第四十六話 退くための櫓
潮の匂いが、鼻の奥へ重たく入り込んできた。
渡辺津へ近づくにつれ、風は都のそれとはまるで質を変えていた。乾いた土の匂いは消え、濡れた綱の青臭さと、舟板に染み込んだ古い水気と、魚の名残のような生臭さが、むっと肌にまとわりつく。
浜へ降り立つと、足裏の感触まで違った。湿った板、ぬかるんだ砂、ところどころに転がる太い縄。どこを向いても、歩きやすい場所などほとんどない。
舟板がぎいと軋み、船頭たちの怒鳴り声が風に千切れて飛ぶ。
「そっちを先に積むな!」
「待て、まだ片方が浮きすぎているぞ!」
「綱を緩めるなと言っただろうが!」
その怒声の間を、兵たちが重い荷を抱えて行き来している。舟は並んでいるが、足りぬのはひと目で知れた。人も荷も多すぎる。積み込みは遅く、ひとつ動けば、どこかでまた別の滞りが起こる。六条堀川の朝の高揚などここにはなかった。
弁慶は、長刀を担いだまま足を止めた。
主の背後に付き従いながらも、胸の内にはわずかな苛立ちが満ちていく。舟に乗る前から、これほどまで面倒が多いのか。海とは、こうも人を鈍らせるものなのか。
その喧騒の中心に、梶原景時がいた。その姿を見届けた三郎が「げっ、帳面じじい……」とげんなりしている。
景時は浜辺に立って命じるだけではなかった。濡れた板の上を自ら歩き、船頭の言葉に耳を寄せ、舟の縁を手で押して傾きを確かめ、帳面に何事かを書き込み、また別の舟へ向かう。背を向けたかと思えばすぐ振り返り、あちらへ二人、こちらへ三人と人を振る。顔つきは相変わらず仏頂面だが、あの場を本当に取り回しているのは、この男らしかった。
その少し後ろに、景季がいた。
柄にもなく腕を組み、眉間に皺を寄せ、いかにも不満そうな顔で父の後をついて回っている。舟の軋みも、船頭の怒声も、どうでもよいらしい。ただ付き合わされていること自体が不本意でたまらぬ、という顔だった。
だが、牛若たちの姿を認めた瞬間、景季の顔がぱっと輝いた。
「義経さま!」
今しがたまでの不機嫌が、嘘のように消えている。ほとんど跳ねるような足取りで駆け寄ってきた。
「ついにおいでくださいました! この時をどれほど待ち望んだことでしょうか!」
その勢いに、浜の湿った空気がわずかに裂けたように感じられた。
「うむ」
牛若は穏やかに微笑んだだけだが、それだけで景季は嬉し泣きしそうなありさまだ。
景高は兄を見ても無反応だった。静かに少し後ろに控えたままだ。その双眸だけはまっすぐに主へ向いている。涼やかな顔つきの奥に、深い熱が沈んでいた。
牛若は渡辺津の動きを見ても、さほど心を動かされた様子はなかった。視線は浜の先、海の向こう、もっとその先へ飛んでいる。
「まだ出られぬのか」
声は少し高く、わずかに乾いていた。
「兄上は待っておられるのに」
景季がきっと父を振り返ると、景時がこちらへ向かっていた。眉間には深い皺が寄っている。
「義経殿。見ての通り、まだ準備中でござる」
言いながらも、その目はもう浜のあちこちへ散っていた。まだ片づかぬ段取りが気になるのだろう。
「出られぬのか」
牛若はもう一度問うた。
景時は濡れた袖口を払う。
「出るための手筈は進めておるところ。しかしながら、まだ念入りの準備が必要かと。その後は天候も考慮せねばならず」
牛若の口元が、かすかに結ばれる。
その顔を見ると、弁慶は胸をかきむしりたくなる。
牛若は浜の不自由さに苛立っているのではない。焦っている。この遅さそのものが、兄を怒らせるのではと怯えているかのようだ。
潮風がひときわ強く吹きつけた。
継信が無言で半歩前へ出る。主の肩口へ飛びかけた塩気を、自分の袖でそっと受けた。
「義経さま、こちらへ」
低く短い声だった。
忠信はすぐさま反対側へ回り、牛若の直垂の裾が濡れた板へ触れぬよう、そっと持ち上げる。
「兄者、そのまま。風がこっちから来る」
三郎がそんな兄弟の様子を見て、鼻を鳴らした。
「ちっ、潮風まで牛若さまに触るんじゃねえよ」
言いながら、自分もさりげなく牛若の前へ半歩ずれ、風除けのつもりらしい肩を入れる。
鷲尾は足元の濡れた縄を蹴りのけた。
「義経さま、ここ滑りますよ! 俺が先にどかしますから!」
駿河は何も言わず、牛若の脇へ寄った。濡れた板、尖った釘の頭、砂に埋もれた縄の端。主が踏みそうなものへ、冷えた目を落としている。
景時はその様子を見て、わずかに眉をしかめた。だが構わず話を進める。
「まず申すべきことがござる」
景時が言った。
「こたびの舟には、逆櫓を備えとうござる」
牛若は小首を傾げた。
「逆櫓とは、何のことか」
問い返した声音はあどけない。
