第五十一話 潮騒の応酬
海辺の空気は、まだ火と潮の匂いを含んでいた。
燃え残った木がところどころ赤く息づき、波が寄せては引くたび、湿った砂の上に薄い光をこすりつけていく。さっきまで人が倒れていた場所も、流れた涙も、海は少しずつ攫ってしまうようだった。
継信の亡骸は、いったん浜の外れに退けられていた。
そのまま戦の中に置いてはおけない。鷲尾と駿河が兵に言いつけ、少し高く乾いた場所へ運ばせ、むしろで静かに覆わせた。今はまだ、きちんとした弔いをする暇もない。それでも、荒れた波打ち際へ打ち捨てることだけは、誰にもさせなかった。
牛若は、そのあたりをまだぼんやり見ていた。
もう継信の姿はない。ただ、そこへ目だけが残っている。馬上へ戻ってからもずっとそうだった。先ほどまで海辺を舞っていた熱は、どこにも見当たらない。
忠信は主のすぐそばにいた。
兄を失った衝撃はまだ骨まで抜けていないだろう。ただ主の脇を離れぬという、その一点だけで立っている。手綱に触れられるところに、じっといた。
「義経さま……」
その力のない声に牛若は気づかないままだった。
三郎は少し離れたところを行き来していた。いつもの勢い任せの大股ではない。火の具合を見に行っては戻り、砂を蹴っては立ち止まる。
「牛若さま、大丈夫か……?」
時折低くつぶやきながら、ただうろうろしているだけだ。
鷲尾は牛若の濡れた草鞋を見て、具足の紐を直し、また意味もなく手を止める。何をすればよいのか分からぬ顔で、ただ主のそばをさまよっていた。「義経さま……」と言いかけて、結局引っ込める。
駿河は無表情に周囲の兵と荷の並びを直していた。誰をどこへ下げ、どの舟をどう寄せるか、目だけで考えている。その実務に縋ることで、ようやく正気を保っているようにも見えた。
弁慶は主の斜め後ろに立っていた。
敵はもういない。今は静かに立っているだけでよかった。
沖の方から新たな舟影が近づいてきた。
見覚えのある帆の形で分かる。遅れて到着した梶原景時たちの舟団だった。だが、浜へ寄る前から、一艘だけ妙に騒がしい。怒鳴り声が波の上を転がってくる。
「何もかも父上のせいです!」
景季の声だった。
「もう戦が終わっているではありませんか! あの嵐の時に、義経さまの御舟に乗っておれば、今ごろ私もこの勝ち戦の真ん中にいたのです!」
「ええい、いい加減黙っておれ!」
景時の怒声が返る。
「嵐に突っ込んで生きて渡れたこと自体が奇跡なのじゃ! 敵の不意を突く形になったゆえに、平家は崩れた! それを今さら責められても理不尽である!」
舟が浜へ寄る。まだ板も渡らぬうちから、景季は舳先へ身を乗り出していた。
火の跡、乱れた砂、血の跡、そして海へ退いていく平家の舟影。勝ち戦がすでに終わりかけているのは、浜へ着く前から分かっていたのだろう。景季の顔には、その遅れを呑み込めぬ悔しさが、ありありと出ていた。
板が渡るなり、景季は砂を蹴った。
「父上の臆病な理屈のせいで、我らは武士として名誉を逃したのです!」
景時もそのあとへ降り立つ。額には怒りと疲れが浮いていた。
「景季、一体いつまで叫び続ける気じゃ」
「叫ばずにいられますか! 義経さまのご渡海に従っていれば、私も義経さまをお守りし、屋島の勝ち戦の中にいられたのです!」
景時は頭を抱えながらため息をつく。
「何度言えば分かる。嵐の中を渡れたこと自体が奇跡だったのじゃ。下手するとここにたどり着く前に全員が死んでいたかもしれぬのだぞ。そんな双六をあてにしてはいかん」
「それでも」
景季はなおも食い下がる。
「義経さまは渡られたではありませんか! 父上があそこで邪魔をなさらねば、私も……!」
