第四十二話 歪な安堵
夕餉の席は異様な空気に包まれていた。
台所の薄暗い隅で酒を飲んでいた行家が、にやにやと笑いながら近づいてくる。
「ひひっ、わしは義盛じゃ。よろしく頼むぞ、坂東の姫君よ」
「郷、ですわ」
行家の自己紹介に対し、郷御前は一瞥もくれずに氷のように冷たく返した。行家はつまらなそうに鼻を鳴らし、再び自分の瓶子の元へと引っ込んでいく。
郷御前は膳の前に座るなり、駿河や三郎に向かって容赦のない問い詰めを始めた。
「駿河殿。この屋敷の蔵の管理はどなたがなさっていますの? 先ほど台所や馬番の様子が見えましたが、下賜された米や絹布、銭の出入りは把握されていないのではないかしら」
「……我らは戦と都の警護が務めゆえ、物資の差配までは手が回っておりませぬ」
駿河が苦虫を噛み潰したような顔で答えると、三郎が横から口を挟んだ。
「法皇様や周りの貴族からいただいたものを、必要な時に使ってるだけだぜ。足りなくなったら、また適当に都合をつけるさ」
三郎の能天気な言葉に、郷御前の柳眉が吊り上がった。
「『適当に』ですって? 帳面もつけていないとおっしゃるの? 兵糧や蓄えの管理もできぬのであれば、敵に攻められる前に自滅しますわ。明日、私が蔵の目録をすべて改めます」
「げっ……食事の席でまで……」
帳面女っぷりを発揮すんのかよ、と三郎が忌々しげに鷲尾へと囁く。郷御前がさらに理詰めで畳み掛けようとしたところで、ぴたりと動きが止まった。その冷徹な視線が、上座の二人に釘付けになっているのを、弁慶は見逃さなかった。
弁慶もまた、息を殺してその光景を見ていた。
静が、箸を使って丁寧に焼き魚の骨を取り除き、白い身だけを小皿に取り分ける。牛若はそれを自分の箸で拾い上げ、何の疑いもなく口に運んだ。そして「今宵はこちらを」と静が差し出した水の入った椀を、言われるがままに受け取り、ただこくりと飲み込む。
まるで幼子が己の命を完全に母親へと委ねているかのようだった。
夫婦の情愛などというものではない、ひどく歪で異様な光景だ。それを、郷御前は瞬き一つせずに見極めていた。
食後、いつものように、牛若は静と共に奥の寝所へと消えていった。行家は早々に酔い潰れ、いびきをかいている。
そして弁慶、三郎、鷲尾、継信、忠信、駿河の六人の男たちは、郷御前を置き去りにして部屋を出ると、寝所の襖の前に団子のように固まって耳を押し当てていた。もはや日課になりつつある。
土埃の匂いが狭い廊下を漂う。
「どうだ、今夜は何か……」
三郎が這いつくばって囁く。
「いや、静かなもんだ。衣擦れ一つしねえ」と答えたのは鷲尾だ。
「いっそ、少し隙間を開けて覗いてみるか……?」
忠信が危うい提案をすると、継信は首を横に振って制した。
「万が一にも目が合えば、義経さまに二度と口をきいていただけぬかもしれぬ」
「おそろしいことを言うんじゃねえ……!」
三郎が縁起でもないという顔をした。
「……少し息が荒いぞ。もっと静かにできぬのか」
駿河が呆れたようにため息をつくと、「お前こそ」と男たちが小声で言い合いを始める。
「――何ですの、これは」
見下すような、呆れ果てた冷たい声が降ってきた。
弾かれたように男たちが振り返る。そこには、ぐっと拳を握りしめ、不潔なものでも見るかのような軽蔑の目をした郷御前が立っていた。
主の真実を見極める影であるはずの自分が、這いつくばって襖に耳を当てているというのは、おそらく普通ではあるまい。それをこの女に冷徹に見下ろされていると分かると、弁慶は首筋が焼け焦げるような恥辱を覚え、一瞬だけこめかみを引きつらせた。
「義経さまのお寝所が、そんなに気になるのですわね」
郷御前は、這いつくばる男たちを見下ろしながら、刃物のように鋭い言葉を放った。
「みなさま、女子の気持ちが全く分かりませぬか。この郷は、一目見てすぐに分かりましたわ」
「わ、分かったって……何がだよ」
三郎が間の抜けた声で尋ねる。
郷御前は、冷ややかな声で言い放った。
「お二人は閨の営みをしているわけではございませんの。ただの添い寝ですわ」
廊下に、水を打ったような静寂が落ちた。
「そ、添い寝……?」
三郎が目を白黒させ、懸命にその言葉の意味を噛み砕く。
「つまり……あれは、男と女の交わりではなく、ままごとみたいな清らかなものってことか?」
三郎の俗っぽい言い換えに、郷御前はふっと鼻で嘲笑った。
「そうなりますわね」
「なんで……なんで、来たばかりのあんたに、そんなことがわかるんだよ」
三郎が信じられないという顔で問うと、郷御前は胸を張った。
「二人の目を見た田舎女の勘ですわ。見くびらないでいただきたい」
声を潜めながらも毅然とした声だ。
理詰めの女だと思っていた者が、最後に見せた本能の「勘」。その鋭利な一撃に、三郎も弁慶も完全に圧倒され、言葉を失っていた。
弁慶の腹の底から、深く長い息が漏れ出した。
主の空洞は、まだ誰にも奪われていなかったのだ。あのお方は、いまだ誰のものにもなっていない純粋な稚児のままだ。
だが、その安堵と同時に、弁慶の喉の奥に、泥を舐めたようなひどく苦い味が這い上がってきた。
自分たち男六人が、何夜もこの広くもない廊下に這いつくばって息を潜め、それでも確証を得られなかった事実。それを、この理の女は、到着したその日に観察しただけで、あっさりと見抜いてしまった。
主のあの空洞を理解しているのは自分だけだという優越感の柱が、別の角度から、しかも今日やってきたばかりの女によって、いとも容易く突き崩されたのだ。弁慶の太い指が、無意識に床板を強く掻きむしった。
「なるほど……。帳面女も結構良いことを言うな」
三郎が、感心したように郷御前を見上げる。
「……帳面? 今、何とおっしゃったのかしら?」
「い、いや、こっちの話だっ」
棘のある郷御前の声に、三郎は慌てて両手を振った。
「私の寝所はどこにありますの? ひとまずさっきの部屋に戻りますわ」
郷御前は振り返りもせずその場から潔く立ち去る。
「――帳面女さんの言う通りだといいな」
三郎がうれしそうににやつくと、男たちも笑顔で顔を見合わせた。
「帳面女さんの寝所は俺たちの隣にしようぜ」
そう言って三郎が立ち上がると、鷲尾も「そうだな」と同調し、佐藤兄弟や駿河もついていく。
その後ろをゆっくりと追いながら、弁慶は己の中に渦巻く屈辱と安堵の重い澱みを抱えながら、じっと暗い廊下の先を見つめていた。肌の奥を冷たい風の気配が、微かに撫でていった。




