第五十話 扇の的
海辺の音は少し穏やかになっていた。
波が寄せる。火はまだどこかで燻っている。海上の平家方も、岸の源氏方も、完全に退いてはいない。ただ、ひどく細い糸が張りつめたまま、互いを見ているだけだった。
その中で、牛若だけが、戦の輪の外へ半歩ずれていた。
継信の亡骸はすでに下げられている。だが牛若の目は、まだそこへ置き去りにされたままのように見えた。馬上に戻ってはいるが、さきほどまで海辺を舞っていた熱はどこにも残っていない。
三郎が、馬の脇から低く声をかけた。
「牛若さま……?」
返事がないのでもう一度呼ぶ。
「牛若さま」
牛若はようやく瞬きをした。
「……ああ」
それは頼りないつぶやきだった。継信が胸を貫かれ絶命した、その時に全てが抜け落ちたまま、まだ戻っていないのだろう。
忠信は牛若のそばにいた。決して離れない。主の手綱の届くあたりに立っている。目の焦点はどこか危ういが、それでも牛若の脇からは動かなかった。
駿河はその忠信を見て、何も言わない。鷲尾もうつむいてしまっている。
三郎だけがもどかしそうに砂を蹴った。
海上から笑い声が流れてきた。弁慶が目を上げると、平家方の船の一つに竿が立っている。その先で扇が揺れていた。薄暮の光と波に煽られ、ひらひらと危うい。
その下には女の影が見えた。扇の方を指して手招きしているのが見える。海へ退いた平家が、岸の源氏を誘っている。むしろ挑発している。
陸でも海でも、一瞬だけ音が引いていた。
矢を番える手も、怒鳴り声も、今だけ聞こえない。ただ張りつめたまま息を呑んだだけだった。
牛若もその扇を見た。目はうつろだった。
「……誰か」
声が乾いていた。
「あれを、射落とせる者は」
それは命令ではなく、興味のなさそうな問いかけだった。何かが抜け落ちたまま、言葉だけを紡ぎ出していた。
誰もすぐには動かなかった。扇の的が遠すぎる。力攻めの弁慶にも無理だ。
その時、梶原景高が一歩だけ前へ出た。
海辺では静かに牛若の周囲を守っていた。継信の死にも後ろで静かに手を合わせていた。
「義経さま」
その声は涼やかだが、妙に耳へ届いた。
「景高が?」
牛若が乾いた声で、それでもわずかに微笑むと、景高は頬を微かに染めた。弁慶は拳を握りしめた。
「いえ、申し訳ありませぬ。未熟者の私には無理ですが、弓の名手を存じております」
「そうか」
継信を失った傷のせいか、かえって牛若の視線が真っ直ぐなものだから、景高はどぎまぎしてしまうのを隠せないようだった。
「あ、はい。お呼び申し上げます。……与一!」
「……はいっ」
与一と呼ばれた男は、いくらか狼狽えた声で返事をして駆け寄った。
「それがし、那須与一と申します」
ささやくような声がよく響く、物静かでいて爽やかな青年だが、牛若に見つめられて異常に動揺しているのが弁慶にも分かる。
「与一。あの扇の的を射てくれ」
牛若は真っ直ぐに見つめたまま、わずかな微笑みをこの男に与えた。
「は、はい……?」
元気よく返事しようとして、その任務の重さに思い至ったのか、背中が情けなく震える。
「あの……その務めは……」
爽やかな声音に焦りがある。弓の名手らしいが、あそこまで遠くの的で戦の士気にも関わるから、あまりにも荷が重いにちがいない。
だが、牛若はそんな与一の顔を無感動に真っ直ぐ見つめた。
「頼む。そなたにしかできぬであろう」
「は、はい」
与一は牛若にためらいなく見つめられて、何も言えなくなる。
「……承りました」
意を決した声だった。波打ち際まで馬を入れる。扇はなお揺れていた。風も波もある。暮れかけた光も、心を落ち着かせるには足りない。
与一はそっと弓を取った。
喉から何かを唱える声が漏れ出ている。これは普通の弓遣いの場ではあるまい。祈るように目を伏せ、ぎゅっとつぶってから開く。熱に浮かされたような横顔だ。牛若の乾いた声での期待に耐えられず、今の与一は神仏に縋っているのだろう。
牛若はぼんやりと見ているだけだった。
弓が鳴ると、矢はまっすぐ飛んだ。
風に乗った矢は、扇を真正面から射抜いた。
海上からも岸からも、大きなどよめきが広がる。扇は竿の先から離れ、暮れかけた海の上へ落ちていく。
「おおおっ!」
三郎が思わず叫び、横の鷲尾も目を見開いている。景高もそっと微笑んでいる。平家方の船でも、源氏方の岸でも、誰もがその一矢に心を奪われた。
だが、牛若だけは虚空を見つめていた。
海上の平家方から、別の舟が前へ出る。扇を射落とされたままで終わる気はないらしい。舟の舳先に立った武者が、渚へ向かって何事か怒鳴った。言葉までは波に掻き消えたが、挑発であることは明らかだった。
さらに別の小舟が寄る。岸近くで櫂を止め、弓を構える気配が立った。
「来るぞ!」
三郎が闘志をあらわにする。戦の空気が戻った。
牛若は無反応のままだった。
駿河が半歩寄る。忠信も、焦点の定まりきらぬ目のまま、主の脇へさらに詰めた。三郎は主の顔を心配そうに見つめながら、再度敵を見る。
沈黙を埋めるように弁慶が前へ進み出た。
「牛若さま」
呼ぶと、牛若がわずかに顔を向けてくれる。弁慶の胸はそれだけでも高鳴るが、それだけのことでしかない。
三郎も忠信も、そのか細い反応へ飛びつくように動いた。主の欠けたところを、周りが忖度して埋め始める。そういう形でしか、もう戦を進められぬのだろう。
海辺の緊張が戻った。
矢が飛び、波が返し、舟が寄る。
牛若は馬上から動かなかった。
さきほどまでの舞の熱は戻らない。周囲が主のために道を作り、敵を払い、気配を読み、言葉を継ぎ、まるで壊れたものを抱えて運ぶように戦を支えていた。
三郎は鷲尾といつも以上にがなり立て、駿河は冷えた目で先を読み、忠信は半ばうつろな表情のまま、それでも主のそばを離れない。景高は牛若の周囲をきれいな太刀さばきで守った。
弁慶は長刀を握りながら、ふと継信の最期に思いを馳せた。牛若の心は、継信に奪われたままだ。
勝ちは近づいているのかもしれない。
平家はまだ海へ退き、こちらは岸を押さえ、挑発にも応えた。屋島の流れそのものは、源氏に傾き始めているようにも見えた。
だが、牛若の瞳は虚空を見つめたままだった。
兄に褒められる未来だけを追っていたはずの主が、ただ継信の死でひび割れたまま、勝ちに近づく戦の中で置き去りにされていた。
海辺の風が吹き、波が寄せて引く。
海上に消えていく平家を追いきることはできないが、戦は確かな勝利に向かっていた。




