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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第三部 栄光の空洞

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第四十九話 完全な盾

 広がる炎は浜を舐めるように走っていた。


 阿波の岸へ放たれた炎は、風に煽られて背後へ広がる。平家方の陣からどよめきが立った。


「何だ!」


「後ろだ、後ろからだ!」


「源氏が回り込んだぞ!」


 火の向こうで、兵の声が乱れていた。海辺へ向かって駆ける影、小舟へ押し寄せる影、武具の音、女たちの悲鳴めいたものまで混じる。平家方は背後からの火を見て、少人数とは思わなかったのだろう。狼狽がそのまま海へ流れ込んでいく。


「ほら見ろ」


 三郎が歯を見せて笑った。


「効いてるじゃねえか」


 牛若は火の先を見ていた。濡れたままの髪がまだ頬へ貼りついている。嵐の夜を越えた息は浅く、それでも目だけは前へ伸びていた。


「進まねばならぬ」


 その一声で、従者たちはいっせいに動いた。


 牛若たちを大軍と勘違いした平家は海へと逃げ込んだが、しばらくしてさほどの人数でないと気づいたようだ。小舟を渚へ寄せ、そこから弓をかけてくる。こちらは浅瀬まで馬を進め、波打ち際で敵を倒していく。水が足元を引き、火が背後でうねり、砂と潮と煙が混じり合っていた。


 今は牛若の舞も馬上からの戦いだ。牛若のすぐ前には、自然と楯のように男たちが並ぶ。三郎、継信、忠信、鷲尾、弁慶。そのさらに脇で駿河が目を光らせる。景高の姿もあった。


 浜に乗り捨ててきた形のため、こちらはすぐに追える舟がない。牛若は三種の神器を求めて必死に辺りを見回し、敵を薙ぎ払う舞を続ける。太刀が美しく弧を描く。


 平家方の矢も視線も一点へ集まっていた。源氏の群れを崩すより、ただあの舞うように動く総大将だけを射落としたい。そんな気配が、波打ち際の空気に滲んでいた。


 波が打ち、向こうの舟が揺れた。


「――我こそは平能登守教経(のとのかみのりつね)なり!」


 海上の舟に大きな影が見えた。異常に大きな弓を操り、牛若の周りの兵たちを一つ一つ射抜いていく。身体は弁慶並みの巨大さだ。


「おい弁慶」


 三郎もその男に気づいたらしい。


「あれ、お前の親戚じゃねえのか」


 軽口を叩いて笑う三郎を弁慶は厳しく制した。


「あれはもっと素早い。油断ならぬ」


 その影――教経は、ただ一人だけ、最初から牛若しか見ていなかった。


 他の兵が誰を射るかも、火がどこへ回るかも、まるでどうでもよいらしい。牛若の舞と足運びと、わずかな隙だけを待っている。そういう目だった。


「牛若さま!」


 弁慶は胸騒ぎを覚えて叫んだ。


「海岸からお離れ下さい!」


 しかし、大混戦の中で弁慶の大音声は牛若に届く様子はない。


 火の赤と海の黒の間で、その動きはやはり人のものには見えなかった。馬上で身を翻し、波打ち際の砂と浅瀬をまるで平らな庭でもあるかのように渡っていく。身体そのものが舞うようだった。


 その時、背後の火が風に煽られた。ばっと火の粉が散る。馬が首を振り、牛若がほんのわずかに目を細めた。


 その裂け目を、教経だけが見逃さなかった。


「牛若さま!」


 弁慶が駆け寄ろうとしても間に合わない。


 継信だけが教経の視線に気付き、咄嗟に素早く一歩前へ出た。


 鈍い音がした。


 矢が深く刺さっていた。


 継信の身体が馬上でひと呼吸だけ止まり、それから静かに傾く。


「兄者!」


 忠信が叫ぶ。


 継信は真っ逆さまに馬から落ちた。砂と浅い潮に半ば浸かるように崩れる。そこへ平家方の兵が、首を狙って寄った。


 忠信は兄の首を取らせまいと、歯を剥いて太刀で飛びかかる。


 同時に、舞っていた牛若が気づいた。


「継信!」


 牛若はほとんど落ちるように馬から飛び降りた。


 弁慶もその後を追う。教経の舟は遠ざかっていた。三郎と鷲尾が罵りながら周囲を払い、駿河が無言で間へ入り、忠信がなお兄の首の前に立ちはだかっていた。


 牛若はためらいなく膝をついた。


「継信! 継信……!」


 あまりにも悲痛な涙声だった。継信の身体をさっと抱き寄せる。


「義経……さま……」


 継信の口元に、わずかな笑みが浮かんだ気がした。顔からは急速に色が引いている。だが、目だけはまだ牛若を見ていた。


「……ご案じ、めされますな」


 息の下から、かすれた声が出る。微笑みが引きつっていた。意識的に笑おうとしているらしい。


「それがしは……死にませぬ」


 腹に力を込めて言っている。牛若を悲しませまいと努めているようだった。


 牛若は子供のように嗚咽と共に涙を溢れさせていた。


「継信っ……たのむ……!」


 継信の息が目に見えて浅くなる。さっきまで無理に持ち上げていた声の色が、すっと落ちた。


「義経さま……申し訳、ありませぬ……」


 自らの天命を悟った声音だった。ほんのわずかに、唇がほころぶ。


「義経さま……それがしは……」


 どんどん消えゆく継信の声に、弁慶も聞き耳を立てた。


「あの夜のこと……墓まで……」


 そこで言葉は途切れた。最後の息が抜ける。目に残っていた光がすっとほどける。その瞬間、牛若の中で何かが音もなく崩れた。


「……いやだ……! 継信……!」


 ひどくか細い、幼い声だった。


「継信……私を、置いていかないでくれ……! あぁ……!」


 牛若は冷たくなっていく継信にためらいなく抱きついた。幼子のように肩を震わせ、声を上げて泣き崩れる。その泣き声は、さっきまで海辺で舞っていた者のものとは思えなかった。


「継信……継信……!」


 弁慶は、その光景を見下ろしたまま動けなかった。


 胸の奥へ冷たいものが差し込む。継信は「墓場まで」、何かを持っていった。常盤御前のことの全てを知っていたのかという疑念が、胸の奥をきつく締め上げる。


(死ねば、ここまで、この方に泣いていただけるのか……)


 胸の底の足場が、そっと崩れた。


「兄者……!」


 敵を斬り伏せてそばにたどり着いた忠信も、兄のそばへ膝をついたまま固まり、そのまま泣き崩れた。兄の首を取られぬようにと牙を剥いていた顔から力が抜けていくのが見えた。


「あんた……奥州を出た時からずっと一緒だったのによ……」


 三郎も涙をこらえられない様子だった。他の者たちにもその悲哀が広がっていく。


 火はまだ上がっている。波も寄せている。平家方の舟も、こちらの兵も、完全には止まっていない。


 だが、牛若の泣き声だけが、その場のすべてを凍らせていた。


 自分を守ってくれた男の死骸へ縋りついて泣き続ける。


 その姿はあまりにも無防備だった。そこに居合わせた者たちの心まで、冷たく引き裂いていく。


 弁慶は長刀を握ったまま、牛若と継信から目を離せなかった。


 波が寄せては引く。


 そのたびに、継信の裾と牛若の濡れた袖が、同じように揺れていた。

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