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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第三部 栄光の空洞

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第五十三話 供物の夜

 屋島の合戦からかなり日にちが過ぎたあたりで、浜へ寄せた小舟が、夜の水を重たく鳴らした。


 その音に、牛若がそっと顔を上げる。ここしばらく、海の向こうばかり見ていた目に、灯の色が少しだけ戻った。


 最初に砂を踏んだのは畠山重忠(はたけやましげただ)だった。濡れた浜でも足取りは乱れず、そのまま牛若の前まで進み、静かに膝をつく。


「遅れて馳せ参じました」


 透き通った声と共に顔を上げた。牛若はただ微笑みながら受け止めるだけだ。


「久方ぶりにございまする。義経さまの美しい風を心待ちにしておりました」


 その目は牛若を感慨深い様子で見つめていた。


 後ろから佐々木高綱(ささきたかつな)が軽く舟べりを越えた。潮と泥の匂いの中でも、この男だけは妙に涼やかだ。


「待ち望んだ光が見えまする。ありがたき幸せ」


 牛若のまつ毛を熱っぽく見つめている。


「おお、義経さま……!」


 続いて熊谷直実(くまがいなおざね)が上がった。砂をひと足ごとに踏みしめるような歩き方だった。


「使いの者から聞きましたぞ。外道によって嵐の中に追い込まれるというお命の危機から、よくぞ、よくぞご生還されました……!」


 牛若はただ笑みを浮かべているだけだ。直実のものものしい言葉の意味はよく分からずとも、その不思議な愛情だけは受け取ったにちがいない。


 鷲尾は名だたる御家人が揃ったことに気圧されたのか、背を伸ばしたまま固まっている。忠信は兄のいたはずの位置をまだ胸のどこかに空けたまま、主のそばを動かずにいた。駿河は誰にともなく敷物の端を直し、灯をひとつ内側へ寄せた。牛若が少しでも身を乗り出せば、すぐ周りが動けるように。


 弁慶は斜め後ろからその様子を見ていた。守る者が増えただけのことに過ぎない。


 準備中の舟の方から梶原父子も戻ってきて皆が一堂に集まると、温い汁物が少しだけ回された。湯気の立ち方は弱く、手を温めるために持っているのか、喉へ流し込むために持っているのか分からない。


 牛若は器を受け取ってもしばらく口をつけなかった。頬の下を薄い湯気がかすめているのに、見ているものは別のところだ。鎌倉の兄と、まだこちらの手にない神器。その二つしか考えていないにちがいない。


「牛若さま、少しは流し込んでくださいよ」


 三郎が優しい声音で言う。


「明日、また無茶する気なんでしょう」


 牛若は微笑みながら、ほんのひと口だけ飲んだ。


「……熱いな」


 その声に、三郎は少しほっとしたような顔をした。次の瞬間にはもう、牛若の目は遠くへと戻っていた。


 景時はいつものように難しい顔をしながら器のものをゆっくりと口に入れていく。景季は元気な若者らしく勢いよく流し込む。景高はそんな中でも静かに気品よく口元を整えていた。


 その時、外で馬が大きくいなないた。


 土と潮にまみれた使者が転がるように入ってくる。頬はこけ、目の下は黒い。馬もほとんど潰れかけていた。ここへ着くことだけを考えて走らせてきた顔だった。


「鎌倉殿より、九郎義経さまへ……!」


 差し出された書状を、駿河が受け取り、そのまま牛若の前へ置いた。鷲尾が使者に水を与えている。


 牛若はすぐ封を切った。紙を広げた指が、途中で止まる。


 弁慶は、主の首筋がかすかにこわばるのを見た。不敬だとは思いつつも、斜め後ろから紙の文字は見えてしまっていた。むしろ、見えるぐらいに短かったのだ。


『三種の神器を必ず奪還せよ』


 たったそれだけだった。


 屋島の勝利も早馬で届いているだろうに、これまでの働きへの労いはない。これまで一度たりともない。天界の稚児が命を削ってここまで来たことに、一言も触れないのだ。


 三郎、忠信や駿河はすでに牛若の顔色で察しているようだった。鷲尾もその空気を感じている様子が見える。 


 梶原父子たち御家人もこの場にいる。それがいつもとは異なるところだった。


 牛若は紙を握りしめたまま、しばらく何も言わなかった。やがてどういうわけか、やや甲高い声で遠慮がちな笑い声を微かに立てていた。


「ふふ、三種の神器を必ず取り戻せと、兄上は催促しておられる」


 乾いた声がぽつりと落ちると、従者も御家人もぎょっとしたように牛若を一斉に見た。


「私は何の成果も出せていない。命を張らなければ、もっと命を賭けねば、兄上は許しては下さるまい」


「義経殿、何を言っておられる」


 景時が重厚な声で問いかける。


「奇襲による大勝により平家を追い立てるという一定の成果は出ておりますぞ。それよりむしろ、それがしは何事も命あればこそであると申し上げたい。そのことこそ一番大事にござる」


