第五十六話 勝利という贈りもの
直実は牛若を組み敷くようにして守っていた。
濡れた舟板の上に大きな膝を張り、華奢な身を己の腕の中へと抱え込む。牛若は教経への恐怖がまだ抜けないのだろう、息を浅く乱したまま、直実の胸元に半ば沈み込んでいた。濡れた睫毛が細かく震え、かすかに開いた唇から熱い呼吸だけが漏れているのが見てとれる。
その一艘へ平家の視線が集まった。
「義経はあそこにいるぞ!」
「あの舟を潰すのじゃ!」
「総大将を討て!」
舟がいくつも向きを変えて襲いかかってくる。櫂が揃って海を裂き、細長い船影が一斉にこちらへ寄ってくる。濡れた船腹がきらりと返り、そのたびに海そのものが牛若のいる場所を狭まらせるようだった。
弁慶は長刀をひと振りして目の前の兵を薙ぎ払った。
主の居場所が露見した。これより先、平家は兵の多少ではなく、ただ牛若の首だけを狙ってくるにちがいない。ぐっと奥歯を噛み締めた。
教経は一心不乱に牛若を襲おうと猛攻を続けていた。
平家の舟がどう動こうと、味方がどれほど前へ出ようと、巨大な男の目はただ牛若だけを追っている。勝ち負けも船列も関係ない。ただ源氏の大将である源九郎義経を斬り潰す、その執念だけで海の上を跳び、駆けていた。男たちがそれを必死に防ごうとしている。
最初に飛び込んだのは景季だった。
「義経さまを傷つけるな!」
若武者の叫びが響き渡る。舟板を蹴り、濡れた綱を踏み越え、教経へ伸ばす刃の先へ身体ごと飛び込んでいく。
「若造めが!」
景季は巨体に容赦なく蹴散らされる。続いて重忠が素早く静かに踏み込んだ。
「いい加減に義経さまの清らかな界隈から離れられよ!」
めったにない大声でも声音は澄んでいた。太刀さばきは景季よりは冷静で巧みだが、それでも教経は力任せに押し返してしまう。横から高綱も加勢に現れた。
「義経さまの美しい瞳に、見苦しい刃を晒すな!」
それは必死な叫びだった。教経の肩口へ素早く斬りつけるが、教経はびくともしない。景高がさっと駆け寄る。
「そちらのお方、一体いつまで義経さまの邪魔をしておられるのですか。さっさと入水のご支度をなさりませ!」
巨体が牛若の方に行かないよう、教経との間に身を滑り込ませて太刀を振るう。その横顔は落ち着いているが、必死に何度も教経に太刀を浴びせ続け、荒い息になっていく。
見ると与一が弓を手放し、太刀を抜いて駆け出していた。
「義経さまへ届く前に、まずそれがしを討ってみよ!」
遠くからの弓ではなく、そのまま身体ごと教経へ飛びかかり刃を浴びせる。だが教経は豪力のまま太刀の柄で与一の胸を突いた。与一の身体はひとたまりもなく浮き、別の舟へ叩きつけられる。教経はそのままこちらへ突進してくる。
「弁慶そっくりの化け物め、牛若さまに近づくんじゃねえ!」
三郎の怒鳴り声が真っ直ぐに響く。雑兵を薙ぎ倒し、片足で舟板を蹴って敵の集団に体当たりする。そのまま教経に飛びかかろうとしたが、巨体の教経は痛くも痒くもないようでそのまま蹴散らされてしまう。
鷲尾、忠信、駿河も一斉に教経に飛びかかるが、教経の力任せの突進になす術がない。
「義経さまを傷つけるな!」
景季がまた叫び、御家人たちも一斉に襲いかかるが、一人が前へ出れば弾き返し、二人が迫ればその隙間を踏み抜く。教経の太刀は大きいだけではなく速い。舟が揺れても、板が湿っていても、その足は少しも乱れなかった。
「源氏の皆さま方、軍律を守るのじゃ! 勝手に暴走するでない!」
景時が後ろから叫ぶが、今さら誰にも届きはしない。皆、牛若しか見えていなかった。
(あの巨体を倒せるのは、おそらく俺だけなのであろう……)
