虫嫌い!
ブゥゥゥゥ――……。
湿った不快な羽音が近づくたび、リィンの獣耳がぴくぴくと神経質に跳ねる。
普段はおとなしい彼女が、珍しく露骨に眉をひそめていた。
「リィン、大丈夫?」
ミシュリーヌが心配そうに顔を覗き込むと、返ってきたのは地を這うような即答だった。
「虫、嫌い」
「そ、そうなんだ?」
「小さい頃、寝てたら耳に入ってきたし」
「うわぁ……」
想像してしまったのか、ミシュリーヌとサムが素で顔を引きつらせる。
しかし、リィンの淡々とした告白は止まらない。
「あと、毛並みが密集してるから、尻尾の中にも入ってくる」
「それは……確かに嫌でしょうね」
大真面目な顔で頷いたのはゴードンだ。
ブゥゥゥゥ――ン……!!
会話を打ち切るように、不快な羽音が膨れ上がる。
木々の隙間から溢れ出してきたのは、陽光を遮るほどの黒い虫の群れ。
モザイクのような歪な塊が、こちらへ向かって押し寄せてくる。
その瞬間、リィンの耳が、ぺたんと伏せられる。
尻尾も、ぶわっと膨らんだ。
「もうっ、無理」
声のトーンが変わった、完全に本気だった。
――ぽーん。
次の瞬間、あまりにも緊張感のない音が響く。
「あ」
リィンが投げたのは、手のひらに収まるサイズの、艶やかな黒い箱。エリザが試作したという魔道具だった。
箱は地面をころころと転がり、草むらの手前で止まる。
直後、微かな駆動音が鳴り響いた。
ブゥンッ!!
空間を埋め尽くしていた羽虫の群れが、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、一斉にその黒い箱へと進路を変える。
『あへや?』
その群れを操っていたはずのヴェルミースの声が、呆気に取られたように引きずられていく。
『ちょ、ちょっと待っ――』
ふわぁ……っと。
本当に、ホイホイ寄っていった。
まるで意志を持った黒い煙のように、虫たちが次々と魔道具へ群がり、折り重なって球体を作っていく。
そして。
『……』
あとに残されたのは、ただ一心不乱に黒い箱へ群がり続ける、巨大な虫の塊だけだった。
ヴェルミースの気配は、完全に消えてしまっている。
圧倒的な沈黙が場を支配した。
「……え?」
ジュリアがぽかんと口を開ける。
そんな仲間の反応をよそに、リィンは小首を傾げた。
「虫っぽかったので。効くかなって」
ジュリアは数秒間、固まったように沈黙し――やがて、絞り出すように言った。
「……リィン」
「はい?」
「貴女、思った以上に冷静というか……肝が据わっていますね」
「え?」
大量の羽虫が、黒い魔道具へ群がっている。
ブゥゥゥゥ――……。
相変わらず羽音は響いているが、それは目の前の箱に集中しており、こちらへ向かってくる気配は一切ない。
森を覆っていたあの絶望的な羽音が、嘘のように遠ざかっていく。
誰もが、そのシュールな光景をただ見つめていた。
やがて、張り詰めた沈黙を破り、キャスランがぽつりと呟く。
「……ジュリア嬢」
「はい、なんでしょう」
「その魔道具、いくらだ?」
ジュリアが一瞬だけ言葉に詰まる。
その横から、リィンが何も考えていない無垢な顔で割り込んだ。
「エリザさん、需要がありそうだから量産するって言ってました」
「買おう」
食い気味の即答だった。
張り詰めていた緊張感が一気に瓦解し、ミシュリーヌがたまらず吹き出す。
「決断早っ」
「いや待て。今の見ただろ」
キャスランは真顔だった。
「森の虫害が半減するだけで、どれだけ助かると思ってんだ」
彼の熱い視線は、未だに羽虫が鈴なりになっている黒い箱に注がれている。
「正直、今すぐ欲しい」
ジュリアは、静かにこめかみを押さえた。
(また産業が増えましたね……)