 牛若は景時の言葉の意味がよく分からなかったようで、きょとんとしている。


「義経さま!」


 景季が父親を影に追いやるように進み出る。


「私はこの度の壇ノ浦の戦、平家を討つ義経さま最後の戦いとして、義経さまを何があろうとお守りします!」


 景季の言葉は胸に入ってきたようで、牛若は穏やかな微笑みを見せる。


「それがしも」


 重忠が透き通った言葉を重ねた。


「こちらの隊に戻れて光栄に存じます。義経さまの美しき風、壇ノ浦にてお守り申し上げるため全力を尽くしまする」


「義経さま」


 高綱が静かに言葉を紡いだ。


「義経さまの瞳の光を、それがしは守り抜きまする」


「それがしも!」


 直実も熱い声を加えた。


「先日の屋島では嵐の中に放置されるという鬼畜生の所業にも屈せず、少人数で大勝利の奇跡を起こされたとか。それがしは絶対に義経さまのお身体をお守りしますゆえ、ご安心めされよ」


 力強く言い終えて会釈するなり、直実が景時をずっと睨みつけていることに弁慶は気づいたが、景時は直実の視線を認識していないようだった。


(この御家人どもは、牛若さまの言葉の意味を分かっておらぬ)


 牛若は頼もしそうな御家人たちを微笑みながら眺めてはいても、視線はうつろなのだ。


 三郎や忠信、駿河や鷲尾は、弁慶の足元ぐらいまでなら理解しているだろう。胸の内で何かが裂けていた。


 宇治川の濁流も、鵯越の崖も、屋島の荒波も。ただ鎌倉の兄のために焦っているだけだと思っていたが、今それは違うと分かった。


 天界の稚児が届けたかったのは、勝ちの知らせなどより、命そのものだった。


 命を投げ出す戦いを繰り返していたのは、自らの命を捧げて兄から許しを得たかったからなのだ。


 命を投げ出してことを成せば、ようやく鎌倉の兄が振り向いてくださると、本気で思っていたにちがいない。それが、屋島でもまだ足りない。


 これで駄目なら、もう最後は命そのものを差し出すことしか残らない。


 弁慶は拳を膝の上で握りしめた。爪が食い込み、鈍い痛みが返る。胸の奥がざらざらと焼け、掻きむしりたくてたまらない。


 牛若は、自分が危ないことばかりしているのを、実は理解していた。


 無邪気に死地へ飛び込んでいたのではなくて、供えもののように、自分の命を兄へ差し出していた。命を届けていたのだ。


(そこまでして、返ってきたのは一行だけか)


 牛若の横顔が、灯の下でひどく脆く見えた。頼朝を恨んでいる顔ではない。ただ、まだ足りなかったのかと壊れかけている顔だった。


「牛若さま、今度こそ、その神器、俺たちが見つけて取り返しますよ」


 三郎は三種の神器が何かなどよく分かっていないはずだが、それでも牛若を壊したくない気持ちが剥き出しになっていた。


 御家人たちは、牛若の気持ちを分かっていないようだった。理の世界にいる景時には理解できなかったであろうし、他の面々の牛若に対する言葉も弁慶から見れば頓珍漢だ。


 牛若は壊れそうだ。


(……頼朝に完全に拒まれた時は)


 喉の奥に痛みが走る。


(その時は、最後に抱き止める)


 自らのずっと当然の決意だけを、弁慶は腹の底へ深く沈めた。




 軍議が進むうちに夜が少し更けた。話が作戦にまで及ぶ。


 灯を囲んで座る中、景時が真っ先に口を開いた。


「壇ノ浦での戦は、朝すぐに始めるべきではござらぬ」


 景季がすぐさま顔を上げた。景時はそちらを見ずに続ける。


「最初は潮の流れの向きが敵に有利にございます。昼を過ぎた、舟を少しでも扱いやすい時刻を選べば、船頭も士気が上がりますぞ。潮の向きが変わってからの方が、舟は動かしやすいはずであるゆえ」


