第四十五話 出陣と見送り
革紐の軋む音が、まだ薄暗い広間に乾いて響いた。
六条堀川の屋敷の朝は、ひやりと底冷えがした。夜の名残の湿り気が板の間に残り、開け放たれた縁から入る風が、素肌に細く触れてくる。だが弁慶の喉の奥には、前夜から続く微かな渇きが、まだ焦げついたまま残っていた。
三郎こと伊勢三郎が太刀の緒を締め直す。鷲尾と呼ばれている鷲尾三郎は矢筒の口を覗き込む。駿河次郎が黙って鞍の留め革を指で確かめる。佐藤継信と忠信の兄弟は互いの具足のずれを無言で直し合っていた。
その硬い音の向こうに、屋島へ向かう総大将の源九郎義経――牛若の背がある。武蔵坊弁慶は、いつものようにその斜め後ろに立っていた。
戦へ向かう朝だというのに、主の面差しには悲壮な影がない。兄の役に立てることが、ただひたすら嬉しいらしい。振り向いた拍子に見えた口元には、あどけない笑みがうっすらと浮かんでいた。
(……軽やかすぎる)
これから海へ向かうのだ。西国の飢えた軍と合流し、馬の利かぬ土地を抜け、神器を奪い返しに行く。
だが牛若の胸にあるのは、死地への恐れでも、平家への闘志でもない。ただ兄に褒められたいという、その一念だけにちがいない。
「義経さま」
門口の方から、多田行綱の声がした。日に焼けた顔を強張らせ、それでも目だけはひどく真っすぐに潤ませて、行綱は深く頭を下げる。
「どうかお気をつけ下さいませ。ご武運をお祈りいたしまする」
牛若は穏やかに微笑んだ。
「うむ。留守を頼む。……行綱の声は、優しいな」
「はっ……!」
牛若の言葉に行綱の声は揺れた。西国へ同行するより重い役目を賜ったかのように、男は胸を張っていた。
そこへ、廊下の奥から、酒の匂いがゆるりと流れてきた。床板を踏む音が近づく。
「おう、九郎」
ずっと潜伏と居候を続けている叔父の源行家だった。目の縁は赤く、朝だというのに片手にはまだ瓶子がある。
「ふふ、頑張ってくるがよい」
顎をしゃくってみせる、その顔だけが妙に得意げだった。
牛若は、行家へそのまま澄んだ目を向けた。
「義盛殿」
弁慶や三郎が頼んだ通りの行家の変名をためらいなく呼ぶ。
「行って参ります」
「お、おう……そうか」
牛若の情愛を含んだ真っ直ぐな言葉に、行家は面食らったようだ。咳払いをひとつすると、誤魔化すように瓶子を傾けた。
「義経さま」
正室の郷御前の冷静な声が響く。
「出立の前に、兵糧の数は再確認なさいましたかしら。蔵の戸締まりは確認いたしましたわ」
その声は冷えた井戸水のようにはっきりと広間を貫いた。
見送りの朝だというのに、感傷の匂いは薄い。言うべきことを言い、綻びを見逃さぬ目は静かに光っている。ただ、義経を見る目に冷たさはなかった。
「さすが帳面女さんだな」
三郎が小声で軽口を叩くと、郷御前は「何とおっしゃったのかしら」と鋭い声を投げつける。「いやっ、別に……」と三郎は後退りした。鷲尾が横で吹き出しそうになるのを、継信が肘で小さく押さえた。
静御前は、母の磯禅師と共に彼らの少し後ろにいた。話の輪から半歩だけ退いた場所に、すっと立っている。朝の冷気の中でもまとう気配だけは柔らかかった。
「ご無事を、お祈りしておりますわ」
深い温かみを帯びた声だった。
牛若は、その声に引かれるように顔を向けた。横顔の口元が、ふっとほどける。
「ああ」
甲高いつぶやきだけを漏らし、ただじっと見つめている。その目はひどくあどけない。
その無防備な横顔を見た瞬間、弁慶の喉の奥の渇きが、またわずかに熱を帯びた。
やがて牛若が出発の歩みを進めようとすると、従者たちもいっせいにそれに続いた。
朝の光はまだ薄く、都の道は冷えていた。門を出た一行の吐く息が、淡くほどけて空へ上る。
その時、通りの先で牛の低い鼻息が聞こえた。鈍い車輪の軋みが、静かな朝に不似合いなほど重く近づいてくる。
弁慶は眉をひそめた。目の前に停まったのは、高貴な存在が乗る牛車だった。簾の奥にあるものが、ただの貴人でないことはひと目で知れた。
「九郎」
「……法皇様……!」
上がった簾の先には、後白河法皇の姿があった。
弁慶の胸の内に、妙に冷たいものがひと筋走った。
(王者が、ここまで……)
治天の君が、みずから臣下の屋敷まで出向く。それだけで異様だった。しかも法皇の顔には、いつもの甘ったるい笑みより先に、切迫した色が出ている。
牛若が慌てて進み出ようとすると、法皇は車の中から身を乗り出した。
「九郎……!」
その声は、縋る者のそれに近かった。
従者たちも、景高も、行綱までも動きを止める。通りの冷えた空気が、一気に張りつめた。
法皇は牛若の手を、両の掌で包み込んだ。
「そなたとのしばしの別れが辛くてならぬ。必ずや生きて帰ってくるように……!」
目の縁に涙が滲んでいた。
