第四十四話 留守の任と影の熱
西国への案内を申し出た梶原景高と数人の従者たちは、屋敷の一室をあてがわれ、ひっそりと息を潜めていた。
牛若は検非違使としての市中見回りや、法皇のもとへの日々の参内といった公務を淡々とこなしている。隙のない見事な立ち振る舞いだった。
だが、屋敷へ戻るや否や、直垂の紐を解くことすら忘れ、縁側に座り込む日々が続いている。白磁のような横顔を東の空へ向け、ただ微動だにせず、来るはずのない早馬の蹄の音を待っていた。
弁慶は、斜め後ろの薄暗がりからその細い背中を見つめていた。
頼朝からの褒美として、郷御前が送りつけられてきた。だが、あんなものをあてがわれたところで、主の根底にある空洞は微塵も満たされはしない。ただ一言、「よくやった」という兄からの言葉さえあれば、あの方は満たされるのだ。
だが、もう冷酷な部分しか見せてきていない鎌倉の頼朝が、弟にそのような言葉をかけるはずがないことを弁慶は知っている。
永遠に与えられぬものを求めて飢える主の姿を見つめながら、弁慶の喉の奥は焼け焦げるように熱くなった。己の内に湧き上がる不思議な反応をじっと堪えながら、弁慶は静かに長刀の柄を握りしめた。
張り詰めた日々が続いていたある日の夕刻のことだった。
表の門が慌ただしく開かれ、土埃にまみれた直垂姿の武者が、広間の縁先へと進み出た。
「――鎌倉殿の遣いとして参りました」
武者が声を張り上げ、漆塗りの文箱をうやうやしく掲げた。
「範頼殿の軍勢は西国にて海を渡れず、足止めを受けておられます。義経さまには別動隊として四国の屋島を突くよう、鎌倉殿からの出陣命令です。その書状と、この作戦に加わる諸将と西国武士の交名を持参いたしました」
使者が深々と頭を下げ、文箱を差し出す。
「――承知いたした」
牛若は透き通った声でうれしそうにうなずいた。任務を果たした使者は「それでは」、と一礼して立ち去った。
受け取った書状を開く牛若の目の輝きは、さほど長くは続かなかった。瞳に影が宿ると、近くにいた弁慶に無言でそれを交名ごと差し出してくる。牛若はそのまま天空を見つめていた。
弁慶が書状と交名を確認し始めると、三郎たちもそれを見ようと首を伸ばしてくる。
『範頼の軍は西国で海を渡れず、足止めを受けている。九郎は別動隊として四国の屋島を突くように』
使者が言った口上と同じ文面しかなかった。それ以上の言葉、牛若への労りの言葉は何もない。
「おい、また命令だけかよ……!」
三郎がまた腹立たしそうな声を上げるが、深く息を吸い込んだ牛若は寂しそうに微笑んだ。
「兄上は、私を頼りにしておられる」
声だけは凛としていて力強かった。
「今度こそ、兄上の喜ばれる勝利を捧げ、三種の神器の奪還も果たさねば。皆も頼むぞ」
言うなり、そばの三郎の目をじっと見つめたものだから、三郎は「は、はいっ」と激しく動揺していた。
「牛若さまの、おっしゃる通りですよ……!」
三郎は牛若をまた落ち込ませまいと必死だ。
「絶対今度こそ、三種の神器をぶん取ってやりましょう……! 俺が牛若さまをお守りします!」
「俺も義経さまを守るぞ!」
鷲尾が元気よく吠える。
「初めての海の旅、馬が使えない場所もお守りいたします」
「もちろん、船の乗り降りもお手伝いいたします」
佐藤兄弟も力強く言う。
「それがしも九郎さまをどこまでもお守りします」
駿河も頼もしそうな声だった。
牛若は目を輝かせていた。
(ただ死地へ向かえと命じられただけだというのに、これほどまでに喜んでおられるとは……)
弁慶は、冷ややかに目を細めた。
出陣の熱気に男たちが沸き立つ中、広間の隅で一人、多田行綱だけが顔から血の気を失わせていた。