弁慶はそのことに気づいていた。だが、牛若は呆然と目の前の戦を見つめているだけだ。自分があの化け物を倒したところで、意味はない。直実の存在は癪に触るが、ここで怯える牛若を守護することに勝る忠義はないだろう。
直実はなお牛若を抱え込んだまま、教経の気配を睨んでいた。皆がどんなに飛びかかっても、あの巨体はまた牛若の方へ寄ってくる。直実は牛若の肩から腕を離し、ゆっくりと身を起こした。
「義経さま、このそれがしが倒してまいりますぞ! 義経さまはこのままここでお待ちなされよ! それがしの働きをゆるりとご覧あれ!」
牛若はきょとんとした表情で直実を見上げた。
「直実……?」
それ以上の言葉はなかったが、直実はもう振り返らない。大きな身体を低く構え、教経の方へまっすぐ駆け、豪快に跳ねる。
「……牛若さまは、それがしが」
お守りします、とまでは言わずに重々しくつぶやくと、弁慶は牛若の華奢な肩に手の平を乗せてため息をついた。
直実は教経の前へ突進していた。白刃がぶつかる。
直実は正面から教経の攻撃を受けた。教経の太刀は重い。だが直実の力も他の御家人よりは重みがある。濡れた足場の上で二つの大きな身体がぶつかり合い、その衝撃で周りの舟まで揺れていた。
「邪魔立てするな!」
教経の濁った声が響き渡る。彼は直実をただの邪魔者としか見ていないようだった。強引に押しのけて、牛若の方へ寄ろうとする。
即座に直実は太刀を引いた。教経の懐へ身体ごと飛び込み、その巨体に腕を回す。
「おのれ、義経さまに害をなさんとする化け物め! お前など、この海に消えるが良いのじゃ!」
教経がうなった。太刀が空を切る。そのまま二人は絡み合い、舟縁を越えて、真っ逆さまに海へ落ちた。重い水音と共に、二人の身体は深い海の中をどんどん見えなくなる。水面だけが静かになっていく。
「直実殿!」
悲鳴があちこちで上がる。
「熊谷殿!」
景時まで叫んでいた。
「直実……!」
牛若の声だった。声音に大粒の涙が滲んでいた。
弁慶の手の平を無造作に逃れ、泣きじゃくるように叫びながら舟縁へ駆け寄る。危うくそのまま海へ身を乗り出しそうになるのを、三郎と忠信が必死に押し止めた。
「牛若さま!」
「義経さま、危のうございます!」
牛若は子どものように泣きじゃくるばかりだった。直実の消えた水面を見つめ、華奢な肩を震わせ、嗚咽を漏らす。その涙を見て、景季も景高も重忠も高綱も、目元が潤み出していた。
弁慶の喉の奥に、冷たいものが刺さった。
これは継信の時と同じだ。死の淵へ行くという禁じ手が、牛若の心を深く動かしてしまう。牛若に永遠に記憶を残してしまう。喉の奥がざらりと焼けた。
平家の雑兵から防戦しつつ、誰もが海を見つめていた。黒い波が寄せては返す。
少し離れた波間から、大きな影が浮かび上がる。
「直実……!」
牛若は涙を溢れさせたまま立ち上がっていた。
そのまま直実の、海水で冷たくなった腕を引く。景季や重忠も補助を行うが、当の直実は荒い息でも誇らしげである。ずぶ濡れの髪を振り、舟縁へ手をかけている。教経の姿はない。
(よくぞ戻った、であろうな)
弁慶は張りつめていた胸のどこかがようやくほどけた。直実は戻ってきた。主の心を盗みきることなく、きちんと戻ってきたのだ。
「直実!」
牛若は直実の身体にそのまま縋りついていた。
直実は満足そうに微笑んだ。濡れた大きな手で牛若を抱きしめ直す。
「義経さま。化け物は確かに海の底へと沈めましたぞ」
牛若の涙は乾き始めていた。そのことに弁慶は軽く安堵した。
「義経さま、我らの戦、ご覧下さりましたか」
