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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第三部 栄光の空洞

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第四十八話 暴風渡海

 岸の灯はまだ見えていた。


 五艘の舟は、岸を離れた途端に、まっすぐ進むということを忘れたようだった。波が下から持ち上げ、次の瞬間には叩き落とす。舟板が呻き、帆が裂けそうな音を立て、桶も綱も人も、同じ闇と潮の中で打たれていた。


 船頭たちの顔は青ざめきっていた。


 岸で牛若に見つめられ、綱を解いた時の熱など残っていない。歯を食いしばり、濡れた板へ足を開き、ただ舟を返さぬように必死でしがみついている。もう引き返せない。後ろを見れば、港の灯が雨の向こうでちぎれちぎれに滲んでいるだけだった。


「もっと腰を落とせ!」


 船頭の怒鳴り声が飛ぶ。


「馬の頭を押さえろ、そっちへ寄るな!」


 牛若たちの舟も波に揉まれていた。板の継ぎ目から水が吹き上がり、下半身がたちまち濡れる。ひときわ高い波が横から打つたび、舟そのものが軋んで身をよじるようだった。


 三郎が、濡れた髪を顔へ貼りつけたまま怒鳴った。


「牛若さま、そっち危ないですよ!」


 言った途端に、自分の身体を牛若の前へねじ込む。波がさらに打ち、三郎の肩と背で潮を受けた。


 忠信は主の腕へしがみついていた。滑る板の上で、牛若の身体が海の方へ持っていかれぬよう、半ば抱きつくような格好で支えている。


「義経さま、こっちへ!」


 継信は足場だけを見ていた。舟が傾くたび、牛若の踏む板の角度へ自分の足を差し入れ、打ちつけられぬ位置へさりげなく誘導している。


 駿河は船頭の動きと従者たちの位置を見ていた。最低限の秩序だけは崩すまいとする目つきだったが、その視線も結局、牛若から離れなかった。


 鷲尾は意味も分からぬまま、ただ牛若の腰のあたりへ両手を伸ばしていた。


「義経さま、海に落ちないようお気をつけて!」


 雨を袖でぬぐいながら、弁慶は予想外の影に気づいた。どこにでもいる美少年。


「……そなた、いつの間に?」


 相手の名前は覚えていたが、呼びかける気もしなかった。梶原景高は妙に静かな顔で板に片手をつき、もう片方で濡れた袖を払っていた。


「空いておりましたので」


 波が舟腹を叩く。景高の顔は涼やかなものだった。


「義経さまのお役に立ちたく」


 景季が景時に取り押さえられていた時、この少年はとっくに舟の中にいたらしい。当然のような顔で、濡れた板の上へ膝を据えている。


「……なるほど」


 弁慶は興味もなく吐き捨てた。




 灯はほとんど役に立たない。他の舟がどこにいるのかも、声と黒い影でしか分からない。波が横から打ち、水が板の上を走る。足を取られるたび、誰かの肩や腕がすぐ牛若へ伸びる。その繰り返しだった。


 牛若はただ前を見ていた。濡れた髪が頬へ貼りつき、息が掠れても、後ろは振り返らなかった。


「兄上に、勝利を捧げねば……!」


 呪文のような言葉がいささか甲高く響く。


「今度こそ、神器を……!」


 波に揉まれながら言う。


 宇治川も、一ノ谷もそうだった。


 天界の稚児の命がけは、世の武者のそれとは違う。普通の命がけは死んでも名誉が残る。だが宇治川の濁流も、一ノ谷の崖も、今の荒波も、死んだらただの犬死にだ。この荒波なんて、その死を見届けてくれる者さえいないのだ。だから景時は、岸であれほど声を潰していたにちがいない。


 波が一気に高くなった。舟が大きく傾く。積み荷のひとつがほどけ、滑り、船頭が怒鳴る。馬が嘶き、後ろ足で板を打った。舟が沈むのではないかと思うほど、片側へ重みが寄った。


