第六十話 姫の邸
六条堀川の屋敷では、朝から人の出入りが続いていた。
わらび姫を迎えるための邸宅は、所領へ帰った御家人が使っていた都の外れの古びた屋敷に決まった。板戸は歪み、庭の垣も少し崩れている。女が住むには、いくつも手を入れねばならない。
弁慶は庭先で、使いと職人に指図していた。
「雨の染みた板は替えよ」
「はい」
「門はそのままでは頼りない」
「承知いたしました」
職人が頭を下げて走る。
「弁慶さま」
それは冷徹な女のよく通る声だった。郷御前だ。静かな足音で近づいてくる。
「一体、何を考えておいでですの」
「……牛若さまのご命令であるゆえ」
この女に丁寧に話すのは気が進まないが、弁慶はかしこまった声を出した。
「それは存じておりますわ」
郷御前の目は少しも揺れない。
「外の者からどう見えるか、あなたさまは義経さまにご説明なさいましたの?」
弁慶は口を閉じた。答える気がしない。
「平大納言時忠殿は捕らわれの身。その娘を義経さまが迎え、邸まで用意する。周りの者がどう受け取るか、お分かりになりませんの?」
この冷徹な女にあれこれ話すのは面倒だ。
「……わらび姫を救うためである」
牛若の意図を半分だけ教えてやる。わらび姫、ではないが。
郷御前は眉ひとつ動かさなかった。
「義経さまはそうお考えなのでしょう。されど、周りはそうは見ませんわ。時忠殿と通じた。平家の残った者たちを抱え込もうとした。そう言う者が必ず出ますわよ」
沈黙を続ける。弁慶は牛若の壊れそうな心にしか興味はなかった。なるほど、世間ではそう見るのか。言われてみたら当たり前のことではある。
「義経さまに悪意がないことは、この私にも分かりますわ。されど、都の者も……鎌倉の者も、同じようには見ませんわ」
弁慶の腹の底が重くなる。
この妙な女は、冷たく吐き捨てるような声音でありながら、実は主を守ろうとしているのかもしれない。
「郷御前」
「はい」
「牛若さまを止められると思われるか」
郷御前は短く息を吐いた。
「止められませんわね。もっとも、あなたさまが止めておられないことこそが、私には気になりますわ」
いちいち不快なことをほざく女だ。
郷御前は構わず続ける。
「ですから、こちらで先に手を打つしか方法はございませんの。邸は人目につきすぎぬ場所。通う際には必ず信頼できる供を付けること。女房たちにも、妙な噂を立てぬよう言い含めなければ」
冷静な声で淡々と続ける。
「義経さまのお優しさを、誤解されてはいけませんわ」
弁慶は郷御前をじっと見据えた。
「分かった」
弁慶は低くずっしりと答えた。
「邸の手配は、そなたの言う通りに進めている」
郷御前はようやく一度だけ頷いた。
「それは良かったですわ」
その声は力強かったが、わずかな疲れが混じっていた。
その日も牛若は宮中へ出仕する。
忠信は少し後ろに控え、景季と景高はすでに門前で待っていた。二人とも、牛若と待ち合わせて共に宮中へ向かえることを、まだ飽きもせず喜んでいる。景季は牛若を見るなり、顔ぱっと明るくなった。
「義経さま、本日もお供いたします!」
「うむ」
牛若も穏やかに頷いた。
景高は兄より半歩引き、静かに一礼する。
「本日も、義経さまのおそばに」
三郎は門のかたわらでそれを見て、口を尖らせていた。弁慶は少し離れて立つ駿河を見た。
「そういえば、駿河」
「うむ?」
「お前の所領はどうなっている」
駿河は、意外そうに弁慶を見た。それから少し目を伏せる。
「それがしの名の通り、駿河のあたりに、ほんのささやかな土地があった」
「あった、か」
「ああ。もともとは、頼朝さまの屋敷仕えだ。親も家族もない。代官は置いていたが、未練というほどのものはない」
