二人だけの世界
三月の終わりの陽気は、まだ弱い。
昼間になっても未だに隠し味のままの暖かさは、北風にいともたやすく吹き飛ばされてしまう。
陽気を打ち倒して勢いに乗った風はアスファルトの上を流れて、わたしたちの横を通り抜けていった。
まあ、全部どうでもいいんだけど。
結季ちゃんと送りあった手作りセーターに、わたしが編んだ二人用マフラー。隣にいてくれている結季ちゃんも当然あったかい。
つないだ手を通して、結季ちゃんとわたしの体温が循環している。
こんな最強の布陣に、終わりかけの北風が打ち勝てるはずもなく。冷たさを感じるスペースは、とっくに埋まりきっていた。
「あったかいね、結季ちゃん。しあわせ」
開いて解けていくみたいな心の動きに従って、結季ちゃんのほうに頭を寄せる。
「私も、麻依がいてよかったって思う」
四月の陽気を先取ったみたいな柔らかい声で、結季ちゃんが言った。
そのまま、結季ちゃんの体がわたしのほうに寄せられる。増える密着度に比例してわたしの幸福感も増えていく。
それで心の動きが止まるどころか加速していくあたり、わたしは結構強欲なのかもしれない。幸せのさらなる拡充を求めて、結季ちゃんにもっと体重を掛ける。
今回は、ちゃんと時と場合を確認してからだ。
「うわっ、ちょっと」
突然のことに結季ちゃんが一、二歩よろめいた。
「お返し」
結季ちゃんもわたしと同じように力をかけてきて、肩で押しくらまんじゅうをしているみたいな形で釣り合う。
ちょっと後ろから見たら、赤いマフラーを巻いた『人』の形に見えるかもしれない。
結季ちゃんとわたしで支え合って、一つの人になって生きていきたいなあ。なんてことを思う。
……それって物理的な意味じゃないよね。
変な形のままちょっと歩いたところで、常識が追いついてきた。おかしくなって思わず吹き出す。
笑い出したのは、結季ちゃんも同じだった。
「なんだろうね、これ」
「……さあ? なんでしょうね」
ちょっと止まってそんな問答をしてから、再び歩き出す。もちろん体勢は何も変えてない。
だって、『人』のほうが結季ちゃんと近づけるし。
……ああもう! 全部楽しい!
セーター初お披露目の高揚感と幸福感が混ざり合って思いっきり爆発しそう。
手編みのセーターにマフラー。それに加えてわたしたちの関係の象徴、幸せの結晶であるペアリングもはめている。
……これはもう無敵なのでは?
と、爆発した頭の中身でそんなことを思う。
突然空から月が降ってきても、今なら結季ちゃんと二人だけで生き残れるんじゃないだろうか。
そうなったらいいなあ。
二人だけの世界以上に望むものなんかないし。
ラブラブっぷりで向かい風をはね除けながら進んで、例の裏山の登り口に到着した。
上を見ると一面の緑、というか杉。花粉症じゃ無くてよかった。ってここほど思えるところは少ないんじゃないだろうか。
なんだか感慨深くなって、いやぁ、って声が口から漏れる。
「久しぶりだね。結季ちゃん」
「相変わらず誰も登ってなさそうで安心したわ」
山に続く小道は野草に浸食されている。
記憶よりも緑の範囲が大きい。踏み固められている道の真ん中はまだ茶色いまま生き残っているけど。
セーターが解れないように気をつけないと。
二人で同じマフラーを巻きながら登るのはさすがに危ないから、持ってきたリュックサックにしまっておく。
「よーし! 頑張って登るぞー!」
「頑張る必要ある? ここ」
即座に結季ちゃんからツッコミが入る。
横にある看板には登山道って書いてあるし。中身はただのウォーキングコースなんだけど。
「一応ね? 一応」
なんてことを登山口の前で言ってたはずなのに、隣の結季ちゃんが息を切らしている。
「疲れた……」
足は重さを感じる緩慢な動き方をしていて、今すぐに止まってしまいそうだ。
中腹辺りから段々息が荒くなってきて、怪しいなとは思ってたんだけど、まさかこうなるとは。
「まあ、ここ最近ずっと家に籠もってたしね」
「じゃあ、なんで、麻依は、平気……」
本当にしんどいのか途切れ途切れだ。荒い息の中に声が混じっているような感じで、苦しさが伝わってくる。最後まで止まらずにいけるとは思うんだけど。
「うーん。そう言われても……」
わたしは……なんで平気なんだろ。運動してないのはわたしも同じなんだけど。
身長が小さい分、力を使わなくて済むからかな。それか、落ち着きがなくて動き回っているからなのか。
多分落ち着きがないのが正解だと思う。そういえば今朝も家中を走り回ったような気がするし。
「落ち着きがないから……かな」
自分で言うのも恥ずかしいけど。
「あー……」
相槌にも元気がない。息なのか、声なのか、わたしレベルじゃないと分からないんじゃないだろうか。
「あとちょっとで到着だよ」
効き目のほどはわからないけど、応援しながら、結季ちゃんに合わせてゆっくり歩く。
……疲れてる結季ちゃん見るの新鮮だなあ。
ペースが落ち着いて増えた余裕が、自然と結季ちゃんに充てられる。
顔に汗が浮かんでいるし、口は呼吸用に開きっぱなし。一呼吸する度に肺が風船みたいに大きく膨らんで、縮んでいく。
疲れてるどころか、弱ってる結季ちゃんすら珍しい。最近は目にすることも多くなってきたとはいえ、それでもまだまだだ。
最初の頃は本当に完璧に見えてたなあ。
思い出の山を登っているせいか、そんなことを思い出した。
結季ちゃんはわたしを守ってくれるけど、それは結季ちゃんが傷ついていないわけではないのだ。
頂上に着いたら膝枕でねぎらってあげよう。
そうして何分か歩いて、ようやく頂上に辿り着いた。
「着いたー!」
結季ちゃんは立ち止まって静かに肩を上下させている。声を出す余裕もないみたい。
山登りの終着点にあるのは、ただ平らにしただけみたいな広場とそこの奥に建てられた神社。それと空っぽの駐車場。
神社はそこそこ綺麗に整えられている。拝む人も来ないのに整備する意味はあるんだろうか。駐車場がある意味も正直よく分からない。
ちょっとこの町、無駄なものが多くない?
