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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第三部 栄光の空洞

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第五十九話 新しい誘い

 出仕の帰り道も、景季と景高は牛若の隣でまだ嬉しそうだった。


 忠信も口数こそ少ないが、歩くたびに背のあたりへ力が戻っている。兄に見せたかった晴れ姿を、胸の奥に抱えているようだった。景季は何度も自分の袖を見下ろし、景高はそれを横目で見て、涼しい顔のまま口元だけを少し動かす。


 牛若を後からずっと護衛していた三郎はそれを見て口を尖らせた。


「いいよなあ。牛若さまと毎日一緒に宮中へ行けるなんてさ」


 声にはうらやましさが混じっている。弁慶は三郎には答えず、少し後ろを歩く駿河へ声をかけた。


「駿河、鎌倉の御家人というのは、何をもって鎌倉殿に従っているのだ?」


 駿河は一度、前を歩く景季と景高を見た。それから声を落とす。


「所領を安堵されること。あるいは、新たな土地を頂くこと。その土地が生きる糧。それと引き換えに、戦で働く。おおよそ、そのような筋かと」


「土地と引き換えか」


「その通り。家を残し、所領を守るために命を懸ける。東の武士は、そのような者が多く……」


 弁慶はそのまま黙った。


 三郎は土地ではなく、牛若の役に立つことしか興味がない。奥州の秀衡が差し向けた忠信も同じだ。弁慶自身も土地など求めていないし、第一土地などもらっても、僧兵の自分は何をしたらよいか分からないだろう。主のそばにいることだけが生きる意味になっていた。


(御家人どもは、我らと違って不潔なものよ)


 彼らは弁慶たちよりもっと重く濁った、不潔な交換条件の中にいるようだ。土地を得るために働き、家を残すために命を使う。もっとも、駿河は土地のことなどとっくに忘れているようだ。


 だが、景季と景高は今、土地の話など全く頭になさそうだった。


 彼らにとって官位など、紙に書かれたごみのようなものに過ぎないはずだ。土地のような実理がまるでない。それをあの二人は宝物のように喜んでいる。


 それは、牛若と同じ空気を吸えるからだ。


(土地を欲していたはずの者が、土地のことを忘れている)


 弁慶の胸の奥が静かに沈んだ。


(謀反なら、討てば済む。だが、これはもっと始末が悪い)


 景季が振り返り、また何かを牛若へ話しかけている。牛若は少し笑って頷いた。景高も、兄の半歩後ろで誇らしげに立っている。


 牛若は頼朝からの労いの言葉をずっと待ち続けるだけだ。御家人たちも頼朝の悪口を言うところは見たことがない。だがこれは、謀反よりずっとおそろしいことが起きているのではないか。牛若のせいで御家人の価値観が壊れていっているのだから。


 少しだけ背筋が寒くなったが、弁慶には関係のないことだった。もともとは御家人のはずだった駿河さえ、今は牛若のことしか考えられなくなっている。鎌倉の頼朝が何を考えようと、最後に自分が牛若を抱き止めれば済むことにすぎない。





