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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第三部 栄光の空洞

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第六十一話 鎌倉からの文

 六条堀川の屋敷は、数日前より少し静かになっていた。


 重忠も、高綱も、直実も、それぞれの所領へ戻った。景季と景高はなお出仕のたびに牛若のそばへ寄り、忠信も新しい官を得た身として、主の後ろに控えている。わらび姫の邸の手入れは進み、時忠の宿所へも、牛若は何度か足を運んでいた。


 門の方で硬い声がした。


「それがし、鎌倉からの使いにございます」


 庭にいた者たちの手が止まる。牛若が急いで駆け寄る。兄からの労いの手紙かも知れないと思ったのだろう。


 使者は重い文箱を抱えていた。後ろには、もう一人、巻物を入れた筒を持つ者が控えている。使者は庭先に進み、膝をつくと、まず牛若へ頭を下げた。


「鎌倉殿より、御家人の任官に関わる御沙汰にございます」


 牛若は首を傾げた。


「兄上から……?」


「沙汰とは?」


 さわやかな笑顔だった景季の顔が曇った。使者の声には祝いの色がない。


 景高は兄の半歩後ろで、静かに目を細める。忠信は牛若の近くに控えたまま、文箱を見ていた。


 使者は文を取り出した。


「まず、任官した御家人へ向けた御命を読み上げます」


 庭に風が抜けた。


 使者の声は抑揚なく続く。


「東国の侍のうち、官を受けた者どもへ。これより本国へ下ることを禁ず。京に留まり、朝廷の御役目に仕えるがよい」


 景季の眉が動いた。これは任官を讃える文面ではなさそうだと気づいたのだろう。


「官というものは、本来、長き勤め、または朝廷への重き奉仕によって受けるもの。鎌倉の許しなく官を受けた以上、すでに朝廷の列に連なった身である。ならば、東へ帰ることはならぬ」


 牛若はぽかんとした顔で使者を見ている。


 景高は袖の下で指をわずかに動かした。


「この命に背き、墨俣(すのまた)より東へ下る者あらば、本領を召し上げ、斬罪に処す」


 誰もすぐには声を出さなかった。


 墨俣は鎌倉からずっと遠い。都にかなり近く、東国への入り口でしかない。使者の言葉だけが、庭の上に重く落ちた。


 牛若はなお、意味を掴みきれていない様子だった。


「斬罪……どういうことだろう」


 その声はただ怯えていた。


「皆は、官を頂いて喜んでいたのに」


 掠れた声が落ちる。


「なぜ、叱られるのだ」


 使者は答えない。次の紙を広げた。


「添えの文がございます。ここにおられる方もありますゆえ、名ごとに読み上げます」


 景季が一歩前へ出かけたが、景高が袖をわずかに引いた。忠信は動かない。


 使者はまず、忠信の方を向いた。


「佐藤忠信殿の名前がございます」


 忠信のまぶたがぴくりと動く。


「兵衛尉忠信。秀衡(ひでひら)の郎等風情が衛府に任ぜられるなど、古来より聞かぬことである。身の程を考え、控えておればよいものを。衛府の官人のような顔をしておるのか」


 庭の空気がさらに重くなる。


 忠信は何も言わなかったが、目が一瞬だけ袖口へ落ちた。継信がいたなら目を合わせただろう。


 忠信はすぐに顔を上げた。


「承りました」


 それだけだった。困惑はしているだろうが、そもそも官位など忠信は何の興味もないだろう。


 使者は次の紙へ目を落とした。


「鎌倉殿は景季殿の名前も名指ししておられます」


「そうですか……」


 景季の肩が強張った。


「また、景高殿には次のように書かれております」


 使者は景高の方へ向き直った。


「兵衛尉景高」


 景高は静かに前を見る。


「顔つき、気色よろしくなく、もとよりよからぬ者と見ていたが、そんな者が任官するとは、まこと見苦しい」


 牛若がはっとした様子だった。俗世の言葉を解さない天界の稚児も、頼朝のひどい悪口にはさすがに気づいたようだ。


「兄上は、何を言っておられるのだ……?」


 声にさらなる怯えが混じる。


 三郎が庭の端から言った。


「要するに、景高は不細工なやつだと悪口を言ってるんですよ」


 一瞬、変な間が落ちた。


 続いて三郎が肩を揺らし、鷲尾がこらえきれずに吹き出した。忠信の口元も、ほんの少し動いた。駿河がすぐに皆を睨む。


「笑うところではないぞ」


「いや、だってよ」


 三郎が片手を上げる。


「景高が不細工って、目がどうかしてるだろ」


 忠信が静かに言った。


「人の容姿に触れるとは、鎌倉のお方も随分下品な方ですね」


 声は荒くないが、言葉はよく響いた。


「ほんと笑っちまうぜ」


 三郎はどうしても笑いを抑えられない様子だ。


 鷲尾がうなずきかけ、駿河にまた睨まれて口をつぐんだ。


(ふん。日頃から牛若さまのお顔ばかり眺めているお前たちが、どの口で言う)


