表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第三部 栄光の空洞

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

50/64

第五十話 扇の的

 海辺の音は少し穏やかになっていた。


 波が寄せる。火はまだどこかで燻っている。海上の平家方も、岸の源氏方も、完全に退いてはいない。ただ、ひどく細い糸が張りつめたまま、互いを見ているだけだった。


 その中で、牛若だけが、戦の輪の外へ半歩ずれていた。


 継信の亡骸はすでに下げられている。だが牛若の目は、まだそこへ置き去りにされたままのように見えた。馬上に戻ってはいるが、さきほどまで海辺を舞っていた熱はどこにも残っていない。


 三郎が、馬の脇から低く声をかけた。


「牛若さま……?」


 返事がないのでもう一度呼ぶ。


「牛若さま」


 牛若はようやく瞬きをした。


「……ああ」


 それは頼りないつぶやきだった。継信が胸を貫かれ絶命した、その時に全てが抜け落ちたまま、まだ戻っていないのだろう。


 忠信は牛若のそばにいた。決して離れない。主の手綱の届くあたりに立っている。目の焦点はどこか危ういが、それでも牛若の脇からは動かなかった。


 駿河はその忠信を見て、何も言わない。鷲尾もうつむいてしまっている。


 三郎だけがもどかしそうに砂を蹴った。




 海上から笑い声が流れてきた。弁慶が目を上げると、平家方の船の一つに竿が立っている。その先で扇が揺れていた。薄暮の光と波に煽られ、ひらひらと危うい。


 その下には女の影が見えた。扇の方を指して手招きしているのが見える。海へ退いた平家が、岸の源氏を誘っている。むしろ挑発している。


 陸でも海でも、一瞬だけ音が引いていた。


 矢を番える手も、怒鳴り声も、今だけ聞こえない。ただ張りつめたまま息を呑んだだけだった。


 牛若もその扇を見た。目はうつろだった。


「……誰か」


 声が乾いていた。


「あれを、射落とせる者は」


 それは命令ではなく、興味のなさそうな問いかけだった。何かが抜け落ちたまま、言葉だけを紡ぎ出していた。


 誰もすぐには動かなかった。扇の的が遠すぎる。力攻めの弁慶にも無理だ。


 その時、梶原景高が一歩だけ前へ出た。


 海辺では静かに牛若の周囲を守っていた。継信の死にも後ろで静かに手を合わせていた。


「義経さま」


 その声は涼やかだが、妙に耳へ届いた。


「景高が?」


 牛若が乾いた声で、それでもわずかに微笑むと、景高は頬を微かに染めた。弁慶は拳を握りしめた。


「いえ、申し訳ありませぬ。未熟者の私には無理ですが、弓の名手を存じております」


「そうか」


 継信を失った傷のせいか、かえって牛若の視線が真っ直ぐなものだから、景高はどぎまぎしてしまうのを隠せないようだった。


「あ、はい。お呼び申し上げます。……与一!」


「……はいっ」


 与一と呼ばれた男は、いくらか狼狽えた声で返事をして駆け寄った。


「それがし、那須与一と申します」


 ささやくような声がよく響く、物静かでいて爽やかな青年だが、牛若に見つめられて異常に動揺しているのが弁慶にも分かる。


「与一。あの扇の的を射てくれ」


 牛若は真っ直ぐに見つめたまま、わずかな微笑みをこの男に与えた。


「は、はい……?」


 元気よく返事しようとして、その任務の重さに思い至ったのか、背中が情けなく震える。


「あの……その務めは……」


 爽やかな声音に焦りがある。弓の名手らしいが、あそこまで遠くの的で戦の士気にも関わるから、あまりにも荷が重いにちがいない。


 だが、牛若はそんな与一の顔を無感動に真っ直ぐ見つめた。


「頼む。そなたにしかできぬであろう」


「は、はい」


 与一は牛若にためらいなく見つめられて、何も言えなくなる。


「……承りました」


 意を決した声だった。波打ち際まで馬を入れる。扇はなお揺れていた。風も波もある。暮れかけた光も、心を落ち着かせるには足りない。


 与一はそっと弓を取った。


 喉から何かを唱える声が漏れ出ている。これは普通の弓遣いの場ではあるまい。祈るように目を伏せ、ぎゅっとつぶってから開く。熱に浮かされたような横顔だ。牛若の乾いた声での期待に耐えられず、今の与一は神仏に縋っているのだろう。


 牛若はぼんやりと見ているだけだった。


 弓が鳴ると、矢はまっすぐ飛んだ。


 風に乗った矢は、扇を真正面から射抜いた。


 海上からも岸からも、大きなどよめきが広がる。扇は竿の先から離れ、暮れかけた海の上へ落ちていく。


「おおおっ!」


 三郎が思わず叫び、横の鷲尾も目を見開いている。景高もそっと微笑んでいる。平家方の船でも、源氏方の岸でも、誰もがその一矢に心を奪われた。


 だが、牛若だけは虚空を見つめていた。


 海上の平家方から、別の舟が前へ出る。扇を射落とされたままで終わる気はないらしい。舟の舳先に立った武者が、渚へ向かって何事か怒鳴った。言葉までは波に掻き消えたが、挑発であることは明らかだった。


 さらに別の小舟が寄る。岸近くで櫂を止め、弓を構える気配が立った。


「来るぞ!」


 三郎が闘志をあらわにする。戦の空気が戻った。


 牛若は無反応のままだった。


 駿河が半歩寄る。忠信も、焦点の定まりきらぬ目のまま、主の脇へさらに詰めた。三郎は主の顔を心配そうに見つめながら、再度敵を見る。


 沈黙を埋めるように弁慶が前へ進み出た。


「牛若さま」


 呼ぶと、牛若がわずかに顔を向けてくれる。弁慶の胸はそれだけでも高鳴るが、それだけのことでしかない。


 三郎も忠信も、そのか細い反応へ飛びつくように動いた。主の欠けたところを、周りが忖度して埋め始める。そういう形でしか、もう戦を進められぬのだろう。


 海辺の緊張が戻った。


 矢が飛び、波が返し、舟が寄る。


 牛若は馬上から動かなかった。


 さきほどまでの舞の熱は戻らない。周囲が主のために道を作り、敵を払い、気配を読み、言葉を継ぎ、まるで壊れたものを抱えて運ぶように戦を支えていた。


 三郎は鷲尾といつも以上にがなり立て、駿河は冷えた目で先を読み、忠信は半ばうつろな表情のまま、それでも主のそばを離れない。景高は牛若の周囲をきれいな太刀さばきで守った。


 弁慶は長刀を握りながら、ふと継信の最期に思いを馳せた。牛若の心は、継信に奪われたままだ。


 勝ちは近づいているのかもしれない。


 平家はまだ海へ退き、こちらは岸を押さえ、挑発にも応えた。屋島の流れそのものは、源氏に傾き始めているようにも見えた。


 だが、牛若の瞳は虚空を見つめたままだった。


 兄に褒められる未来だけを追っていたはずの主が、ただ継信の死でひび割れたまま、勝ちに近づく戦の中で置き去りにされていた。


 海辺の風が吹き、波が寄せて引く。


 海上に消えていく平家を追いきることはできないが、戦は確かな勝利に向かっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