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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第三部 栄光の空洞

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第五十四話 御座船

 壇ノ浦の潮は、朝だというのに重かった。結局潮の流れなど待たず、源氏は真っ直ぐたどり着いたのだ。


 まだ日が高くなりきらないうちから、平家の船団はずらりと沖を埋めていた。横へ、奥へ、幾重にも重なり、海の上そのものをふさいでいる。源氏方も舟数は揃えてきたはずなのに、こうして向こうの一糸乱れぬ船列を見ると、海そのものが平家のもののように思えた。


「……何だよあれ」


 三郎が思わず声を落とした。


 隣の鷲尾も息を呑む。


「す、すげえ……」


 向こうではすでに櫂が揃っていた。こちらが前へ出ると、潮を読んだように横から寄せてくる。船頭の怒鳴り声も、舟の返しも、ひどく手馴れて見えた。


 次の瞬間には矢が飛び交い始めていた。


 海の上を裂く音がして、源氏方の舟の縁へ、帆柱へ、盾へ、次々と矢が立つ。こちらも応じて矢を返すが、海に足を取られたままでは狙いが定まりきらない。


 近づいた舟の上では、すでに刀が打ち合わされていた。濡れた板の上で足を踏み替え、互いの船へ飛び移り、押し返し、また揺れる。舟と舟が擦れ合うたび、鈍い音が腹へ響いた。


「列を崩すな!」


 景時の声が後ろの方で響く。


「寄せすぎるでない! 間を取れ!」


 だが、その怒声に従ったところで、潮そのものは味方になってくれそうにない。


 牛若はその騒ぎの中で目立つ一艘を注視していた。


 沖の少し奥、いくつもの船に囲まれた大きな船がある。帷が垂れ、ほかの舟より高く見えた。


 牛若の喉が小さく動く。


「あれだ」


 声はやや高く掠れていた。


「あの御座船に、三種の神器があるにちがいない」


 弁慶は主の横顔を見た。宇治川の濁流も、鵯越の崖も、屋島の嵐の海も、みな鎌倉の兄に自らの命を届けるためだった。今度こそ頼朝の心にたどり着きたいのだろう。それでも届かないなら、もう差し出せるものが残っていないにちがいない。


 次の瞬間、牛若は舟縁を蹴っていた。


「兄上……!」


 いささか甲高い、掠れた叫びが潮風を裂く。


「今度こそ……! 神器を、お待ちください……!」


 華奢な背が、ひと息に隣の舟へと移る。


 弁慶の胸の奥が焼けていく。


 主は勝ちに行くのではない。兄の心に届くために、最後に自分そのものを差し出そうとしている。そうとしか見えなかった。


「義経さま!」


 景季が声を裂いた。


 重忠もすぐに身を乗り出す。


「義経さま、お待ち下さいませ!」


「義経さま、お一人で行かれますな!」


 高綱の柄になく焦った声も飛んだ。今回は奇襲ではない。敵に丸見えなのだ。


「牛若さま、勝手に飛んでいかないで下さいよ!」


 三郎の声を筆頭に、従者たちも主の後を追おうとしたが、平家の雑兵が割り込んでくる。細い板を引かれ、綱を払われ、舟足の向きを乱される。向こうは海の上での闘いに慣れきっているらしかった。こちらが一歩進む間に、あちらは二歩動く。


 弁慶も長刀を振るって前へ出ようと努めていた。


 矢を払う。船縁へ踏み込む。敵の肩口を薙ぎ、ようやく板へ足をかける。だがその時には、もう主はひとつ先の舟へ移っている。濡れた足場は狭く、巨大すぎるこの身体では一息に渡れない。敵を倒すたび、主がさらに遠ざかる。


 牛若は、一人で御座船へ飛び移った。三種の神器があるであろう、その船へ。


 (とばり)の陰から、突如黒い巨大な影が現れた。


「源氏の総大将、待っておったぞ」


 その声は平能登守教経(のとのかみのりつね)だった。


「げっ!」


 三郎が横で叫ぶ。


「あいつ、弁慶みてえなやつじゃねえか!」


 その軽口には焦りしかなかった。


 教経の大きすぎる太刀が、朝の光を受けてきらりと返る。牛若はとっさに身をひるがえし、細い手首で太刀を返した。濡れた船板の上で、小柄な身体が舞う。華麗に舞い上がる。


 太刀を斬り上げ、薙ぎ払い、弁慶の見慣れた神業で素早く踏み込む。牛若の太刀は何度も教経の鎧に当たった。肩、腕、脇腹に、美しく正確に当たっている。だが、その巨体はびくりとも揺れない。かすり傷ひとつ負っていないように見えた。しかも速い。