景時は、いつもの冷徹な調子で答えた。
「舟の後ろにつける櫓にござる。いざという時に退くための備えとなるのです」
牛若は無反応のまま黙っている。
景時は続けた。
「平家は船戦に馴れております。しかしながら我らは、陸の戦ほど心得てはおらぬ。風向きひとつ、潮の満ち引きひとつで、進むつもりが流されることもござる。初めての船戦、敵に押される可能性も高い。退く手筈なく突っ込めば、舟は乱れ、人は落ち、持ち直す間もなく崩れることもござろう。退く手があればこそ、攻めも立つ」
この男はたしかに舟のことを知っているのだろう。だが主の胸の焦りに、まるで噛み合っていない。
牛若は景時の言葉を最後まで聞いていたが、目を少し曇らせただけだった。
「敵は、前にいるのであろう」
ぽつりとつぶやく。
景時が答えた。
「前におります。だが前におるからこそ、退く備えも要るのですぞ」
牛若の喉が、小さく動いた。
「兄上は私に勝ちをお命じになった。まだ神器を取り返せていないままだ」
景時はわずかに顎を引いた。
「さよう。だが勝つためにこそ」
「兄上のお役に立ちたいのだ。私は今すぐ進みたい」
その声は細いのに、妙に強かった。
「今度こそ、三種の神器を取り戻さねばならぬ。兄上が、待っておられる」
景時はまた口を開く。
「義経殿。海は陸とは異なりますぞ。これまで勝利が続いたからと言って、同じようにうまくいくとは限らぬ。舟は人馬のようには」
「なぜ私の言う通りにしてくれぬのだ……!」
声が割れた。
それは、軍を率いる将の怒号ではなかった。置いて行かれそうになっている子どもが、必死で誰かの袖を掴もうとする時のような、悲痛な声だった。
浜の怒声が遠くなったように感じられた。
弁慶は息を潜める。
牛若は軍略を論じているのではない。兄の期待に応えられぬこと、それだけに怯えているのだ。
だが、牛若の心が危うくなったことに気づいた三郎たちは、いつも以上の嫌悪感を込めて景時をにらみ出していた。まず三郎が前に進み出る。
「牛若さま、俺はサカロなんてもの、別になくても構わないですよ」
「逆櫓など不要でしょう」
佐藤忠信が、牛若の袖口に飛んだ細かな潮を払い落としながら言った。
今までは景時の議論をほとんど見ているだけだった男たちが、今日は牛若を守ると決めたようだった。
継信は半歩前に立ち、風が主へまっすぐ当たらぬ角度を探るように身体をずらした。
「義経さま、それがしはいつも通りおそばにおります」
それだけだったが、継信は景時をじっとにらみつけ続けた。
駿河は景時を冷たく見据えながら、「九郎さまの作戦の通りにいたしましょう」と静かにつぶやく。
鷲尾だけが、おろおろと牛若と景時を見比べていた。
「義経さま……そんな……その、ええと、退くやつなんか無くても、俺が押しますから……!」
何を押すのか自分でも分かっていないらしい。その声だけは必死だった。
妙な静けさが我慢ならなくなったらしい景季が、父親の前に進み出た。
「父上。宇治川での勝利、一ノ谷での勝利を見ても、まだ分かりませぬか! 義経さまのおっしゃる作戦に従うべきです!」
景時がぎろりと睨み返す。
「何も作戦がないから逆櫓を申し上げておるのだ」
「作戦がないのではない! 義経さまがそうお望みなのです!」
景季はさらに一歩前へ出た。顔が熱で赤くなっている。
「今度こそ三種の神器を奪還する、鎌倉殿のお役に立ちたいと、はっきりおっしゃっているではありませんか!」
「景季、お前は黙っておるのじゃ!」
「黙れませぬ! 義経さまがこれほどまでにお焦りなのに、父上はまた長々と舟の後ろの、サカロなどというおかしな話ばかり! 毎度毎度、それが軍議を台無しにするのじゃ!」
「そうだ!」
三郎が、すぐ横から援護した。
「牛若さまが前へ行くっておっしゃってるんだ。舟は前へ出すためのもんだろうが」
「ううむ、一体何を申しておるのじゃ」
景時がこめかみを押さえ出した。
「逆櫓などなくとも」
忠信もすぐに噛みつく。
「それがしと兄者がいれば義経さまは落ちぬ。舟が傾くなら支える。波が来るなら受ける。それで足りる!」
駿河も冷えた声で、「逆櫓など、無用にございます」と短く言った。
「だったら俺が後ろで漕ぎます!」
鷲尾が勢いよく声を張り上げる。
「二本でも三本でも持ちます! だからもう、その退くやつの話は終わりにして、早く出しましょう!」
「訳が分からぬことばかり申すな。わしは安全のための話をしておる」
「父上」
今まで黙っていた景高が、その横で静かに口を開いた。その声で、景季の熱とは別の冷えたものが走った。声は低くも高くもなく、涼やかなままだった。
