情になりかけたが、すかさず深く、とにかく深く頭を下げた。


「……ありがたき、お心にございます」


 牛若は時忠父子を、そのままわらび姫の邸へ人を忍んで連れて行った。


 わらび姫は牛若が来たことに頬を染めたが、牛若は「また戻るぞ」と笑顔で言い残し、そのまま立ち去ってしまった。弁慶はそれを門の外から眺めるだけだった。




 出立前、牛若は法皇にも挨拶に向かった。


 六条西洞院の御所は、いつものように輝く白砂をたたえていた。弁慶は庭先に控えて様子を見守る。牛若が御前に進むと、法皇はすぐに身を乗り出した。


「九郎、また東へ行くのか……?」


 その声には老いた者の寂しさが滲んでいた。


「はい」


 牛若は頭を下げる。


「……宗盛父子を伴い、兄上に直接申し開きをして参ります」


 法皇は黙って牛若を見た。しばらくして、ゆっくりと手を伸ばす。


「……あっ」


 牛若は、その腕に抱き寄せられていた。


「朕にはよく分からぬが……そなたの無事を祈っておる。頼朝も、平家を討ち果たしたそなたを悪く思うことはないはずじゃ」


「……はい……」


 牛若はうまく声を出せずにいた。この場にいても、牛若は兄に怯えきっているのだ。


「――今まで、朕にはそなたに関する連絡がろくになかった。任官の件も、頼朝は何も言ってきておらぬ」


 法皇の声が、牛若の髪の上へ落ちていく。


「妙な疑いがあっても、会えば全て晴れるであろう。気をつけて行ってくるのじゃ」


 牛若の肩から少し力が抜けるのが、弁慶には分かった。


「……はい」


「朕は寂しくてならぬ」


 法皇はそう言って、もう一度だけ牛若を強く抱きしめた。




 捕虜の宗盛父子も伴い、一行は東へ向かって出発した。


 平宗盛は青ざめ、子の清宗は父のそばを離れようとしなかったが、二人はそっと引き離された。宗盛は輿に乗せられ、清宗は父の近くで馬に揺られる。輿や馬を扱う男たちは、都に残っていた坂東武者の下男だった。


 表向きは平家の棟梁父子の護送だ。


 都の温もりが背後へ遠ざかる。牛若は時折、前を見ては、また馬の手綱を握り直した。わけもなく息が上がっているのが分かる。希望と怯えが、交互に胸へ上がってくるのだろう。


「……弁慶」


 牛若の声はやはり震えていた。


「はい」


「兄上は、お会いくださるだろうか」


 弁慶はすぐには答えなかった。


「……誠意が伝わるとよいでしょう」


 牛若は少し黙り、ため息をつき、また口を遠慮がちに開く。


「兄上は……私の何に、怒っておられるのだろう」


 その問いに、弁慶は答えられない。


 沈黙が続いた。


「牛若さまには、他意はございませぬので」


 弁慶は力強く言った。郷御前の言葉を借りたような形になったのが不快だった。


 三郎たちも牛若の顔をずっとうかがいながら馬の歩みを進めている。


 一度も直接苦言を言ってこない相手に、申し開きをさせられる。そんな場を生み出す冷酷な兄など、さっさと見切りをつければよいのではと言いたくはなる。


 頼朝は牛若の前で泣いてみせたことはあるが、牛若のような清らかな天界の稚児の心とは異なる、不潔な涙にちがいない。


 頼朝が牛若を完全に断ち切っても、自分が全て抱き止めればよい。この道中は弁慶にとって、さわやかでさえあった。




 鎌倉が近い腰越(こしごえ)の宿所前は、海の匂いがしていた。


「義経殿」


 弁慶はその声に少しだけ聞き覚えがあった。頼朝の政治を補佐しているという、北条時政の姿だった。


 年を重ねた男らしい隙のない所作で、牛若へ一礼する。


「宗盛殿と清宗殿の身柄は、こちらでお預かりいたします」


 その声は冷たかった。


「二人はこちらがお連れいたします」


 牛若は動揺したように瞬きをした。


「私は……?」


 それはひどく頼りない声だった。


「私は、兄上にお会いしに来たのです」


 時政は頭を下げた。


「義経殿は、ここより先へは進まれてはなりませぬ」


「なにゆえ……!」


 牛若の声は怯えきっていた。ここまで明確に拒絶されるのは初めてのことにちがいない。


「鎌倉の中へは、お入りになれぬとの御沙汰にございます」


 弁慶は拳を握りしめたまま、牛若の荒い息遣いに耳を済ませていた。


「兄上に、会えぬのかっ……」


「それがしは命令を伝えることしかできませぬ。義経殿は、ここでお待ちなされよ。宗盛父子だけをお受け取りします」


「……はい……」


 呆然としたまま、牛若はか細い声を漏らした。


 駿河が手際よく動き、宗盛父子は鎌倉方へ引き渡された。


 宗盛の足が震えている。子の清宗は父の袖を握って離れまいとするが、そのまま時政の従者に連れて行かれた。


 その場には牛若一行だけが取り残される。弁慶はその息の詰まるような空間でただ牛若を斜め後ろから見守っていた。


「あの、牛若さま……」


 三郎も、今回ばかりは慰めの言葉がなかなか出てこない様子だった。


「予想よりあの帳面じじいが手を回していたみたいですが……牛若さまは何も悪いことをやっていませんから。……待っていれば必ずうまくいくはずです!」


「そうだ!」


 鷲尾も同調すると、忠信も「時機を待ちましょう」と凛と言い放ち、駿河も力強くうなずいた。 




 腰越の宿所は立派な館ではなかった。海が近く、潮の匂いが畳の端まで入り込んでくる。


 牛若は鎌倉の方角を見つめたまま立ち尽くしていた。


「私は……なぜ……なぜ、会えぬのだ……」


 兄上、つぶやきは風と共に消えてしまう。


 牛若の周りだけ、ずっと時が止まっているかのようだった。誰もが、牛若の横顔だけをさっきからずっと凝視して、その一挙一動に動揺させられてしまうありさまだった。


「兄……上……」


 か細い声と共に、静寂の中で嗚咽の音が響いた。ひと粒の涙が牛若のまぶたからこぼれ落ちた。


「牛若さま……っ」


 三郎がぎょっとした声を出す。鷲尾も、忠信も、駿河も、言葉を失った。


 弁慶は何も言わず、ただ拳を握りしめた。爪が肉に食い込んでいた。


 弁慶は牛若の背中に半歩だけ近づいた。泣き崩れたら抱き止められる距離で、弁慶は息を潜めながら天界の稚児の息遣いを凝視していた。

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