 弁慶ほど大きいのに、教経はためらいなく間合いを詰めていく。力任せではあるが、その一撃一撃が異様に素早い。牛若をただ叩き潰すためだけに、巨大な太刀が何度も容赦なく振り下ろされる。


 弁慶はようやく悟った。


 この船には、神器などないにちがいない。都から逃れた幼い安徳天皇や女房、それを守る男たちの影が見当たらない。いるのは一人だけだ。


 この船は、おとりの偽物だ。


 三種の神器などない。教経が牛若を待ち伏せしていたのだ。


 そしてその大男の目は、最初からただ主だけを狙っていた。


 弁慶は腹の底から叫んだ。


「牛若さま……! その船は偽物にございます!」


 だが距離が遠すぎ、混戦の中で声は届かない。


 教経の太刀がきらめき、素早く弧を描いて牛若を薙ぎ払おうとする。牛若は舟板を蹴ってその一撃から逃れた。二撃目、三撃目が隙間なく来る。牛若は必死に避けながら斬り返そうとするが、教経の鬼神のような動きは止まらない。力で牛若の小柄な身体を叩き潰すつもりなのだ。


 牛若の呼吸が一気に乱れる。華奢な肩が頼りなく揺れる。教経の攻勢がどんどん間合いを詰めていく。牛若は必死にそれから逃れようとする。


「あ、兄上……!」


 ひどく幼い声だった。宇治川でも一ノ谷でも屋島でも、あらゆる目の前の敵を容赦なく薙ぎ払ってきた天界の稚児の清らかな舞が、教経という巨体には全く通用せず、かすり傷ひとつ負わせられない。教経はただ力任せに牛若を潰そうと突進を繰り返すのみだ。牛若は必死に逃げ惑うしかなかった。荒い息遣いが弁慶の耳にも届くかのようだった。


(怯えておられる……)


 今にも主を失いそうになる恐怖に、いまいましい敵を薙ぎ倒しながら弁慶は震えた。それでいて妙に甘い心地が胸の奥に広がる。


 何度も見てきた奇跡の舞は光を失っていた。今の牛若は無様に逃げ惑う、恐怖に怯える小さな存在でしかない。教経の太刀を必死に避け、たまらず隣の舟へ飛び移る。


「逃さぬぞ!」


 教経は巨体であるにもかかわらず、その動きは素早く、もう少しで牛若を追い詰められるとばかりに、豪快な足音と共に牛若を追い立てる。それを振り返る牛若の顔は恐怖に怯えきっていた。


「あ、兄上……!」


 こんな時にも、その言葉が頼りなく甲高い声で出ている。増水した川の濁流も、崖からの飛び降りも、嵐の出航も、牛若は何も怖そうではなかった。命知らずだと弁慶は思い違いをしていた。今の牛若はただ、死ぬことに怯えていた。兄の頼朝に冷たくされたまま死ぬのが怖いのだ。


 怯えて目を潤ませながら必死に逃げ惑う牛若は、いつもの舞と同じ素早さはあった。どんどん次の舟へ移る。主は今、勝ちに向かって舞っているのではなく、死から逃れようと怯えているのだ。弁慶の心臓の鼓動が一気に早まり、胸の奥がむず痒くなる。


 今は牛若を守らねばならない。


「牛若さま! とにかくお逃げなされよ! それがしがお守りする!」


 弁慶は真っ直ぐに牛若を見つめて叫びながら、目の前の敵を倒していく。


「義経さま!」


 ただならぬ様子に気づいた景季が金切り声を上げる。牛若を守ろうと飛び出した。


「義経さま、向こうの安全な舟にお移りなさいませ!」


 重忠も叫んで舟から飛び出し、高綱も「義経さま!」といつにない叫び声を上げながら舟の間を駆ける。忠信も敵兵へ斬りかかり、主の後を追う道を開けようとしていた。駿河が「板を押さえろ!」と怒鳴った。


「牛若さま! 俺が助けに行きますから!」


 三郎も鷲尾と共に加勢に回ろうとする。


 だが、平家の雑兵は次々と立ちはだかり、牛若を守ろうとする者たちの邪魔をする。舟を操り、板を外し、綱を揺らし、こちらの足場を奪う。源氏方が加勢へ向かうほど、かえって主との距離が開いていく。


 弁慶はまた一人、敵を力任せに薙ぎ倒した。


「そこをどけ!」


 誰へともなく怒鳴り、船縁へ手をかける。だがその時には、主はもうひとつ向こうの舟へ移っている。教経の黒い影がすぐ後ろを走り抜け、どんどん追い詰めていくのが見える。


 牛若はまた飛んだ。


 濡れた背が、朝の海の上でひどく小さく見えた。


 弁慶は長刀を握りしめたまま、その後を追うしかなかった。


 波が船腹を打つたび、船から船へ逃れる主の影だけが、海の上で危うく揺れていた。

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