そこで景季の目が弟の姿を捉えた。
景高はすでに浜に降りていた。濡れた袖の先を静かに整え、何事もなかったような顔で牛若の方を見ていた。
「景高!」
景季の声がひっくり返る。
「お前、いつの間に義経さまのそばにいたのだ! 兄の俺を差し置いて抜け駆けするとは!」
景高は、兄へわずかに視線をやっただけで、背中を見せながら答えた。
「兄上はいつも大声を上げておられるから、父上の汚らわしい邪魔に絡め取られてしまうのです」
景時の眉がぴくりと動く。
「汚らわしい、などと……。息子のお前が梶原軍からいきなり消えて、わしがどんなに探したと思っておる」
「私は父上のように義経さまの邪魔をしたくなかっただけにすぎませぬ」
形の整った唇で景高は静かに言うだけだ。
「私は義経さまのお役に立てました。平家は総崩れでしたし、那須与一が扇を射る風情ある光景も拝見できました。思い残すことはありませぬ」
景季は悔しげに拳を握りしめ、すぐに父へ向き直る。
「ほら見るがいい! 景高にまでこう言われる羽目になった! 父上のせいで、我らは義経さまの尊い御戦をお守りできなかったのです!」
景時は盛大に息を吐いた。
「まるで話が通じぬ……」
こめかみをひどく痛そうに押さえている。
三郎は牛若の顔を一度見てから、ぼそりと弁慶に呟く。
「……あの帳面じじいがいたら、またややこしくはなっただろうな」
弁慶は無言でうなずいておいた。
鷲尾も笑わず、梶原家の声に肩をすくめながら、牛若の方ばかり見ている。忠信は目はうつろなまま牛若の後ろ姿を見つめるだけだ。弁慶も黙っていた。駿河は一度だけ視線を上げ、また兵の方へ目を戻した。
景時は深く息を吸い込み、牛若の元へ進み出るなり、まっすぐに見据えた。
「義経殿」
牛若は顔を景時の方に向けたが、心はそこにないことを弁慶は知っている。
景時は構わず続けた。
「平家は、ここを追われれば退く場所はほとんどありませぬ」
静かに波が寄せる。
「向こうの陸地は、すでに範頼殿が押さえておられる。敵が最後に踏みとどまるなら、壇ノ浦あたりになりましょう」
景時は言葉を切りながら、さらに重く置いた。
「今度こそ最後の戦にござる。今度こそ、その場で平家を降らせるか、さもなくば討ち果たさねばなりませぬ」
景季も景高も牛若の顔だけを見つめている。
景時は一拍置いて続けた。
「鎌倉殿からも求められている神器の奪還のためにも、次は無理な戦をしてはなりませぬ」
牛若の瞳は、まだ空いていた場所の方を向いていた。
景時の声が、さらに低くなった。
「操り人形の安徳天皇のもとに三種の神器がありますゆえ、慎重に戦を進める必要がございます」
牛若の視線が、そこで初めて動いた。継信の遺骸が置かれていたあたりから、ゆっくりと離れ、海の向こうへ移る。
弁慶は、その横顔を見た。
牛若は継信を抱いて泣いていたはずなのに、その涙の熱がもう、兄のために持ち帰るべきものへと、細く狭く戻り始めている。
「そうだな。神器、兄上が待っておられる」
三種の神器という言葉だけが、また牛若の中に一本の線を引いていく。
「坂東武者は元来陸でしか戦えませぬ。舟戦に長けた水軍が必要にござる。次は、勢いだけで押し切れる戦ではありませぬ」
景季は景時をきっと睨みつけたが、牛若の表情から目が離せないらしく声は出さない。景高も静かに牛若を見守っていた。
「うむ」
牛若は無感動な声でうなずいたが、理解したわけではなかろう。今は海の向こうだけを見つめている。
波が寄せては引く。
その先の海が、次の戦の気配を冷たく漂わせていた。




