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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第三部 栄光の空洞

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第四十七話 嵐の夜

 夕刻前だというのに、渡辺津(わたなべのつ)の空はもう低かった。


 潮の匂いが重く垂れ込め、舟板の軋みと、荷を運ぶ足音と、船頭たちの怒鳴り声が、湿った風に押し返されるように浜へ溜まっていた。


 その中を、髭の濃い船頭のまとめ役らしい男が早足で駆けてきた。濡れた前髪を片手で払い、牛若の前で足を止める。


「御大将義経さま。舟の手筈、整いました」


 牛若の顔が、ぱっと明るくなった。


「そうか。では、すぐ出られるのだな」


「はい」


 三郎が顔を上げた。


「ようやくだな!」


 忠信はその場で馬具を確かめに走った。継信は積み荷の軽重と人数を見ている。駿河は沖の方へ目をやったまま黙っていた。風向きを見ているらしい。鷲尾は何か手伝えることはないかと足を浮かせてうろうろしている。


 弁慶は舟を見た。


 船尾はすっきりしていた。景時が散々言い立てていた逆櫓は現れないだろう。


 牛若は、もうそのことなど胸中にないらしい。肩のあたりから、ずっと張っていた気が少しだけほどけている。


「兄上のために、やっと戦える」


 その独白に逆らうかのように、風が変わった。


 沖の海が、いつの間にか黒く濁り始めていた。帆柱が低く唸り、綱が湿って重く鳴る。ぽつぽつと雨が落ち始め、舟板の上へ黒い点を作る。


 船頭たちの顔つきが変わった。


 一人が沖を見たまま口を閉ざし、別の一人は無言で綱を握り直す。誰も「出る」とは言わない。海の(ことわり)を知る者の静かな動きだった。


 雨脚はすぐに強まった。風に押され、横から頬を打つ。馬が鼻を鳴らし、首を振る。


「皆さま、嵐ですぞ!」


 向こうから現れた景時の声が飛んできた。


 濡れた板を踏みしめ、まっすぐ牛若たちの前へ出てくる。


「今夜の出航はなりませぬ!」


 船頭たちは、あからさまに安堵したようだった。誰も異を唱えない。今夜は危ないと、もう腹の底で決めていたのだろう。


 牛若の口元が、すっと強張る。


「なぜだ」


 景時は真正面から答えた。


「義経殿、この風で出航するのは危険すぎます。ご理解なされよ」


「だが、舟は整ったのであろう」


「舟があることと、今夜それで海に乗り出すこととは別にござる」


 牛若の喉が、小さく動いた。


「兄上は、一刻も早い吉報を待っておられるはずだ」


 雨が頬を伝うが、牛若は拭いもしなかった。


「三種の神器は、まだ戻っていない。急いで勝たねばならぬ」


 景時が一歩、詰めた。


「今、船を出してはなりませぬ」


 風がさらに強くなる。舟の腹を打つ音が重い。


「この風では、勝ちに行く前に海に呑まれますぞ」


「やっと船が整ったのに」


 声が掠れていた。


「なぜ待たねばならぬのだ」


 景時はため息をつきながらも譲らなかった。


「嵐では馬も暴れ、船は傾き、沈む恐れがござる」


 忠信が馬の鼻面を押さえ、継信が覆いの紐を締め直す。三郎は舌打ちしながら、牛若へ吹きつける雨を少しでも自分の肩で受けようとしていた。


「積み荷が崩れれば、立て直しは利きませぬ」


 景時の濁った声は雨の中でもよく響いた。


「漕ぎ手が怯えれば(かい)も揃いませぬ」


「父上!」


 いつの間にか来ていた景季が、もう耐えられぬという顔で勢いよく進み出た。


「父上、義経さまは今すぐ出たいとおっしゃっているのでしょうが!」


「またか。お前はとにかく黙っておれ」


「なぜです! やっと準備が整ったではありませんか!」


 景時は景季を見もせぬまま、さらに言葉を重ねる。


「義経殿。一艘が崩れれば、他の舟まで巻き添えになりますぞ」