 数日後、重忠、高綱、直実が六条堀川の屋敷へ訪れた。庭先で牛若の前に進み出ると、まず重忠が静かに膝をつく。


「義経さま。名残は尽きませぬが、所領より帰れとの声がしつこく重なっておりまして」


 声は穏やかだった。だが、袖の下で指が強く握られているのを弁慶は見た。


「義経さまの美しい風は、まこと忘れがたきものにございました」


 重忠は牛若をまっすぐ見つめる。牛若はそっと微笑みを返した。


「またいつか、同じ風の下にてお仕えできますよう」


 牛若は、言葉の意味を理解はしていないだろうが、重忠に笑顔のまま「うむ」と強くうなずいた。


 次に高綱が進み出る。


「義経さまの光を離れるのは、まこと口惜しゅうございます」


 高綱の目は、相変わらず牛若のまつ毛を見ている。


「されど、所領の者どもも、いつまでも主なきままには置けぬようでして……。この目に映した光は、国へ帰りましても忘れませぬ」


「うむ」


 牛若は高綱にも穏やかな笑みを返していた。


 直実は大きな身体で進み出ると、牛若の前でどかりと膝をつく。豪快な男のはずなのに、その顔には少し寂しさがあった。


「義経さま。若い御身を残して所領へ帰るのは、どうにも胸が落ち着きませぬ」


 そう言って、すぐに豪快に苦笑する。


「されど、国の者どもが、帰れ帰れとうるさいのです」


 牛若の表情が優しく緩む。


「直実の国の者たちは、直実を待っているのだな」


「さようで」


 直実は頭を掻いた。


「何かあれば呼んでくだされ。この直実、いつでも駆けつけまする」


「うむ」


 牛若は元気よく頷いた。


 三人はそれぞれ頭を深く下げ、名残惜しそうに門を出ていった。


 所領へ帰る。それが、御家人という者の自然な姿なのだろう。家があり、郎党があり、待つ者がいる。重忠も高綱も直実も、牛若に惹かれながら、それでも己の土地へ戻っていく。


 土地のことを忘れて牛若と一緒に出仕に励む、梶原兄弟たち二十人あまりの御家人こそ、普通ではないのだろう。弁慶はそのことに背筋が寒くなった。




 屋敷の空気が少し静かになった頃、庭先に使者が来た。使者は膝をつき、頭を下げる。


(たいらの)大納言(だいなごん)時忠(ときただ)殿より、義経さまへお目通りを願いたき由にございます」


 牛若は少し首を傾げた。


「時忠殿が、私に?」


「身内の者のこともあり、ぜひ一度、お目通りを願いたいとのことにございます」


 牛若は興味なさげにしばらく使者を見ていたが、やがて静かに頷いた。


「分かった。参ろう」


 弁慶は長刀を取って後を追う。三郎には付いてくるなと目配せをしておいた。


 平家の捕虜たちは、六条堀川の屋敷ではなく、都の一角に召し置かれた宿所に留められていた。処遇は鎌倉からの沙汰を待つ身だ。


 捕らわれた平家の者が、源氏の牛若を呼ぶのは妙であるにちがいない。だが牛若はもう歩き出していた。


 召し置かれた宿所は、屋敷というには見すぼらしい、静かな囲いの中にあった。


 門には警固の者が立っている。そこにある静けさは六条堀川のものとは違って緊張と威圧が立ち込めていた。閉じられた者たちの息が、簾の奥に沈んでいる。


 牛若が奥へ通されると、ひとりの中年の公達がゆっくりと頭を下げた。


「九郎殿。お目通りをお許しくださり、まことにありがたく存じます。平大納言時忠にございます」


 牛若は「九郎」という呼び方に軽く動揺してみせた。駿河が「九郎さま」と呼ぶのには慣れているようだったが。


 男の声は低く落ち着いている。敗れてなお、貴人としての形を保っていた。


 そばに若い青年が控えていた。顔を伏せ、父の袖の近くから離れない。捕らわれた身の重さが、肩を頼りなくさせている。


 時忠はその青年へ目を向けた。


「こちらは愚息の時実(ときざね)にございます。私と共に明日をも知れぬ身ではございましょうが、どうかお見知りおきくださいませ」


 時実は気遅れした様子で深く頭を下げた。声はよく聞こえなかった。


「時忠殿」


 牛若は少し首を傾げながら問いかける。


「本日は何用でしょうか」


 時忠はすぐには答えなかった。背後の簾へ目をやる。


 簾の向こうから、一人の姫君が静かに進み出て、時忠の横に膝をついた。


「こちら、私の娘にございます」


 時忠が言った。


「名は、わらび」


 わらび姫は牛若へ向き直り、丁寧に頭を下げた。


「わらびと申します」


 その声は細く上品ではあった。


 顔を上げた瞬間、わらびの目が牛若に触れた。袖先が、かすかに握られる。思っていた勝者とも、武将とも異なっていたにちがいない。目の前にいるのは弁慶だけが真髄を知っている、天界の稚児でしかないのだから。


