第五十七話 凱旋の翳り
都へ向かう道の土は、壇ノ浦の潮を離れても、まだどこか湿っているように感じられた。
後ろには捕虜の列が続いていた。平家当主の宗盛とその子清宗、全盛期は「平家にあらずんば人にあらず」と豪語したと言われる時忠とその子時実の、簾を上げて衆前に顔を晒した牛車の列が、勝者の軍に挟まれて進んでいく。
範頼は平家の残党を抑えるため西国に留まったままだ。ゆえに、この列は牛若を先頭に立てた凱旋そのものだった。
だが、馬上の主は勝者の顔をしていない。歓声が上がるたび、肩が目に見えぬほど小さく強張るのが、斜め後ろから見て取れた。
(……このお方は、勝ったつもりで帰ってきてはおられぬ)
沿道の人々は、そんなことなど知らぬまま、口々に牛若を褒めそやした。
「あれが九郎判官さまか!」
「よくぞご無事で!」
若い娘の甲高い声も、老人の掠れた祝詞のような声も混じっていた。三郎は最初、鼻を鳴らして得意げに笑いかけたが、牛若の横顔を見てからは口をつぐんだ。
牛若は前を見ているようで、何も映っていない目をしていた。誰かに叱られるのを待つ子どものように、まぶたの動きばかりが落ち着かない。
少し後ろから景季の声が聞こえた。
「父上、私はこのまま鎌倉へ戻るなど嫌です!」
若武者らしいよく通る声だ。
景時は眉を寄せたまま馬を寄せた。
「何を申す。任務が終わったのだから、鎌倉の梶原へ戻るまでだ」
「義経さまと共に戦えたこの日々が、どれほど我らの心を満たしたことか。父上は少しもお分かりにならぬ!」
「訳の分からぬことを申すな」
景時の声は困惑の色が深かった。
「戦が終われば所領へ戻る。それだけのことだ」
「父上」
景高が口を挟んだ。
「我らは、まだお仕え申し上げたいのです」
兄とは違い、声は冷えている。
「ただ帰れとは、あまりに味気のうございます。そうやって血の通わない冷酷なお言葉しか言えないお人を父に持つのは、なんと口惜しいことでしょう」
「またお前もか……」
景時はうんざりしたようにため息をつく。
「何を申しておるやら。戦は終わったのじゃ。正気に戻るがよい」
「何が正気じゃ! 我らの気持ちが分からぬ父上こそ、正気を失っておられる!」
景季が苛立った声で食い下がる。
「私は宇治川から屋島や壇ノ浦まで、ずっと義経さまのお姿を間近で拝したのです! 平家が滅びてしまえば、もう義経さまと共に戦う日は二度と来ぬやもしれぬのに!」
「まことに」
景高も続いた。
「義経さまのおそばを離れねばならぬのが口惜しいのです。父上の曇りきったお心ではお分かりになるまい」
「うう……もう良いわ」
景時はこめかみを押さえながらつぶやく。
「お前たちの話はわしには全く理解できぬ。とにかくこの凱旋が終わったら鎌倉へ帰るのじゃ」
その言葉に景季も景高もそっぽを向き、返事はしなかった。
牛若は振り向きもしなかった。馬を進める背ばかりが頼りなく揺れる。後ろで梶原親子が何をぶつけ合おうと、耳には入らないように見えた。
捕虜を留置先に残し、一行は六条西洞院の法皇御所に着いた。
門の中へ入ると、外のざわめきが急に遠のく。白砂は明るく、縁の板はよく磨かれ、海の上の湿った殺気とはまるで別の静けさがあった。牛若は検非違使として、また戦勝の功労者として、法皇に戦の報告をしなければならない。
主は一歩ごとに、息を浅く吸っていた。
姿勢は整っているが、足の運びだけは勝ち戦の大将のものではなかった。叱責を待ちながら進む子どものように、板の上へ置く足先だけが妙に慎重だ。
弁慶と三郎は外に控えた。景時たち御家人も少し離れた位置に立つ。
「九郎、よくぞ無事戻ってきてくれた」
法皇の声には温かみがある。
「ご苦労さまにございますわ」
丹後局の声も変わらず優しい。
だが、牛若の吸い込む息の音には震えが混じっていた。
「その……三種の神器、一つを失ってしまい……」
誠に申し訳ありませぬ、と消え入りそうな声でつぶやく。それは叱られるのに怯えるような声音だった。
牛若の第一声が泣きそうなものであったことに、法皇はぎょっとした声を出した。
「いや、その件はすでに聞いておるゆえ、気にせずともよい。伊勢神宮で新たなものを引き継げば済む。残り二つが帰ってきただけでも朕はうれしいぞ。安徳天皇が海におかくれになったのは残念であったが……」
法皇は牛若の怯えを解こうと、努めて明るく言葉を紡いでいるのが弁慶には分かった。だが牛若は、安徳天皇の名前が出てさらに動揺してしまったようだ。
「その件も、申し開きのしようがございません……。安徳天皇は、ついにお救い申し上げられず……」
息がつかえている。それでも主は続けた。続けるしかないというように。
「ふむ……」
法皇は一瞬考え込んだ様子だ。
「三種の神器だけでなく、安徳天皇も生きてお帰り頂けたら、それはそれで好ましいことではあった。が、朕は安徳天皇の件は九郎には話していなかったかも知れぬの。鎌倉の頼朝もどうだったかは知らぬが」