 弁慶は心の中で吐き捨てた。


 景高は怒らず、静かに牛若の方を見ていた。


 三郎は景季と景高を見比べる。


「まあ、お前の兄さんはかっこいいから、顔への悪口がないのは当たり前だとして」


「うむ?」


 引き合いに出された景季が妙な顔をしたが、三郎は構わず景高へ向き直った。


「お前も一応美少年なのにな。あ、牛若さまは比べ物にならねえからな」


 景高は涼しい顔のままだ。


「……牛若さまは、美しゅうございます」


 その返しに、三郎がまた笑った。


 鷲尾は遠くを見つめながら首を傾げていた。


「頼朝さまって、そんなすごい美少年なのか」


「いや、そんな玉じゃなかったぜ。自分のことは棚に上げてさ」


 三郎は苦笑していた。


 駿河が短く咳払いしてそれを止める。


「とにかく、任官がお気に召さなかったようですね」


 その言葉に、牛若の肩が強張っていた。


「どうすれば……私も、任官してしまったが……」


 その怯えきった声に、三郎が慌てて首を振る。


「いえいえ、これは牛若さま宛じゃないですから。気にしなくていいですよ」


「そうか……」


 牛若は少しだけ息をついた。だが、頼朝の言葉そのものには怯えているらしい。目はまだ落ち着かない。


 景季が使者の前へ出た。


「私は納得できません」


 使者は顔を上げる。


「我らは、源氏の御曹司にお仕えしているのです。義経さまは鎌倉殿の弟君ではございませぬか。そのおそばにいることが、なぜ咎になるのです」


 景高も静かに続く。


「法皇さまより頂いた官で、義経さまと共に出仕しているだけにございます。鎌倉殿を軽んじる心など、少しもございませぬ」


 使者は困ったように二人を見た。


「それがしの役目は、伝達のみでございます」


 それだけ言うと文を畳み始めた。


「お待ちを」


 景季がなおも声をかけるが、使者は「伝達のみでございます」と言い残して去ってしまった。




 門の方から、重い足音が近づいた。


 景季が振り向く。景高もわずかに目を動かした。


 門を入ってきたのは景時だった。


 いつものような仏頂面ではある。だが顔色が悪い。目の下に濃い疲れが出ていた。


「父上」


 景時は牛若の方を見ず、息子二人だけを見る。


「景季、景高。支度せよ」


「支度とは?」


「鎌倉へ下る」


 景季の顔が強張った。


「なぜです。父上、我らはまだ」


「言い訳は要らぬ」


 景時の声には、いつもの乾きがあるが、力が少し足りない。


「誠心誠意、詫びるのだ。お前たちだけなら墨俣で追い返されてしまうゆえ、わしが横で取り成す」


 景高の目元がわずかに揺れた。


「父上、我らは鎌倉殿に背く心など」


「分かっておる」


 景時は低く言った。


「だが、鎌倉殿のお怒りは深そうじゃ。そなたらが己の非を認めねば、どうにもならぬ」


「非など」


 景季が食い下がる。


「義経さまにお仕えしたことが、非なのですか」


 景時の口元がきつく結ばれた。


「景季」


 声が少し大きくなる。


「今は理屈を申すな」


「しかし」


「命が惜しくば、黙って従え。これは一刻一秒を争う事態じゃ」


 景時の声には、父の重みがあった。追いつめられた親が、必死に子を引き戻そうとしている。


 景季は唇を噛んだ。景高は目を伏せたあと、牛若へ向いた。


 牛若は、呆然と二人を見ていた。


 景季は牛若に力強く向き直った。


「申し訳ありません。必ず戻りますので」


 無理に明るい声を出そうとしている。


「義経さまのおそばへ、私も必ず」


 景高は深く一礼した。


「また、義経さまの後ろに控えられますよう」


 牛若は静かに微笑みながら頷いた。


「また、共に出仕できるとよいな」


 景季が目を伏せた。景高の指は袖の下で震えていた。


 景時は息子二人を促す。


「さあ、急ぐのじゃ」


 景季と景高は、名残惜しそうに牛若を見た。


 それでも、景時の様子がただ事でないことだけは分かったのだろう。二人はそっと従った。


 梶原の三人が門を出ていく。


 景季と景高は最後にもう一度振り返った。二人の目には、初めて見える涙がうっすらと光っていた。




 牛若は門の方を見ていた。


「景季たちは、叱られに行ったのか」


 誰もすぐには答えなかった。


 忠信は主の近くに残っている。三郎も鷲尾も黙っている。駿河だけが、使者の置いていった文箱を見ていた。


「義経さま」


 郷御前が歩み寄ってきた。庭の端に立っていたらしい。使者の声も、梶原家の者たちの声も聞いていたようだ。


 牛若は振り向いた。


「郷」


 郷御前は一礼し、少し間を置いてから口を開いた。


「鎌倉殿にとっては、弟君への奉公かどうかではございませんわ」


 牛若は首を傾げる。


「御家人が、鎌倉殿を通さず朝廷から官を受けた。そのこと自体が、筋を外れておりますの」


 郷御前は文箱を見た。


「しかも、それが義経さまのおそばで起きていますわ」


 弁慶は黙って聞いていた。


「景季殿も、景高殿も、忠信殿も、鎌倉に背く心などありませぬ。ただ義経さまとの出仕を喜んでおられただけですわ。されど、鎌倉殿から見れば、御家人がご自身を飛び越えて朝廷へ連なったことになりますの」


 牛若の顔はまだ晴れない。天界の稚児に郷御前の言葉の意味は理解できないだろう。


「私も、叱られるのか……?」


 郷御前はすぐには答えず、ため息をついた。


「……妙ですわね。これほど怒っておられるのに、義経さまご本人には、何も仰せがないですわ」


 弁慶の指が、長刀の柄に触れた。その言葉だけが庭に残っていた。


 牛若本人には何もない。


 忠信も景高も景季も罰しておきながら、牛若の名は避けている。


(叱るなら、叱ればよいのだ)


 牛若は、景季と景高が去った門の方をまだ見ていた。


(頼朝は、まだ牛若さまを叱らぬ)


 弁慶は斜め後ろから牛若を見つめた。


(叱らずに、周りだけを削っていくのか)


 門の外から、遠ざかる蹄の音が聞こえた。牛若はまだ、その音の先を見ていた。

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