 牛若はきょとんとした表情で首を傾げる。


「なぜだ? 私は早く行かねばならぬ」


 弁慶はまた悟った。この方は勝ちを急いでいるように見えて、また身を投げようとしている。弁慶以外の者には届いていないだろう。


「父上、義経さまがお急ぎなのです! 鎌倉殿からの書状に書かれた三種の神器を、義経さまは取り返そうと苦心しておられるのです」


「またか。お前は黙っておれ。わしは潮の流れが有利な時間帯に戦を始めるべきと申しておるだけじゃ」


「……また帳面じじいが揉め事を起こし始めやがった……」


 見慣れ過ぎた光景に三郎が小声でため息をつく。


 背筋を伸ばした重忠が透き通った声で景時を制した。


「景時殿は潮の流れが逆向きだと不利だとおっしゃいますが、敵も味方も同じ潮の中にいるのなら、結果は変わりませぬ。義経さまの美しい風が我らをお守りくださる。我らも義経さまの風をお守りする。潮の流れに一体何の関係がありましょうか」


「その通りだ!」


 景季が爽やかな大声で同調すると、景時はこめかみを押さえながら重忠を見据える。


「風ではなく潮の話だが、重忠殿が言っておられるのは頭の上の理屈じゃ。舟を漕ぐ側からすれば、潮の流れに逆らわぬ方が動かしやすいはずであり――」


「義経さまの瞳の光は」


 高綱が涼やかな口調で景時の言葉を遮った。


「潮の流れなど、何の関係もないであろう。景時殿、義経さまの戦に関係のない話は慎まれるがよい。光を闇で遮る算段は帳面の中だけでなされよ」


「またわけの分からぬことを……」


 頭を抱え込む景時に、直実が「景時殿……!」と鋭く声を投げつけた。


「屋島では貴殿が義経さまを少人数で嵐の中へと追い込んだというおそろしい話、しかと聞かせてもらった。潮の流れなどと話をそらす前に、その鬼畜生を通り越した、日の本一の外道の振る舞いを、大いに猛省されるべきである!」


「待たれよ熊谷殿、貴殿はまた何かを勘違いされておる。わしは此度は義経殿の安全を守るため、先陣を仕る所存じゃ」


「なんだと! これまで先頭を命懸けで突き進んで来られた若き御曹司の義経さまから、先陣の誉れをご老体のそなたが奪い去るなど、慈悲のかけらもない極悪非道の振る舞いじゃ! いい加減になされよ!」


「な、何を一体言っておられる……!」


 景時は胃のあたりを押さえて身体を丸めながら続ける。


「潮流の機も、先陣も、義経殿の安全を思いたればこそ……」


「父上、もう良いのです」


 景高が冷たく遮った。


「この陣において、義経さまのお心を乱す父上の言葉を聞くお人はどこにもおりませぬ。私がこの目で一部始終を全て見ることができたのは屋島だけですが、これまで義経さまが一体何回勝利をもたらしてくれたことか」


景高は気品を残しながら父親を冷めた目で見据える。


「宇治川、一ノ谷、屋島。義経さまは勝利しかしておられませぬ。毎回軍議を邪魔しておられる父上のことが、この私は息子として恥ずかしい」


「景高、お前も頼むから黙っておれ……! こっちの頭が壊れてしまうわ」


 頭を押さえ込む景時に、御家人たちが次々と苦言を被せていく。


 論は噛み合わぬまま続いた。このままでは眠れぬということになり、途中で話は切り上げられた。


 話が終わっても、誰もすぐには散らなかった。


 海は暗く鳴っている。


 牛若は書状を胸へしまいかけ、また手元へ戻した。指先が紙の端をなぞり続けている。


 弁慶は主の斜め後ろから動かなかった。


 明日もまた、この方は死を捧げるような戦いを繰り広げるにちがいない。兄に命を届け、勝ちを携え、神器を取り戻す。全てを兄のもとへ差し出すことしか考えていないのだろう。


 それでも、ついに拒まれる時が来るのなら、その時こそ抱き止めるのは自分しかいまい。


 弁慶はそう決めたまま、眠れぬ夜を眺め続けた。

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