「……っ」
牛若は何も答えられずにいる。弁慶の記憶が正しければ、安徳天皇を生きたまま連れて帰れというような命令は法皇からも鎌倉からも受けた覚えはない。
法皇はさほど失望しているように弁慶には見えないが、牛若は哀れなほどに動揺していた。壇ノ浦で幼い安徳天皇が二位尼に抱かれて入水する瞬間まで、牛若は神器のことしか頭になかったはずだ。法皇の何気ない「鎌倉の頼朝もどうだったかは知らぬが」という言葉が、牛若をひどく怯えさせているようだった。
(鎌倉の兄に怒られることを恐れるあまり、法皇様の御前でここまで縮こまっておられるとは……)
牛若は言葉を出せず、肩がさらにこわばる。
「ふむ」
返ってきた声は思いのほか柔らかい。
「新しく擁立した後鳥羽天皇が都におわす以上、安徳天皇がここへ戻ってきても、ややこしかったとも言える」
そこでいったん声が途切れるが、声音はひどく優しい。
「幼い命がおかくれになったのは残念ではあるが……これも戦の定めよ」
法皇は温かい息を吐き出した。
「――それでも朕は、九郎が生きて帰ってきてくれたことが何よりもうれしいぞ」
牛若が泣きじゃくるような声で何かを答える。おそらく「ありがたき幸せ」と言いたいのだろう。
しばらくして牛若が中から戻ってきた。
顔色はすぐれず、呼吸がまだ浅い。門を出ると、待っていた若武者たちが一斉に寄ってきた。
「義経さま!」
景季が真っ先に進み出た。声に安堵がある。
「法皇さまへのご報告、おつかれさまでした!」
「義経さまの武功は、神器が一つ戻らぬからとて、少しも曇りませぬ」
重忠の声は澄んでいた。
「風は見えずとも、人の胸を打ちまする。義経さまの戦も、まさにそうでございました」
「その通りにございます」
高綱がすぐに続いた。牛若のまつ毛を熱っぽく見つめている。
「義経さまの放つ光は、何一つ損なわれてはおりませぬ。むしろ、あれほどの苦しみを越えて、なおのことお美しいのでございます」
「義経さまは充分に、いやそれ以上にお戦いになったのですよ!」
景季が身を乗り出す。
「誰が何を言おうと、我らは皆そう思っております!」
「どうぞ、お心安らかに」
景高の声は静かに整っていた。
「法皇様も、そのように仰せでございましょう」
その輪の外に、景時がいた。いつもの冷徹な表情だ。一歩前に進み出る。
「それがしは義経殿を責める気はない」
景時が声を出すだけで、景季の顔がぴくりと強張る。
「だが、壇ノ浦における御家人たちの無理な踏み込みは見過ごせぬ。此度の戰の暴走は、しかと鎌倉に報告させて頂く所存にござる」
牛若は景時の言葉の意味は分かっていないだろうが、ただ落ち込んだ表情をその場に落とした。
景時は言いたいことを言い終えたようだったが、その途端に景季が「父上!」と噛みついた。
「またそのようなくだらない枝葉のことを!」
「ううむ、何を申すか」
景時はげんなりした表情で眉をしかめた。
「わしは義経殿個人を責めてはおらぬ。戦は終わったのじゃ。いい加減お前も正気に戻るがよい」
「景時殿」
いつの間にか現れた直実が前へ一歩出た。
「神器など、ただの物に過ぎぬ!」
その一喝に、周りの武者たちが息を止める。
「義経さまのお命に勝る大事なものがあるものか! 景時殿は、そのようにして、必死に戦った義経さまのお命を否定し、心ない発言を浴びせて奈落の底へ落とす所存か!」
「熊谷殿……」
景時は胃のあたりを押さえながら直実をなんとか見据える。
「少し落ち着かれよ。貴殿はまた何か勘違いされておる」
「景時殿が義経さまを陥れるのはこれで一体何度目じゃ! なんとおぞましい! 鬼畜生外道の極みじゃ!」
景時はぎょっと目を見開いた。
「落ち着かれよ……とにかく貴殿は何か勘違いされておる」
「直実殿の言う通りじゃ!」
景季がまた続いた。
「父上は、いつもそうやって屁理屈ばかりを繰り返し、義経さまのお心を傷つける!」
「義経さまの……」
高綱が、牛若の顔を覗き込むようにしながら景時へ向き直る。
「いつもの美しい瞳が潤んでおられます。これほどの光を放つ御方を、なお追いつめるおつもりか」
重忠も背筋を伸ばし、まっすぐに声を乗せた。
「景時殿、風は見えずとも、人の胸を打ちまする。とっくにお忘れの武士の心を、今一度思い出されるがよい」
「父上」
景高の声音はどこまでも静かだった。
「父上は人の心が見えておられないのです。人の心をお持ちでない」
「お前も、そこまで言うか……」
景時は疲れ切ったようにため息をつき、そのまま黙り込んでしまった。
牛若は、なお何も言わない。
法皇に慰められ、若武者たちに妙な擁護をされても、その肩は怯えたように震えが残っていた。
弁慶は斜め後ろから動かなかった。
(このお方は、誰に許されても、褒められても、なお鎌倉の兄の眼差しだけを恐れておられる……)
拳を意味もなく握りしめた。
暮れかけた空の薄い色が、御所の白砂の上へ静かに落ちていた。