駿河の声は淡白だった。語るほどの思い入れもないのだろう。駿河にとって土地とは、名と過去に結びついたものではあっても、今すぐ戻りたい場所ではないようだった。牛若が、その場所を忘れさせたのだろう。
牛若たちが門を出ていく。駿河は、その背を静かに見送っていた。
弁慶は駿河の横顔を見た。
土地を持つ者が、土地のことを忘れている。景季と景高だけではなかったのだ。
門の外で、牛若の声が少しだけ聞こえた。景季が何かを言い、牛若が短く笑っている。その笑い声が遠ざかるまで、駿河は動かなかった。
夕刻近くになって、牛若は屋敷へ戻ってきた。
戻るなり、わらび姫の邸と、時忠の召し置かれた宿所へ向かうと言い出した。弁慶はすぐに長刀を取る。
牛若が門へ向かおうとした時、静御前が廊の先から現れた。
衣の音は軽いが、牛若の前に立った静の目には、いつもの柔らかさだけではないものがあった。
「判官さま」
牛若はそっと立ち止まった。
「静」
「わらび姫のもとへ行かれると伺いましたわ」
牛若は素直に頷く。
郷御前が知らせたのだろう。自分よりも効果的な者をよこしたつもりか。
「うむ。邸のこともある。時忠殿にも話さねばならぬ」
牛若はさも普通のことであるかのように、透き通った声で淡々と告げた。静はほんの少し目を伏せた。
「それは、おやめくださいませ」
牛若は不思議そうに静を見る。
「なぜだ」
静はすぐには答えなかった。白砂の方へ目を落とし、それからもう一度、牛若を見る。
「その姫君に会いに行かれることを、この私は喜べませんわ」
声は穏やかだったが、指先が袖の端を握っている。
郷御前の存在は許せても、得体の知れない平家の姫君に牛若を渡したくはないのだろう。まさか、牛若がその姫君ではなく腹黒い貴人を救いたがっているなど、夢にも思っていないにちがいない。
弁慶は黙ってそばに控えていた。
「静」
牛若の声は変わらず優しかった。
「私は、命を救いたいだけだ」
静のまつ毛が揺れる。
「時忠殿は、わらび姫が死罪になると泣いておられた。私は、それを見過ごせぬ」
「判官さまのお優しいお気持ち、静にはよく分かりますわ」
その声はひどく愛おしそうではある。
「それでも、別の女のもとへ通えば、女の私は傷つきますわ」
牛若はそっと歩み寄り、まっすぐ静を見る。
「心配せずともよい」
牛若に静の言葉が聞こえたようには見えなかった。
「静は、いつも美しい」
静の目元がわずかに緩んだ。慈しむような目だ。牛若には伝わらないと諦めたのかもしれない。
「……お気をつけくださいませ」
静は小さく頭を下げた。
「うむ」
牛若は頷いた。
「すぐ戻る」
静がそっと道を空けると、牛若はもう歩き出していた。
時忠の宿所へ向かう道は、夕暮れの気配を帯びていた。
通りの端に影が伸び、都人の声も少しずつ低くなる。牛若は迷いなく歩いている。時忠とわらび姫を救うため。それ以外のものは、胸に入っていないようだった。
弁慶はその斜め後ろを歩き続けた。
郷御前の言葉が耳の奥に残っている。
外から見れば、牛若は平家の父娘へ自分から近づいている。時忠の宿所へ通い、娘のために邸を構えた。
牛若の心にはただ救いたいという思いだけがあるのだろう。弁慶は歩みを進める牛若のあどけない表情を見つめていた。
「弁慶」
牛若が前を向いたまま言った。
「はい」
「わらび姫の邸は、静かな所がよいな」
「そのように手配しております」
「時忠殿も、安心するだろうか」
弁慶は少しだけ返事が遅れた。
「……安心、されましょう」
「そうか」
牛若はほっとしたような息を吐いた。
「ならばよい」
その背はまっすぐだった。命を救うつもりで歩いている。迷いはない。
弁慶は長刀を握り直した。都の風が、頬に冷たく触れていた。




