第五十二話 再編の浜
潮の匂いは、屋島の火の残り香とはもう違っていた。
海辺の仮陣には、濡れた船板と積み上げられた櫂、束ねた綱、兵糧袋が並んでいる。船頭たちが縄を引き、舟腹を覗き込み、傷んだ板を取り替えていた。人が歩くたび、砂を噛んだ板が鈍く鳴る。屋島へ渡った夜の狂気のような熱は消え、舟戦の準備が進められていた。
牛若は、その仮陣の少し奥に立っていた。
継信を失ってから、牛若のまわりだけ、時の流れが少し遅くなったように見える。海を渡ってきた疲れも、屋島で勝った熱も、顔には残っていない。ただ遠くを見ている。
忠信はそのすぐそばにいた。
兄を失った今、主の脇だけは離れぬと決めたように立っている。
三郎は、積み上がった櫂や綱を見回しながら、低く鼻を鳴らした。
「やっと海の戦の形になってきたんじゃねえか」
鷲尾はその言葉に釣られるように、並んだ舟へ目をやる。
「すげえ……」
声を潜めたまま、何艘も連なった船影を見つめている。
駿河は少し離れて、周囲を静かに見ていた。舟の出入り、兵の立つ位置、船頭たちの声。ひとつずつそっと確かめるように見ているだけで、言葉には出さない。
弁慶は、主の斜め後ろに立ったままだった。
牛若を守る者は多い方がよい。それは分かっている。だが、継信の抜けたところへまた別の手が伸びることを思うと、胸の内がわずかにささくれた。
景時が、濡れた板の上を渡ってきた。袖口には塩が噴き、足元の砂も気にしない。牛若の前で一礼する。
「義経殿」
牛若は景時の方をそっけなく見た。
「河野水軍や熊野水軍の船が加わっております」
沖に、まとまった船影が見えた。浜に並ぶ舟よりもずっと手馴れて見える。船腹の揃い方も、櫂の運びも違った。
景時の声は落ち着いていた。
「だが、まだ最後の戦の形には整いきっておりませぬ。船数、漕ぎ手、船列、舟同士の間合い、兵の乗せ方、いずれも詰めねばならぬゆえ」
景季は父の少し後ろに立ち、黙って聞いている。景高は静かな顔で、兄より半歩引いて立っている。
牛若は沖の船影を見つめた。
「これで、壇ノ浦まで行けるか」
「行けまする。あと少しで」
景時は即座に答える。
「しかし、行けることと勝てることは同じではござらぬ。舟を揃えた後は、漕ぎ手を馴らし、最後に並びを覚えさせねばなりませぬ」
三郎が口を曲げた。
「海って面倒くせえな」
景時は振り向きもしない。
駿河が静かに口を開いた。
「九郎さまがおいでになれば、兵の士気も上がりましょう」
誰へ向けるともない声だったが、景季がその言葉で何かを閃いた様子だ。さっと前へ進み出る。
「義経さま。陸地を押さえているカバ殿の軍勢から加勢を呼ぶのはいかがでしょう。土肥実平殿は範頼殿のために残して、他の者たちをこちらへお呼び戻されるのがよろしいのではないでしょうか」
「そうか」
振り向く牛若があどけない表情で景季を見つめると、景季はうれしそうに言葉を継いだ。
「壇ノ浦は平家を討ち果たす最後の戦です。義経さまのおそばを薄くしてはいけません。重忠や高綱、直実殿をこちらへ戻されるべきです!」
いつもの面々の名前だ。景季は父の邪魔を封じたいのだろう。
景高が透き通った声を重ねる。
「陸の逃げ道を封じた今、平家を完全に倒すには人数が必要でしょう。父上が邪魔をすることはありますまい」
景時はため息をつく。
「わしは邪魔などしておらぬ。……まあよい。今回は鎌倉殿のご意向とも齟齬はなかろう。実平殿は範頼殿の側へ残す。それは動かせぬが、重忠殿、高綱殿、直実殿がこちらの軍に加わるのは、備えとして理に背かぬであろう」
景季の顔がぱっと明るくなった。
「おお父上、珍しくご理解いただけましたか」
景時はげんなりしたように顔をしかめたが、特に反駁はしなかった。景高は父親を冷たい目で見上げながら一人でうなずいた。
牛若はわずかに微笑んでいた。
「味方が増えてくれるなら、心強い」
「はい!」
景季が爽やかな声を上げると、牛若もつられてほんの少し元気さを取り戻すかのようだった。
「小舟で、これから呼びに行かせます」
景高が静かに申し出る中、牛若は沖の船影を見つめていた。
波が寄せては引くたびに、積み上がった櫂がかすかに触れ合って鳴る。海はまだ静かにはなりきらなかった。