届けられた交名の端には、鎌倉直属の御家人だけでなく、渡辺党や近藤親家といった西国の在地武士たちの名が並んでいる。だが、一ノ谷で搦手軍として活躍したはずの行綱の名はどこにもない。
「それがしの名が……」
行綱の乾いた唇から、掠れた音が漏れた。
「代官のところへも何も連絡が来ておらず……」
自分の存在が無視されていることを行綱は受け入れられずにいるようだった。顔が青ざめていく。
「行綱?」
牛若が、ふと視線を落とした。
「行綱は一緒に行けぬのか……。それなら、ここの留守居を頼もうか」
一瞬の空白の後、行綱が弾かれたように顔を上げた。
「ははっ……! それは素晴らしき任務にございます! この命に代えましても!」
行綱は涙をこぼし、板の間に額を擦り付けた。
「それじゃ行綱さん、ヨシモリが静御前にちょっかい出すのを見張ってやってくれねえか?」
三郎が武具の紐を締めながらニヤリと笑った。
「このお屋敷の皆さまをお守りいたしまする……!」
感涙の中で行綱は力強く答える。そこへ郷御前が現れた。
「多田殿。あなた、ご自身の領地を代官に任せっぱなしでよろしいですの?」
冷ややかな言葉だったが、行綱は咽び泣いたままで全く聞いていない。郷御前は面倒そうに短くため息をついた。
広間の襖から景高が進み出た。涼やかな声が響く。
「父の景時は、鎌倉殿の命により西国のカバ殿……範頼殿の陣から兄景季と共に呼び戻され、軍奉行として大坂の渡辺津にて合流いたします。弓の名手もそちらで待っております。私がそこまで先導つかまつります」
「梶原家の他は来ぬのか?」
小綺麗な美少年の利口ぶった物言いが癪に触った弁慶は、わざと地響きのするような低音を響かせた。
「畠山重忠殿や、佐々木高綱殿や、熊谷直実殿は?」
「……はい」
景高は一瞬ひるんだ後、静かにうなずいた。
「そちらの皆様は、引き続き範頼殿の軍におられます」
「……帳面じじいしか来ないのかよ……」
三郎がひどく面倒そうに落胆してみせる。
「景季殿が来て下さるではありませんか」
佐藤継信が三郎をなだめるように進み出た。
「景時殿も、いつもの面々がいないなら、面倒な揉め事を起こすのも慎まれるのでは?」
「そうだな兄者」
忠信も元気よくうなずくと、鷲尾や駿河も同調する。
「申し訳ありませぬ」
景高が三郎たちを見回して頭を下げる。
「いつも父上がご迷惑をおかけしております。屋島では父上のおかしな言動は決して許しませぬ。兄上もそのつもりでおります」
「そりゃ安心だなっ。もう一人あんたが味方でよかったぜ」
三郎がほっとした声を上げると、みんなが一斉に笑い出す。
そっと現れた静御前が、盆に乗せた白湯をそっと男たちの前に置いた。
「皆さまのお帰りを、お待ちしておりますわ」
「静……」
白湯を手渡してきた静の顔を、牛若は正面からうっとりと見つめた。
「そなたは本当に美しいな」
「判官さま。静は心からご無事をお祈り申し上げておりますわ」
心を込めて言う静御前の前で、牛若はただ温かく微笑んでいた。
「正妻の私も」
郷御前がきりっとした表情で声を張り上げる。
「義経さまがお帰りになるまで、この屋敷を切り盛りいたしますわ」
牛若は郷御前の方に顔を向け、「うむ」とだけ返した。
「ひひっ」
廊下の奥から千鳥足の足音が響いた。真っ赤な顔をした行家が、瓶子を片手に現れる。
弁慶は行綱の耳元に顔を寄せた。
「あの酔いどれには触れるな。酒だけ与えておけ」
行綱は涙まみれの顔を上げ、力強く頷く。
牛若がそっと静かに立ち上がった。
弁慶はその清らかな背中を見つめながら、深く肺の底まで息を引き込んだ。
体内に、かつて五条の大橋で誓ったあの夜の熱が蘇ってくる。
だが、あの夜とは何かが違っていた。ただ、ひどく喉が渇いた。
弁慶は静かに長刀を構え、西の海の方角へと視線を向けた。




