第四十三話 西海の飢えと案内人
六条堀川の屋敷には奇妙に凪いだ時間が流れていた。
庭先では、三郎や駿河たちが車座になり、武具の手入れに余念がない。砥石が刃を滑る音だけが、冬枯れの庭に規則正しく響いている。
そこへ、門をくぐってひょっこりと顔を出した男がいた。
多田行綱だ。
「あんた、まだ都にいたのかよ」
すぐに歩み寄った三郎が、無愛想な口調で言った。
「自分の領地に帰らなくていいのか。ずっと入り浸ってるじゃねえか」
「土地は代官に任せております」
行綱は日に焼けた顔で胸を張った。
「それがしは先日の別れの時、義経さまの御側に控える者として残ると決めたのですから」
強がるように言い放った行綱だったが、視線は泳いでいた。その顔には、隠しきれない疲労と焦燥が張り付いている。
「……とはいえ、多田の代官からの連絡もとうに途絶え、鎌倉からは『勝手に動くな』と命じられたきり、一向に声がかからぬ」
その言葉の裏にあるものを、弁慶は冷ややかに察した。
一ノ谷で牛若と役割を分担しながら、大手軍の連中よりはそれなりに活躍したとも言えるのに、鎌倉の頼朝はその手柄を黙殺したままなのだ。この男もまた、己の行き場のない焦りを、牛若の光にすがることでしか埋められずにいるらしい。
「それより、先ほど都で嫌な噂を耳にした」
行綱がさらに声を落として続けた。
「カバ殿の軍勢は、平家が猛威を振るう西国で海を渡る船も足らず、水軍の味方も集まらぬうちに大軍の兵糧が尽き、完全に立ち往生しているらしい。ただ海を前にして飢えているとのこと。一方で平家は、四国の屋島で息を吹き返しておるそうだ」
その報告に庭先の空気が一変した。砥石の音がぴたりと止まる。
「ということは、そろそろ俺たちの出番じゃねえか!」
三郎が弾かれたように顔を上げた。
「ああ、ついに鎌倉から義経さまに出陣命令が来るんだろうよ」
鷲尾も手ぬぐいを放り投げ、佐藤継信と忠信の兄弟も「我らの武を振るう時が来たか」と静かに熱を帯びた声を交わし合う。駿河も静かに微笑んでいる。泥と汗にまみれた男たちの間に、戦場への渇望が急速に膨れ上がっていく。
広間の隅では、静御前が話の邪魔にならぬよう、静かに白湯の用意をして控えていた。その対極で、輪の近くに端座していた郷御前が、冷ややかな声で口を開いた。
「船も兵糧もなくて、大軍をどう養うおつもりかしら」
ただ鋭くつぶやいただけだったが、三郎たちは「さすが帳面女さんだぜ」と感心したようにうなずいている。
だが、男たちが血気盛んに沸き立つ中、縁側に座る牛若だけは、別のところで深く肩を落としていた。
「……カバの兄上は、飢えているのか」
牛若の唇から、ぽつりと透き通った声がこぼれた。すぐさまその瞳が潤みを帯びる。
「なぜ、兄上は未だに私を出陣させてくださらないのだろう……」
牛若の視線は西国の戦場ではなく、遥か東の鎌倉だけを向いている。兄からの出陣命令が来ない寂しさだけで、細い背中が今にも折れそうに丸まっていた。
郷御前が、その牛若の横顔に静かに視線を留めた。冷徹な目が微かに細められる。
弁慶は、斜め後ろからその視線の動きを見逃さなかった。
理を重んじる女が、主の根底にある空洞に何かを感じ取ったのかもしれない。弁慶はただ冷ややかに視線をそらした。
その時、屋敷の門前に複数の馬の足音が近づいてきた。
「――義経さま、お通し願います」
静かな、だがよく通る声と共に、数人の従者を連れた一人の若武者が姿を現した。
泥臭い武者たちとは一線を画す、整った顔立ちの美少年だった。身に纏う直垂にも乱れはなく、どこか涼やかな風情を漂わせているが、どこか見覚えのある顔つきだ。
「うむ」
牛若はただ頷いた。
「……あの顔、景季さんに似てねえか?」
三郎の小声には反応せず、少年はただ真っ直ぐに牛若の御前へと進み出た。
化粧を施された天界の稚児のような牛若の顔を見つめると、少年は息を呑み、その涼やかな双眸を大きく見開く。何かに打たれたように深く、静かに頭を下げた。
「梶原景季が弟、景高と申します。西国のカバ殿……範頼殿は義経さまの出陣を待ち望んでおられます。鎌倉殿ももうすぐ許可を下さるはず。来るべき出陣では、私が西国への先導を務めさせていただきたく」
少年の声は、兄の景季のような前のめりの熱さはなかったが、その代わり、底の知れない静かな熱を、気品の中にそっと帯びていた。
今まで景季にこのような弟がいたとは、弁慶も気づかなかった。あの帳面の男に似ず清らかな若者がもう一人いたのだ。
庭先に一瞬の静寂が落ちている。景高の言葉は淀みのない口上だった。
縁側に座る牛若の瞳がぱっと輝いている。
「兄上の命令が、待ち遠しい――」
何も連絡が来ていない中、範頼軍から直接使者が来たことになる。それでも牛若は、鎌倉の兄の便りを直向きに待つつもりのようだ。
「……私は密かに、義経さまの御戦ぶりに、深く憧れ申し上げております」
「……なんだあいつ……!」
三郎が嫌悪をあらわにしている。確かに、突如現れた人間にしては厚顔無恥すぎるだろう。牛若とこの美少年が並び立っても、何の感動もあるまい。
「――そなたの案内、頼りにしているぞ。その働き、兄上も喜ぶであろう」
牛若は、景高の顔はろくに見ず、虚空を見つめたまま短く呟いた。
「――はい……」
景高は微かな落胆の滲んだ声でつぶやいた。少年が振り絞った真っ直ぐな憧れも、実務の申し出も、天界の稚児の心に響いていない。ただ、兄からの知らせを待つ空虚な器があるだけだ。
弁慶は鼻の奥で小さく息を吐いた。
(ふん。どこにでもいる小綺麗な美少年め。言葉だけで憧れを語るなど、路傍の石より軽いということが分からぬと見える)
弁慶は、平伏する景高を冷ややかに見下ろした。
だが、屋敷の空気は確実に変わっている気がする。先導を申し出る者が来たのだ。状況は切迫しているにちがいない。
頼朝がまともな男なら、出陣命令は遅からず来ることだろう。
冬の終わりの気配が混じる風の中に、武者震いする男たちの荒い息遣いが混じり始めたのを、弁慶は肌の奥で確かに感じ取っていた。