 景時は本気で止めようとしている。だが、その理屈は虚空を見つめる主の胸の痛みに、少しも届きはしないだろう。待てと言われるたび、主の中の何かが削れていくようだった。


 牛若は、雨の向こうの沖だけを見ていた。


「今夜でなければならぬのだ」


 細くなった声が、雨に流れる。


「なぜでござるか」


 牛若は深く息を吸い込んでいた。


「兄上が、待っておられる。早く兄上に勝利の知らせを届けたい。嵐ゆえに遅くなるなど、兄上はお喜びにならぬ」


「義経殿」


 景時の声が、わずかに落ちた。ため息をついている。


「嵐を進めば鎌倉殿がうれしくお思いになるわけではござらぬぞ。今夜沈めば、鎌倉殿はただ弟を失うだけでござる。神器も、勝ちも、何も届きませぬ。ご理解なされよ」


 牛若は答えず、ただ荒れる海に視線を移す。


 牛若にとって、嵐などどうでもよいのだろう。ただ、今ここで遅れれば兄の心が離れる、そのことへの恐れだけがあるにちがいない。


 三郎は「今回の帳面じじい、いつもより粘りやがるな……」と、雨に押さえつけられたような低い小声で呆れてみせる。


 忠信は主の袖口を濡らす雨をそっと払っていた。継信は一歩前へ出て、牛若の雨よけになろうとする。駿河は景時から静かに視線を外した。鷲尾だけが、牛若と景時の間でおろおろしたまま動けなかった。


「父上、どこまで義経さまを困らせるおつもりですか!」


 たまりかねた様子の景季が口を開く。


「お前とて嵐の海など未経験であろう。黙っておれ」


「いいえ、今行きたいとおっしゃる義経さまの清らかな心を、父上はいちいちおかしな理屈で潰そうとなさる! 宇治川でも一ノ谷でも奇跡を起こされた義経さまを、なぜ信頼しようとしないのですか!」


「また申すか……」


 景時はこめかみを押さえながら息子を睨む。


「その奇跡が、今回も起こる保証はないと何度言ったら分かる。しかも今回は、海の中に消えてしまえば、そのまま行方知れずになってしまうのだぞ」


「ええい、理屈ばかりこねる父上め! 私は一度でも義経さまを信頼なされよと申し上げているのです!」


「いちいち声を荒げるな! お前では話にならん!」


「そうやってすぐ議論から逃げる! いい加減になされよ!」


 見慣れた口論に興味を失った弁慶はそっと目をそらした。


 牛若はもう景時など見ていなかった。


 一歩、また一歩と、従者たちの前を抜けていく。


 三郎が思わず手を伸ばしかけ、すぐに引っ込めた。忠信は主の袖を濡らす雨を払ったまま顔を上げる。継信は半歩ずれて、その背が風へまともに晒されぬようにした。駿河の目だけが、無言でその行き先を追っている。鷲尾は息を呑んだまま、ただ道を空けた。


 誰一人、止める言葉を持たなかった。


 船頭たちの前へ、牛若は自ら進み出る。


 船頭たちは顔を背けた。海を知る者ほど、この頼みが狂気に見えるのだろう。牛若の濡れた直垂は身体へ重たく貼りつき、華奢な肩には雨が容赦なく叩きつける。掠れた息が白く乱れる。


 ただ、その横顔は天界の稚児の清廉さをいつも以上に深くたたえていた。


 牛若は、いちばん前の船頭の方へ進み出た。


「すまぬ。兄上が待っておられるのだ」


 船頭は目を伏せたまま動かない。


「今夜、どうしても出ねばならぬ」


 雨が牛若の睫毛に溜まり落ちていく。


「頼む……!」


 牛若は泣きそうな声で懇願した。


「舟を、出してくれ……!」


 たまらず船頭は顔を上げた。真正面からその目を受けて、ぎょっとした様子だ。


 男の喉が大きく鳴っている。言葉が出ない様子だ。ずぶ濡れの稚児のような総大将に見つめられたまま、何も言えなくなっている。唇がわずかに震え、手だけが綱の方へ動いた。


 隣の船頭が小さく後ずさる。


「おい、やめろっ」


 だが、牛若に見つめられた男はもう聞いていなかった。熱に浮かされたかのように、一人で必死に動き続けている。牛若は隣に向き直った。


「そなたも、頼む……!」


 この別の男も同じように顔を上げ、牛若と目が合うなり、色を失ってしまう。景時のいる方を一度見たが、すぐに視線を戻した。命令よりも、この天界の稚児の懇願の方へ心が引かれてしまったにちがいない。


