幸せに溺れる
頭がなんだかふわふわしている。
思考を纏めようとしても、霧みたいに散ってまとまらない。結季ちゃん関係の考えだけは例外ですぐにまとまるんだけど。
結季ちゃんと接する時間が多くなってから、いつもこんな調子だ。
体を包む体温、肌が触れ合う感触、結季ちゃんの匂い、穏やかな呼吸の音、話しているときは声と表情。
その全てを逃さないために、くっついている時は五感だけに意識を割いている。
だから、くっついている時は結季ちゃんのことだけしか考えない、って言うのが正しいのかな。それで、くっつくのをやめてから考え事ができるぐらいに……理性を取り戻す? んだけど。
それが、最近は上手くいっていない。
もうくっついていないのに、くっついている時みたいに頭がぽやーっとしている。
幸せが頭の中に充満して、薄れていかない。
ちょっとでも勉強しておかなきゃいけないのに、目の前のノートは白紙のまま。テストまであと一週間ちょっとしかないのに。
それでいて、こんな状況でも危機感が湧いてこない。頭のどこかにある大事なストッパーが、盛大にぶっ壊れているのかもしれなかった。
付き合い立てのカップルはいちゃつくせいで成績を落とす。って聞いたことがあるんだけど、それと似たようなものなのかな。
ちょっと考えてみて……なんか違うような気もした。主に頻度と時間と距離感が。
「麻依?」
結季ちゃんに名前を呼ばれて、沈黙しかけていた思考に光が戻る。
「ごめんね、ちょっとぼーっとしちゃってた」
「それだけならいいのだけど」
結季ちゃんのノートを、チラッと覗く。
……まあそうだよね。
わたしと同じように、結季ちゃんもぼーっとしていたらしい。
最初の一列が埋まっているだけ、わたしより全然マシなんだけど。
欲望に正直にならないで、大人しく勉強していればよかったのかなあ。……そうなんだろうなあ。あそこで歯止めを掛けておけばここまでの状態にはならなかったわけだし。
次からは気をつけよう、って反省する。けど、後悔はできない。結季ちゃんと密着しなきゃよかったなんて、どんな状況でも思えるわけがない。
……じゃあどうするの、って話なんだけど。
「わたしたちどうしようね。このままじゃダメだよ、色々と」
「だからあの時言ったじゃない……」
結季ちゃんからじとーっと湿った視線を送られる。十分に自覚しているつもりだったけど、改めて結季ちゃんに言われると耳が痛い。
罪悪感に駆られて、顔を逸ら……二度見みたいな感じで、ねじりかけた首を真っ直ぐに戻す。
よくよく考えてみたら、今の言葉は色々とおかしかった。自分は止めました。悪いのは麻依だけです。なんて考えが伝わってくる言い草だけど。
「結季ちゃんもほとんど抵抗しなかったじゃん」
抵抗しようと思えばもっと色々とできたはずなのに。
あの時は発泡スチロールでできた十センチハードルみたいな抵抗しか感じなかった。要するにほとんどノーガード。抱き付いた瞬間にパリパリと小気味いい音を立てて崩れ去っていた。
そういう誘い受けをしてたって言われても、そうなんだで引っかかることなく終わってしまう。
「それは……」
今度は結季ちゃんが顔を逸らす番だった。俯きながら指をわにゃわにゃと動かして、ばつが悪そうにしている。
しばらくその状態が続いて、けれど何も言い訳が思い浮かばなかったのか「別にいいでしょ!」と、ヤケクソ気味に逆ギレされた。
よくはないんだけど……。
「……まあいっか」
結季ちゃんが言ったってだけで全部許したくなってしまう。
わたしは絶対に裁判官になったらダメだなあ。ってなんとなく思った。きっと結季ちゃん以外の全員を死刑か無期懲役に処してしまう。教科書に載っている独裁者も真っ青だ。
「後悔するより先のことを考えないとだもんね」
今やるべきことは、どうこの状況を乗り越えるか。ここで欲望のままに沈んでいくか、頑張って浮き上がるかで、未来の明暗がハッキリと分かれている。
結季ちゃんと死ぬまで……まあ死んでからも一緒にいるつもりだけど、その死ぬときは寿命でありたい。破滅を迎えて心中ルート。なんて結末は絶対にいやだ。それからの人生を全部損することになるし。
「そうね……」