弁慶は思わず息を止めた。天下の王者が、このように手を握って懇願するとは。
牛若の背中が頼りなく揺れていた。
「あ、ありがたきお言葉……」
天界の稚児も、治天の君がここまで情愛を剥き出しにしてくることに動揺せざるを得ないだろう。愛に包まれるのは心地良かろうが、遠慮はあるにちがいない。
「九郎、そなたの元気な顔こそが土産じゃ。達者でいるように」
「は、はい……みやげ……」
牛若はその言葉を反芻する。
「あ、三種の神器……三種の神器、今度こそは……!」
急に申し訳なさそうな、悲痛な声になっていた。焦りさえ見える。急に声が掠れていた。
弁慶には分かった。この哀れなほどの焦りは、法皇に対する気持ちではない。牛若は法皇の「土産」という言葉で三種の神器を思い出し、自分がそれを取り戻せていないことに思い至ったのだろう。三種の神器の奪還は兄の頼朝からの言いつけだったのに、一ノ谷では取り返せなかったのだ。
「九郎……? うむ、帝が帝たるために必要ではあるが、無理はせんでよい」
急に可哀想なほどの焦りを見せた牛若を見て、法皇が動揺してしまっているが、牛若には聞こえていないようだった。
牛若はただ、兄に課された務めを果たしていないことに怯えているようだった。
弁慶の腹の底に、名づけようのない熱がゆっくりと満ちた。ただ、そのひどく幼い怯えを、自分だけが見てしまったような熱だった。
法皇はなお何か言い添えようとしていたが、牛若は小さくうなずくだけだった。
「法皇様。必ず」
その声は澄みきっていた。
法皇の手が、名残惜しげに離れると、牛若は深く一礼し、力強く歩みを進めた。法皇は牛若が見えなくなるまで、ずっとそこに立ち尽くして牛若の後ろ姿を見つめていたが、弁慶はそのことを牛若に伝えはしなかった。
道は朝が進むにつれて土の匂いを強めていった。
都の家並みが遠のき、川風にかすかな湿りが混じり始める。馬の足元で乾いた土が砕け、道案内をする梶原景高の乗る馬がその少し前を静かに進んでいた。
「カバ殿……範頼殿の軍は、海辺で足止めを受けております」
景高が振り向きながら、気品を保った口調で言った。
「船の手当ても十分ではなく、兵糧も随分細っているとか。兵は浜にとどまり、ただ風向きばかりを見ているような有様にございます」
「何も策はねえってことか」
三郎が不思議そうに首を傾げる。
「したがいまして父上や景季兄上と合流し、屋島を突くのでございます」
景高は礼儀正しく答えたが、三郎は早速「帳面じじいは要らねえっ」と軽口を叩いている。
「源氏の存亡が関わっております。今回は私も兄上も、あの父上に変な邪魔はさせませぬ」
「あんた、頼もしいぜ」
三郎は梶原景時を息子が撃退してくれそうなのが心底うれしそうだった。
「義経さま」
継信が静かに口を開いた。馬を寄せる声音には、いつもの穏やかさの奥に、ひどく冷えた熱があった。
「今回は初めての船戦となりましょう。海でも浜でも船着きでも、お側を離れませぬ。人の多い場所ほど、目と手が要りましょう」
「兄者の言う通り。この忠信も、決して義経さまの元を離れませぬ」
忠信がすぐに言葉を継いだ。
「船へ乗る時も、降りる時も、俺たちがついていますよ。義経さまはただ前だけを見ていてくださればよいのです」
「おい、俺だって牛若さまの船の乗り降りの手伝いはできるぞ」
三郎が口を挟むが、佐藤兄弟がさらっと首を横に降ったので「おいっ」と不機嫌になる。
「今回こそ、九郎さまに無理はさせられませぬ」
駿河が冷静な声音で言った。
「足場の悪い所、濡れた板の上、そのような場所は、こちらが先に確かめます」
「義経さま、俺もやります!」
鷲尾が勢いよく声を上げた。
「縄でも板でも何でも持って走ります。義経さまの前で、ぬかるみに転んだりするやつがいたら、俺が蹴飛ばしてどかします!」
三郎が鼻で笑った。
「お前が先に転ぶなよ、鷲尾」
「そういう三郎こそ!」
鷲尾が言い返すと、忠信が短く笑う。
その会話の輪の外で、牛若はふいに手綱を緩めた。
視線が、すっと東へ向く。
鎌倉の方角だった。
朝の空はまだ淡い。雲もなく、ひどく遠い。その空を、牛若は馬上からただ見つめている。
西へ向かう道の途中で、ただ一人だけ東を振り返る背があった。
従者たちの勇みも、景高の説明も、牛若には届いていないらしい。
天界の稚児の胸にあるのは、戦の勝ちでも、神器でもない。
ただ、兄に褒められたい。それだけだった。
弁慶は数歩後ろから、その背を見つめた。
直垂の裾に乱れはない。だが、東の空へ向いたままの首筋と、わずかに結ばれた口元には、あまりにも幼い願いが現れていた。
その背を密かに守護しながら、弁慶の喉の奥では、昨夜からの何とも言えない渇きが続くようだった。




