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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第三部 栄光の空洞

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第五十五話 御家人と牛若

 牛若は、ほとんど転がるように次の舟へと移った。


 濡れた板が足の裏で鳴る。細い舟板は波にあおられて傾き、そのたびに海がすぐ脇まで口を開けた。教経の太刀が背後で風を裂く。ほんの半歩遅ければ、華奢な身体ごと舟板へ叩きつけられていたにちがいない。


「あ、兄上……!」


 掠れた声が、また幼く漏れた。ここに頼朝はいない。


 もう舞ではなかった。ただ生き延びるために、狭い足場を飛び、踏みとどまり、また逃れる。その背を、教経の巨体が執念深く追ってくる。


 弁慶は敵を薙ぎ倒しながら前へ出たが届かない。船縁へ手をかけた時にはもう、主は次の舟へ移っている。濡れた板は狭く、大きすぎる己の身体が忌々しかった。


「義経さま!」


 梶原景季の金切り声がどこか近くから上がった。


 畠山重忠も佐々木高綱も、雑兵を払いながら前へ進み出ようとしていた。忠信は何も言わず、ただ主へ続く道をこじ開けようと刃を振るう。だが平家の兵は海の上ではしぶとく、板を揺らし、綱を払って、誰一人そう簡単には通さない。


 その時、牛若の足場が崩れた。


 外れかけた板が大きく沈み、片足がずるりと流れる。教経の太刀が、今度こそ牛若の肩口を叩き潰そうと迫った。


 そこへ、別の影が無言で飛び込んだ。


 熊谷直実だった。


 何より先に、その大きな腕が牛若の身体を抱きすくめる。引き寄せるように胸へと収め、教経の太刀から半身をずらして守り、一気に数艘の舟を豪快に駆け抜けた。


 牛若の呼吸が詰まる。華奢な肩から一瞬だけ力が抜ける。


 主は弁慶の腕の中ではない。


「義経さま……! もうよいのですぞ!」


 直実の声は、海鳴りの中でも妙によく通った。


 弁慶の胸の奥に、熱いものとも冷たいものともつかぬ何かが一気に差し込んだ。


 直後、重忠が静かに前へ駆け出た。


 揺れる濡れた舟板の上でも姿勢は少しも崩れない。教経の前へ立ちながら、声だけはあくまで澄んでいた。


「義経さま。よくぞ生きて戻って来られました」


 牛若は、直実の腕の中で息を乱しきったまま、その声の方を見る。重忠が澄んだ目で牛若を見つめていた。


「宇治川の頃より、義経さまはただお一人で、ずっと神の如き戦を続けてこられた。もう、充分にございます」


 教経の殺気が迫ってくる。だが重忠は微動だにしない。


「ここから先は、我ら下々の、坂東武者にお任せくだされ。義経さまはその美しき風をお守りになり、どうかそこで我らの働きをゆるりとご覧くださいませ」


 牛若は呆然としたままだった。


 理解したのではないだろう。ただ、直実の腕と重忠の声に挟まれて、そこに魂が留められているように見えた。


「さあ、ご覧なさいませ」


 言うなり重忠は背筋を伸ばし、教経に向かって数歩跳躍し太刀を振るう。


「――義経さま!」


 反対側から景季が爽やかに叫んだ。叫ぶ中でも優しい声音だった。


「私が義経さまをお守りします! 直実殿の腕の中で見ておられよ!」


 言うなり今度は教経を睨みつける。


「そこの者、我らが義経さまを傷つけるな! 許さぬぞ!」


 景季の声は教経にとげとげしく向けられていた。怯えた牛若を目の当たりにしたことに対する、そのままの怒りだった。景季は教経へ向かってなりふり構わず飛び込んでいく。


「義経殿!」


 景時の声が響いた。


「その巨大な者から離れておられよ!」


 言うなり、御家人たちを見回して叫ぶ。


「皆さま方、勝手に次々とその巨大な者に挑むでない! 軍律を守られよ!」


 必死に止めようとして入るが、他の御家人たちにその声は届かないだろう。


「義経さま……その潤みきった瞳の尊さ……」


 高綱は牛若のまつ毛を熱っぽく見つめながら深く息を吸い込んだ。


「この佐々木高綱、義経さまを怯えさせた巨悪を決して許しはいたしませぬ。美しい光を全力でお守りいたします!」


 よく通る声を響かせて、教経の方へ駆け出す。高綱もまた教経と牛若の間へ回り込もうとする。


 さらに後ろから弓の音がした。屋島で扇の的を射た、那須与一の放った矢だ。


「義経さま……!」


 祈るような声が、ひとつ混じる。


 正確に放たれた矢はまっすぐ教経の胸を射抜くはずだった。だが教経は、振り向きざまに太刀をひと振りし、その矢を空中で薙ぎ払った。矢羽が砕け、白い飛沫のように海へ散る。


 その様子を、直実はしっかりと牛若を抱き止めたまま、注意深く睨んでいた。牛若はただ呆然としたまま、その抱擁に身を任せている。


(誰も、牛若さまに幻滅しておらぬ……)


 これまでの御家人たちは、牛若を遠くから拝んでは勝手に神のように持ち上げて騒いでいるだけの滑稽な男たちだった。


 だが今、彼らは見てしまった。天界の稚児の怯えた顔を。兄上と幼く縋る声を。死を恐れて逃げる華奢な背を。今まで弁慶しか知らなかった本当の牛若を。


 それなのに、彼らは牛若を見捨てはしなかった。そればかりか、よりいっそう狂おしく天界の稚児を守ろうとしているのだ。


 胸の奥がざらりと鳴った。ごくりとつばを飲み込む。


 周りでは戦闘が繰り広げられている。


「俺たちの牛若さまに近づくんじゃねえ!」


 三郎も平家の雑兵に怒鳴り、舟板を蹴って斬り込んだ。


「義経さま、こちらへ!」


 忠信も自分の身体を押し込むように前へと一気に進み出た。


 教経そのものへと届くにはまだ遠い。だが、雑兵の刃が牛若に向かおうとするたび、忠信はその前へ身を差し入れていた。


 鷲尾も短剣を抜いていた。


「義経さまに近づくな!」


 何も考えず、ただ主に向く刃を自分の方へ引き受けるように、身体ごと雑兵へ飛びかかる。転げるようにもつれ込み、そのせいでひとつ刃筋が逸れた。


「九郎さまー!」


 駿河の声が海の上へ響いた。


 宇治川以来の大声だった。


「そこを離れてはなりませぬ! 我ら、決して敵を寄せつけますまい!」


 太刀さばきは落ち着いていても、抑えきれない叫び声が海へ飛んでいく。


「義経さま」


 近くにいた梶原景高は静かに透き通った声を響かせる。


 最も牛若にとって危険になりそうな死角を見つけては、静かにそこで身構える。教経の刃と牛若の間へ自分の身を差し込む。


「……義経さま、そちらの直実殿の懐から離れてはいけませぬ」


 そう言い置くと、景高も兄を追って教経のいる方へ駆け出す。


 弁慶は、ようやく主の近くへたどり着いた。


「牛若さま……!」


 長刀を振るい、主へ向く刃を薙ぎ払う。


 牛若は直実に抱き止められたまま、まだ息が整わない。


 重忠たちは教経の前に立っている。


 牛若を守るため、男たちがそれぞれの形で教経と雑兵を押し返していた。


 牛若はその光景を呆然と見つめている。


 直実は牛若を腕の中で守りながら、教経から決して目を離さなかった。

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