重忠の澄んだ声が近づいてきた。
「もう、義経さまお一人の戦いは必要ありませぬ」
「義経さまは、我らがお守りします!」
景季が続いた。
「どうぞご安心なさりませ」
景高の静かな声が、その間へひやりと落ちた。
「その光る瞳を、どうかお大事になさってください」
高綱はうっとりと牛若を見つめている。
「それがしの心は、義経さまに射止められております」
与一は微笑みながら牛若を見つめた。
「あとはそれがしが、この弓で敵を討ち果たすのみです」
与一の声に三郎、鷲尾、忠信、駿河は大きくうなずいた。
「敵をご覧なさいませ」
重忠が海の向こうを示す。
「もう敵はほぼ死に体でございます。我らの勝利、義経さまに贈り物として捧げまする。義経さまは美しい風をお守りになり、ここで我らの最後の働きをゆるりとご覧なさいませ」
牛若は涙に濡れた目でその言葉を受けていた。目に輝きがほんの一瞬だけ戻る。誰かが自分のために勝ちを運んでくるという、その奇妙なぬくもりが、ほんの少しだけ心に触れたにちがいない。
重忠たちは一斉に戦へ戻る。
「……隊列を、直されよ!」
景時がなお叫んでいたが、やはり誰も聞かない。御家人たちの後へ、三郎も鷲尾も駿河も忠信も続く。
弁慶は冷めた目でそれを見ていたが、主のそばへ寄ろうとした。
牛若がふいに前を向いた。
弁慶からも離れ、濡れた板の上に立ち上がる。涙の跡はまだ頬に残っているのに、瞳だけはもう別のものを追っていた。
「神器を、取り戻さねば……!」
甲高く響く声が裂ける。
「兄上……!」
言うなり、天界の稚児の舞は再開された。もう邪魔する化け物はいない。舟縁を蹴り、細い板を飛び、濡れた足場の上で太刀をひるがえし、敵を容赦なく薙ぎ払う。ほんの一瞬前まで泣いていたとは思えぬ神業だった。弁慶もその後を追って前へ出る。
御家人たちはまた牛若の舞に目を奪われているようだった。
牛若の弱い姿も、幼く縋る声も、全部見てしまった。そのはずなのに、彼らはその上でなお見惚れているのだ。
平家は総崩れになっていった。
舟が乱れ、声が裏返り、海の上に浮かぶ影がばらばらと逃げ始める。そのどさくさの中で、御座船ではない舟に大勢の女がいるのが見えた。女房たちに囲まれた幼い帝の姿がある。老いた尼御前が抱き寄せている。美麗な箱が抱えられている。
弁慶は目を凝らした。
(あれは……おそらく、二位尼であろうか)
何もつぶやかぬうちに、横の牛若の足が即座に動いていた。
「待て……! 神器を沈めてはならぬ!」
泣くような金切り声を上げていた。
「皆のもの、頼む! 神器を取り返してくれ……!」
牛若が悲痛な情けない叫び声に戻ると、「はい!」と景季たち御家人や三郎たちが力強く返事をし、源氏の舟がまた殺到する。混乱の中で、箱が二つ奪い返されるのが見えた。
だが、二位尼だけは止まらず、幼い帝を抱き、もう一つの神器と共に、そのまま海へと身を躍らせた。そのまま海底に消えていく。
「ああ……!」
牛若の声が哀れにも裂けた。その場に膝をつき凍りつく。ただ海の底だけを見ている。兄へ持ち帰るべき完全な勝ちが、今、目の前で沈んでいったのだ。
もうこれまでと悟った平家の将兵は一斉に海へと飛び込んでいく。要人を見咎めて生け捕りにする動きもある中、周囲は勝利のどよめきに包まれ始めていた。
天界の稚児は海底を見つめたまま、哀れにも呆然としている。
弁慶はその清らかな横顔を見つめた。
(このお方は、今もなお、鎌倉の兄へ届かぬものばかりを追っておられる)
波は砕けた光を抱いたまま、どこまでも鈍く揺れていた。