 わらびは牛若の清らかな顔に見入っていた。憧れに近い熱が、まなざしの奥に差している。


 牛若もわらびを見た。目元にわずかな柔らかさが出る。


「……美しい」


 その声は、静御前に対する時よりはずっと無感動だったが、牛若はそれよりも、時忠の温かく穏やかな、包み込むような笑顔から視線を外せずにいた。


 時忠は深く頭を下げる。


「九郎殿は兄君のため、あれほどの武勇を振るわれました。敵ながら感銘を受けたのです」


「はい……?」


 牛若のまぶたがぴくりと動く。


「よくぞ、鎌倉の兄君のため頑張られました」


 その声は慈しむように温かかった。


 弁慶は長刀の柄を握りしめていた。この男は何かを企んでいるにちがいない。


「平家の者である私が申すのもおかしきことながら、九郎殿の働きは人智を越えております。まことに見事でございました。鎌倉の兄君も、さぞお喜びのことでしょう」


 牛若は黙っていたが、背中がたよりなく震えているのが弁慶には分かった。


 頼朝からまだ届いていない言葉が、敗れた平家の男の口から出ている。そのことが牛若の胸の中をかき乱しているのだろう。


 時忠はそっと手を伸ばした。牛若の手を取るわけではない。そこは貴人の奥ゆかしさだろう。届く寸前のところで、また深く頭を下げる。その所作には、こちらが危うく警戒を解きたくなるだけの柔らかさがあった。


 牛若は分かりやすい動揺を見せていた。こういう妙に温かい相手の仕草を跳ね除ける知恵は、幼い天界の稚児にはないのだ。


 時実は父のそばで、なお顔を伏せている。わらびはただ牛若をうっとりと見つめていた。


(……読めた)


 この男は、娘を牛若の妾にさせ、自身は義理の父のように振る舞い、死罪を免れることを企んでいるにちがいない。壇ノ浦で牛若が「兄上」と叫び散らかしながら舞ったのを見ていたのかもしれない、と思い至る。なるほど、牛若の弱みをよく心得た策だろう。


 時忠の一連のうさんくさい言葉で、牛若はもともとないに等しい警戒心を、すっかり解いてしまっているようだった。


「時忠殿」


 牛若がようやく声を絞り出した。


「私は……兄上のお役に立てたでしょうか」


 天界の稚児は、このような質問を自分が滅ぼした敵の捕虜にたずねることの愚かさに気づけない。その幼さをこそばゆく弁慶は思った。


 時忠の表情はどこまでも温かかった。


「もちろん鎌倉の兄君も、いずれ必ずお分かりになりましょう」


「そうでしょうか……?」


 牛若の声はか細く頼りない。


 わらびは牛若の無防備な顔をじっと見つめていた。時実は父の袖の近くで目を伏せたままだ。


「ええ」


 時忠はそっと牛若に身体を近づける。吐息の聞こえる距離だと弁慶は気づいた。


「九郎殿。もう戦は終わりました。もはや平家は源氏の敵ではありますまい」


 それはひどく悲しそうな声音に変わっていく。


「……わらびを殺されては、とても耐えられませぬ」


「わらび、姫を……?」


 時忠の強引な論理は弁慶でも首を傾げるぐらいのもの。天界の稚児には全く理解できないにちがいない。


「ええ。わらび姫はこのままでは死罪となってしまいます」


 言うなりさめざめと涙をこぼす。貴人の涙は真実を読み取るのが難しいが、牛若はすぐに絡め取られていた。


「どう、すれば……?」


 牛若も声が泣きそうになっている。言いながらも牛若はわらびに興味がないのが弁慶には分かった。牛若は情緒の言葉には弱い。目の前の時忠が泣いていることだけが、牛若をひどく動揺させているのだ。こうやって牛若の前でさめざめと泣く者など、これまでほとんどいなかった。


「わらびを」


 時忠は優しく、ゆっくりと、丁寧に言葉を紡ぐ。


「わらびを、九郎殿の妾として頂ければ、命は救われましょう」


 牛若はとっさに頷いた。


「そ、そんなのはたやすいこと。早速わらび姫をお迎えいたします」


 いきなりの言葉に、今度は時忠がぎょっとした様子だった。天界の稚児の清らかな心を甘く見ていたにちがいない。


「弁慶」


 牛若がその名を呼んでくれるのは久しぶりだった。


「こちらの姫に邸宅を手配してくれ」


「承知いたしました」


 力強く答える自分がおかしくもあったが、弁慶にとってこれは些細なことだった。ただの手続きにすぎない。


「……ありがとうございます」


 時忠は、今度は動揺の混じった声で笑顔を続けざるを得ないようだった。わらびの目が明るくなっている。


「私がお守りします」


 牛若の力強い言葉にわらび姫は頬を染めたが、そのお守りする相手はわらび姫ではなくこの腹黒い貴人のことなのだと、弁慶は分かっていた。ただ胸の奥は甘痒く痺れるだけだった。

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