 弁慶は、人の、分かれ目を見ていた。


 理屈ではない。


 牛若に見つめられたかどうか、それだけで人は別れてしまうのだ。


 あの清らかな目を正面から受けた者だけが、まるで何かの術にかかったように、死ぬかもしれぬ舟へ手をかける。


 天界の稚児が何か術を使ったわけではない。ただ進みたいと願っただけだ。兄のために。神器のために。今すぐ出たい、それだけだった。


「綱を解け!」


 とうとう一人が叫んだ。


「板を寄せろ、早く!」


「灯を隠せ、風で消える!」


 急に、牛若たちの舟だけが生きもののように動き始めた。


「義経殿! 何をしておられる!」


 景時が叫びながら駆け寄ってきた。


「船頭たちも一体何をしておる! 正気を失いおったか! 手を止めよ!」


 景時の怒号が飛ぶ。


 嵐の中の出航を準備しようとする船頭たちには、景時の声はもう届いていなかった。


 三郎が真っ先に板へ足をかける。


「牛若さま、こっちです!」


 忠信は馬を押し、継信は人の流れを短く捌いた。鷲尾も後に続く。駿河は濡れた板の具合だけを見て、牛若の足元を気にしている。弁慶は息を詰めたまま、主の背を追った。


「義経さま!」


 景季が叫んだ。


「私も乗ります!」


 張り裂けそうな声だった。景季は本気で舟へ飛びかかろうとしていた。


 景時がすかさず腕を取り上げた。


「離せ父上!」


 景季は身体をよじる。雨と汗で髪が張りつき、目が剥き出しになっている。


「私を義経さまのそばへ行かせるのじゃ!」


 さらに身を捩ったところを、景時は後ろから羽交締めにした。老い始めた身体のどこにそんな力があるのかと思うほど、きつい締め方に見えた。


 風がひときわ強く唸る。


 帆柱が一斉に鳴り、雨が横から叩きつけてくる。浜にいた武者たちが顔を庇い、思わず立ち尽くす者と、遅れて舟へ駆け出そうとする者とに分かれた。


 出立できていない舟はまだいくつも浜に残っていた。綱に繋がれたまま揺れている舟、荷が半ばの舟、馬を押さえるので精一杯の舟ばかりだ。


「者ども! 義経殿をお止めせよ!」


 景時が怒鳴るが、すでに板を渡った者たちは誰も振り向かなかった。


「義経殿! 思いとどまられよ! お命を大事になされよ! こんな嵐で出立しては戦の前に死んでしまいますぞ!」


 それは金切り声に近かった。


 それでも牛若たちと、牛若に引かれた船頭たちは、振り向きもしない。綱が解かれ、板が外され、灯が陰へ伏せられる。岸を離れたのは少数だった。だが、その少数だけが堂々と沖へ向かおうとしている。


 もう引き返させることは不可能だろう。


「……放せ!」


 景季がなお暴れていた。


「また父上のせいで……!」


 景時は返事をしなかった。歯を食いしばり、景季を押さえつけたまま、別の方へ怒鳴る。


「者ども、他の船の準備を進めるのじゃ!」


 誰に向けた怒号なのか、風と雨がさらっていく。待つつもりなのか、追うつもりなのか。ただ、なお(ことわり)の側に立って対処しようとしていることだけは見てとれた。


 牛若たちの舟が、ついに岸をすっかり離れた。


 牛若だけが前を見ていた。


 港の灯が、じりじり遠のいていく。岸では景季がなお暴れている。


「……義経さま!」


 その叫びを、景時の腕が押さえつけていた。


 弁慶はどんどん遠ざかる浜辺から視線を捨てきると、天界の稚児の背を見た。


 濡れた肩は微かに震え、浅い息遣いが見える。


 胸の底へ、甘さとも恐ろしさともつかぬものが静かに沈み込んでいくのを感じた。


 牛若たちの舟は、そのまま暴風の海へ呑まれていった。

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