こことか町外れの公園とか。
それを結季ちゃんと二人で都合よく使えているから、あんまり悪いことでもないんだけど。
「結季ちゃん大丈夫? 先にレジャーシートとか用意しておこうか?」
「……いえ、平気」
荒い息に混じるようなやつじゃなくて、今度はちゃんとした声だった。まだ息は荒いままだけど。
「わかった」
広場は蛇が出てきてびっくりしたことがあるから、アスファルト敷きの駐車場に行ってレジャーシートを引く。
ちょっとお尻が痛いけど、これはもう仕方ない。座布団を持ってくる余裕なんてなかったし。
レジャーシートの上に……この座り方なんて言うんだろう。正座を横に崩したみたいな体勢で、レジャーシートの上に座る。
「結季ちゃん」
そのまま足をぽんぽんと軽く叩いて、結季ちゃんを呼ぶ。
「……ええ」
結季ちゃんはそんなわたしの合図を見て、吸い込まれるように滑らかな動きで頭をわたしの膝の上に乗せた。予想していた重さが、わたしの脚に加わる。
膝枕の完成だ。
……あれ? 結季ちゃんが大人しく乗ってきたのがちょっと意外。いつもの感じだと、葛藤が間に挟まると思ったんだけど。
それだけ疲れてるのかな?
「なんか結季ちゃん素直だね」
「…………今日は麻依の誕生日だから。麻依がしたいようにするべきだと思って」
……本当かなあ。そんなこと考えてるようには思えないんだけど。あまりにも長い沈黙に、違和感を覚えずにはいられない。
「それ嘘でしょ」
「……本当よ? 本当」
「じゃあ、そういうことにしとこうかな」
結季ちゃんは何か言いたげに口を左右に動かして、何も言わないまま小さく息を吐く。
そして、気持ちよさそうに目を瞑った。
風と葉っぱの音だけが、わたしたちを取り巻いている。外のやつらなんて感じようもない。
わたしたちは今、広い世界に二人だけでいる。
何をしようと咎められることは決してない。
だってここは二人だけの世界なんだから。
「ねえ結季ちゃん」
「なに?」
「キス、しよ?」
結季ちゃんの目が、ゆっくりと開く。
「いいけど」
結季ちゃんの平静みたいな表情の両脇で、耳が静かに熱を帯びていく。
わたしの熱が伝わっているのかもしれない。
もう何回、結季ちゃんと唇を合わせたんだろう。
少なくとも、数え切れないぐらいには。
それでも慣れるなんてことにはならなくて、 わたしの心臓が、どくどくと、熱を作って送り出している。
結季ちゃんの首に手を回して、わたしの顔を近づける。結季ちゃんも、わたしに近づく。
秒が経つほどに鼓動が早くなっているのは、きっと気のせいじゃない。わたしのも、指先から伝わる結季ちゃんのも、その時に向かって加速している。
まつげが触れあいそうになってから、結季ちゃんとお互い目を閉じる。限界まで目を開けていたのは、ギリギリまで結季ちゃんを見ていたかったからだ。
結季ちゃんは、わたしの何を見ていたんだろう。
結季ちゃんの息と、わたしの息が混じり合う。わたしの髪の毛の先端が結季ちゃんにぶつかっている。
──唇が触れた。
熱くなった柔らかさが、血管とか、神経とか、体に張り巡らされたものの上を駆け回っている。
結季ちゃんの熱とわたしの熱が中和されて、落ち着いていく。
熱がなくなって、鼓動が元の速度に戻って、わたしの中にあるのが単純な『好き』だけになる。
そうなってから、唇を離した。
「麻依、愛してる」
「わたしもだよ。結季ちゃん」
落ち着いたわたしたちの横を、北風が通り過ぎていく。
「……そういえばなんだけど、ここって霊山なんだって」
そんなことをつい口走ってしまったのは、まだ落ち着きが足りていないからかもしれない。それか、一気に冷静になりすぎちゃったからなのかも。
「……そんな神聖な場所でキスなんてしてよかったのかしら」
「いいって。どうせ神さまなんていないんだし」
もし神さまがいて、もし今もわたしたちのことを見ているのなら、それは明確にプライバシーの侵害で、当然犯罪なわけで。
たとえ相手がどんなやつであろうと、結季ちゃんとわたしの邪魔をするのなら、訴えて呪ってやる。
「……それもそうね」
それからわたしたちは、何を言うでも無く二回目のキスをした。