「一ノ谷の戦を、私は拝見いたしました。義経さまのなさることに、我らや父上のような下々が口を差し入れてよい場面など、一つもございませんでした。梶原の名をこれ以上辱めるのはお慎みなさりませ」
景時の目が見開かれた。
「景高、お前まで……」
景時は頭と胸を押さえ出す。
「私は、父上に従うためにここへ参ったのではございませぬ」
景高は微動だにせず続けた。
「義経さまのお役に立つためにおります」
景季が、弟の言葉に勢いを得たように叫ぶ。
「そうだ! 父上、まだ分かりませぬか!」
景時はこめかみをぎゅっと強く押さえた。その指先がわずかに震えている。
「とにかく頼む、いい加減に理解するのじゃ。源氏は平家と異なり船戦の経験は無し。退く手筈なしで突っ込むのは無茶なのじゃ。義経殿がこれまで勝利をもたらしてくださったことはもちろん事実じゃ。しかしながら、同じ奇跡にまた期待するのは、双六に命を賭けるのと同じこと。これは我らだけではなく、義経殿のお命を守ることでもあるのだぞ」
その言葉を聞きながら、弁慶は歯の裏がざらつくのを感じた。
この男は、たしかに主の命のことを言っているのだろう。だが、その長広舌は、主の胸へは少しも届かないにちがいない。
「ええい、毎回毎回長々とくだらないことばかり話して軍議を混乱させる父上め!」
景季が遠慮なく怒鳴り出した。
「逆櫓などとくだらない船の改造をしている間に、義経さまはまた飛んでいってしまいます! 早く準備を終えて出撃せねば!」
「黙れ景季!」
景時も怒鳴り返す。
「同じ奇跡が三度起こると思うな!」
「景時殿」
牛若が、二人の間へ細い声を差し入れた。
その声音は、刃よりずっと危うかった。
「私は早く出撃して、兄上のお役に立ちたい」
景季が、はっとして振り向く。
「ほら父上、義経さまの目が潤んでおられるではないか!」
三郎まで、すぐに噛みついた。
「見ろよ! 牛若さまのお顔が曇ってるじゃねえか! こんな話、もう要らねえ!」
継信は何も言わず、主の前へさらにわずかに出た。潮風を背で受けながら、低く一言だけ落とす。
「……お声が、掠れておられます」
それは景時への抗議というより、ただ主の変化を見ていられぬ者の声だった。
忠信は歯を食いしばる。
「逆櫓なんぞなくとも、義経さまは俺たちが守る。そんなことより、早く舟へお乗せするのです」
駿河は冷たく景時を睨むだけだった。
鷲尾は必死な顔になっていた。
「義経さまがこんなに辛そうなのに! だったら俺が後ろで漕ぎます! 俺もです!」
何が「も」なのか、弁慶にもよく分からない。
「義経殿の家人の方々」
景時は目眩を起こしそうな顔のまま目の前を見回す。
「船戦が得意な者は、こちらにもそちらにもおらぬことをお忘れなさるな」
「父上」
景高は形の整った唇で静かに言葉を紡いだ。
「この期に及んでまだ、義経さまの邪魔をなさりますか。この景高、父上の子として恥ずかしゅうございます」
「そうだ、私も恥ずかしくてならぬ!」
景季がすぐに続いた。
「ええい、うるさい息子どもめ。いったんわしの陣地へ来るがよい!」
景時は景季の腕を掴み、そのまま乱暴に引いた。
「父上こそ頭を冷やされよ!」
景季はなおも抵抗し、身体をひねって牛若の方を振り返る。
「義経さま! 私は父上の屁理屈などに屈しませぬゆえ!」
「何が屁理屈じゃ! 頭を冷やすのはお前の方じゃ! 景高も来い!」
景時は景高の腕も強引に引っ張ったが、景高は抵抗はしなかった。
「父上、毎度同じことを繰り返しておられるのが分かりませぬか。いい加減になされよ」
景高は声は荒げなかった。父に引かれながらも、牛若へ静かに一礼だけ残す。その一礼は涼しく整っていたが、父へ向ける背には冷たい拒みがはっきり出ていた。
梶原の親子三人は、そのまま波打ち際の喧騒の中へ消えていった。
あとに残ったのは、重い潮風ばかりだった。濡れた縄が板を擦る。
少し遠くでまた、船頭が怒鳴っている。
海は何も決していないような顔で、鈍く光っている。
牛若はその場に立ち尽くしていた。
舟のことも、潮のことも、退くための櫓という考えも、天界の稚児の胸には一歩も入っていないのだろう。そこにあるのはただ、兄の頼朝と、まだ取り戻せていない神器だけだ。
弁慶は、斜め後ろからその背を見つめた。
主の細い肩は、潮風の中でもひどく頼りなく見えた。だが、その中にある焦りだけは、火箸のようにまっすぐで、誰にも曲げられぬものだった。
浜の上を、ひときわ強い風が吹き抜ける。帆柱が鳴った。その音は、まだ来ぬ嵐の喉鳴りのように、妙に長く耳の奥へ残った。




