汚れている手
ミシュリーヌは、ゆっくりと地面へしゃがみ込んだ。
黒ずんだ土へ、そっと指先を触れる。
じわり、と。
泥の奥から、嫌な感触が返ってきた。
「……っ」
ミシュリーヌの眉が寄る。
ただ腐っているわけではない。
もっと深い。
土。水。根。虫。作物。空気。
全部が、薄く繋がって濁っている。
まるで、森そのものが静かに病気になっているみたいだった。
ジュリアが近づく。
「ミリー?」
「……これ、駄目」
珍しく、即答だった。
「焼けば虫は減る。畑も壊せる」
「でも、もう土地そのものへ染み込んでる」
ミシュリーヌは、指先へ付着した黒い泥を見る。
そこから微かに、濁った魔力が滲んでいた。
キャスランが眉をひそめる。
「治せるのか?」
ミシュリーヌは少しだけ黙り込んだ。
それから、小さく首を振る。
「これ、私じゃ修復できない」
「ミリーでも?」
ジュリアが静かに目を細める。
ミシュリーヌは小さく頷いた。
「私のは“変える”力だから。……壊れたものを世界ごと"元に戻す"のは……たぶん、別」
風が吹く。
遠くで、まだ虫の羽音が鳴っている。
ミシュリーヌは、森の奥を見る。
その視線は、どこか遠かった。
「……たぶんね……こういうの、セシリア向き」
ジュリアが黙る。
脳裏に浮かぶのは、白い修道服の少女。
泣いている誰かを見つけてしまう子。
傷ついたものへ、当たり前みたいに手を伸ばす子。
ミシュリーヌは、小さく笑った。
「祈りってさ、案外、こういう時のためにあるのかもね」
ジュリアは何も答えなかった。
焼け焦げた虫の灰が、風に乗って舞っている。
だが、その下で。
土はまだ、鈍く濁ったままだった。
リィンが耳を伏せたまま、小さく口を開く。
「ジュリア様。白の聖堂、呼びましょう」
「白の、聖堂?」
キャスランが訊く。
ジュリアは、広大な農地を静かに見渡した。
自由都市カナンが持ち込んだ大規模農業。
人為的な森林改変。そして、ヴェルミースの毒。
どこからが“人間の欲”で、どこからが“魔族の侵食”なのか。
境界線は、もう曖昧になり始めていた。
遠くで静かに、農場の獣人達が、こちらを伺っていた。
ジュリアは静かに目を閉じる。
セシリアなら、きっと、この土地へ跪くだろう。
傷ついた森へ。苦しんでいる人々へ。
そして、泣きながら祈る。
それを利用しようとする自分の手は、自由都市カナンと同じく、もう汚れている気がした。
ジュリアはゆっくり目を開いた。
「……帰還後、白の聖堂へ正式に要請を出します」
誰も異論はなかった。
森の風が吹く。けれど、その風はもう。リィンの知る“故郷の匂い”ではなかった。
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キャスランの村へ戻ってきた頃には、もう夕暮れになっていた。
橙色の光が、巨大樹の枝葉を赤く染めている。
そして。
同行していたエルソン商会の商人達が、見事に酔いつぶれていた。
「……何をしているんですか?」
ジュリアが呆れた声を出す。
商人のひとりが、真っ赤な顔でふらふら振り返った。
「い、いやぁ……持ち込んでいた火酒をお売りしたんですが……」
「飲み比べになりまして……うぇっぷ」
「こんな時間からですか……」
ジュリアは静かに額を押さえた。
その横で。
「それより」
キャスランが真顔で割り込む。
「あの虫ホイホイ、もう持ってないのか?」
「あー……ありますよ?」
リィンが荷物袋を見ながら答える。
「預かっていた試供品なので、そんなに数は――」
「全部売ってくれ!!」
即答だった。
村の獣人達まで、一斉に頷いている。
「欲しい」
「欲しいです」
「マジで助かる」
「夏が変わる」
熱量が凄かった。
その様子を見ていたエルソン商会の商人達の顔から、一気に酔いが吹き飛ぶ。
そして。
全員の目が、すっと細められた。
ギラついた、“商人の目”だった。
(……これは売れる!)
「森林国だけじゃないぞ」
「南方もいける」
「湿地帯にも需要がある」
「いや帝国南部でも――」
ぶつぶつと算盤を弾き始めた。