呟くように答えて考え込む結季ちゃん。口元に手を添えているのが何ともかっこよくて、写真か何かに残しておきたくなる。……じゃなかった、わたしも考えないと。スマホに伸ばした手を寸での所で引き留める。
まず前提として、結季ちゃんとの時間を減らすのは無し。
テスト、赤点、離れ離れに耐えきれずおかしくなっていた結季ちゃん……。
あの時の記憶がありありと蘇る。
これ以上結季ちゃんに迷惑かけられない、って使命感があったからわたしは何とか大丈夫だった。けど、それがなくなった状態で耐えられる気がしない。わたしも結季ちゃんもおかしくなって、余計に離れられなくなるのは目に見えていた。
……これからもこのぐらいくっついていたいなあ。っていうのも本音なんだけど。結季ちゃんの本音も、多分そう。
結季ちゃんとの時間を保ちながら、良い感じの距離を保って、人間性みたいなものも保つ。
うーん。って、声が出そうなぐらい難しい。
「勉強するまで密着禁止とかいいんじゃない?」
結季ちゃんの言うことも尤もだと思う。……普通なら。
結季ちゃんの考えをそのまま行動に起こせば普通は解決するはずなんだけど。
「それはちょっと難しいような。今だって似たような状態だけど、できてないわけだし」
「確かにそうね……」
結季ちゃんは溜め息を吐くように呟いて、再び考え始めた。
わたしも考え込もうとして、けど、どうしてか考えられない。膝枕してもらいたいなあ。頭撫でて欲しいなあ。勉強なんかやめて一緒に寝たいなあ。なんて、百八を優に超える煩悩がわたしの頭に渦巻きだした。
多分集中が切れたんだと思う。理性の働く時間が短すぎて、自分のことなのになんか色々と悲しい。
ちゃんとしなきゃ。
そう覚悟をみなぎらせようとするのと裏腹に、わたしの視線は結季ちゃんの柔らかい太ももから離れない。
幸せを感じた出来事の記憶がなだれ込んできて、欲求という形で根付く。根付いた欲求が、結季ちゃんの感覚を手に入れるためにわたしの体の主導権を乗っ取ろうとする。
いわゆる禁断症状だった。ずっとそばにいるのにおかしな話なんだけど、やっぱり何かが足りていない。密着するというのは、ジュースの原液を直接飲んでいるのと同じようなものなのかもしれなかった。
五倍以上の甘さに慣れて、それを上回る甘さじゃないと満足できなくなっている。
こんなことになるのも、結季ちゃんがすぐ隣にいるのがいけないのかな。なんて。
だって、すぐにくっ付ける環境じゃなかったらこうはならないし……って。
「これだ!」
突然の閃きに、思わず声が大きくなる。
「結季ちゃん、別々の部屋に分かれて勉強しよう」
「それだと逆効果にならない?」
「だから通話は繋げておくの」
そうすれば結季ちゃんとの時間を保ちながら、変なことに気をとられなくなる。はず。
結季ちゃんと同じ空間にいられないのは残念だけど、こればっかりは仕方ないかな。お互いに話せる分、授業なんかより何倍もいいし。
「確かに、だったら大丈夫かも」
「早速それでやってみよっか」
そして別々の部屋に移ってから、大体三時間。
わからないところを教え合いながら、何とか今日のノルマが終わった。一週間前から始めておけば半分で済んだと思うと、なんだかやるせない。
勉強用の丸机から離れて、ベッドの淵に腰掛ける。
「早くこうしておけばよかった」
「ほんとにね」
リビングから戻ってきた結季ちゃんが、わたしの考えを盗み見たようなことをぼやきながらすぐ隣に座る。
わたしの家こたつ無いけど結季ちゃん寒くなかったかな。大丈夫だとは思うんだけど……今から布団で暖めてあげようかな。
「やることもやったし、残りの時間はずっとくっついていよう?」
「ええ」
いつものようにくっついて一塊になってから、布団に潜り込む。
結季ちゃんの体温も、柔らかい感触も、結季ちゃんの甘い匂いも、わたしを包む全部が最高なんだけど、やっぱり一番は。
「……いいなあ。結季ちゃんのことだけ考えていればいいって」
「私も麻依のことだけを考えるから」
「ありがと、結季ちゃん」
やるべきことをやっていない不安も焦燥感も、何もない。
さっぱりとした心の中を、ただひたすらに、結季ちゃんだけで埋め尽くす。