「押さえろ!」


「綱だ、綱を取れ!」


 その瞬間、牛若の足が板の上で浮いた。


「義経さまっ!」


 鷲尾がすかさず飛びついた。荒波で牛若の身体は翻弄される。三郎が即座に肩を掴み、忠信が腕を取る。継信がその下へ足を差し込み、駿河が反対側から背を支えた。


 波はさらに来た。いくら食い止めようとしても、舟そのものが揺れている。牛若の身体は驚くほど軽く、海はその軽さをひと息で奪いそうだった。


 弁慶はその中へ腕を差し入れた。


 ほとんど引き寄せるようにして、牛若を自分の胸へ抱き込む。濡れた直垂ごと、がっしりと囲い込む。舟の中央へ半歩、半歩と押し戻し、自分の両足を板へ踏み広げた。


「牛若さま」


 声は波音へ消えたかもしれない。


 腕の中にある主はたしかに熱を帯びていた。海に奪われかけているものを、己の力で押し留めている。その軽さ、その熱、その必死な息遣いが、弁慶の身体の奥へ甘く、容赦なく沈んでいく。


 今にも消え入りそうな牛若は、弁慶の腕の中で吐息を乱れさせていた。


「……兄上……!」


 牛若は弁慶の名を呼びはしなかった。弁慶は、抱いたまま目を閉じた。


 波が少し引いたと思えば、また別の向きから舟を叩く。雨は降り続き、声は枯れ、誰の顔も闇の中ではまともに見えない。




 いつの間にか、風の質が変わっていた。刺すような冷たさの奥へ、土に近い匂いが混じる。


 嵐が治まっていた。弁慶は牛若の身体をそっと解放し、強く拳を握りしめた。


 船頭の一人が、闇の先を見て身を乗り出した。


「……岸だ」


 誰かが息を呑む。


「見えたぞ!」


 暁の気配すらまだ薄い中、阿波の岸影がぼんやりと浮かび上がった。舟はなお揺れていたが、さっきまでの果てしなさとは違う。闇の向こうに、確かに陸地があった。


 荒波のせいで、おそるべき早さで到着してしまったにちがいない。


「着いた……!」


 三郎に続いて、皆が歓喜の声を上げた。牛若もうれしそうな表情で立っていた。岸に敵兵は見当たらなかった。




 上陸するなり、牛若は佐藤兄弟の助けで馬に乗り、弁慶も三郎たちも馬に乗って準備を整えた。景高の姿もある。鷲尾も六条堀川で覚えた手捌きで馬に跨る。


 広々とした海岸で、牛若もまずどこを目指せば良いか分からないようだ。


 三郎がふと振り向いた。


「……おい。俺たち、これだけかよ?」


「えっ?」


 鷲尾の間の抜けた声に続き、忠信も顔を上げて人数を目で追った。継信は何も言わない。駿河の顔だけが、火の明かりの中でわずかに曇る。


 弁慶も我に返った。主の眩しさで、いつの間にか大軍になった気でいたが、そもそも舟に乗り込めた人数はそこまで多くなかったのだ。


「……仕方ねえな」


 三郎が何か閃いた様子だ。


「俺の盗賊の血が騒ぐぜ。火を放っちまうのがいいさ」


 言うなり、火打石でさっと火を起こし、腰袋から取り出した松明に発火する。


「牛若さま」


 三郎の口調はいつも以上に晴れやかだった。


「敵はすぐそこでしょう。たまには俺が先導しますから。あ、牛若さまは火を触っちゃいけませんよ!」


 言うなり三郎が馬を走らせる。濡れた木や覆いへ火を移し、夜と風の中で炎を上げさせようとしている。


 なるほど、こうやって火を広げれば、少人数と悟られにくいかもしれない。


 弁慶たちも三郎の真似をすると、あちこちで一気に炎が上がった。


 浜を赤い光が走り広がっていく。牛若は無邪気に三郎の後を追う。火と夜と牛若の眩しさが合わさり、一瞬、自分たちまで大軍になったような気がしてくる。


 背後には海、前には平家の地。火の向こうで、狼狽の気配がざわめいている。


 ここは死地になるかもしれない。それでも牛若は前を見ていた。弁慶はそれを必死に追う。


 あの濡れた横顔に、恐れは見えない。ただ、まだ見ぬ勝ちだけを追っている。


 弁慶は、長刀の柄を握り直しながら馬を走らせた。炎が揺れて影が伸び縮みする。


 すべてが火の向こうで揺れ動いていた。

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