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大森林

 アストライア新連邦製・軍用飛空艇。

 その進空式は、春空の下で盛大に執り行われていた。


 白い布旗。整列する儀仗兵。各国から集まった来賓。

 巨大な船体が、新設された浮遊ドックへ静かに停泊している。


 ジュリア・アークライトの演説が続く中。

 リィンだけは、ほんの少し視線を落としていた。


(……香辛料)


 頭の片隅に残り続ける言葉。

 エンギュロイ森林国産の香辛料。

 人間にのみ現れる異常反応。


 興奮。高揚。依存。


 だが。


(……変だ)


 実際に試した時、味そのものは普通だった。

 獣人にとっては、ただの“いつもの味”。

 故郷では、保存食にも肉料理にも日常的に使われていた。

 なのに人間だけが反応する。


(……本当に、ただの調味料なんでしょうか)


 脳裏へ、故郷の森が浮かぶ。

 木漏れ日。湿った土の匂い。枝を渡る風。獣の気配。

 静かで、濃密で、生命そのものみたいな森。

 そこへ“異物”が混ざっている想像が、どうしても出来なかった。


「――本艦は」


 ジュリアの声が響く。


「アストライア新連邦における、初の軍用飛空艇として――」


 拍手。歓声。

 祝祭の熱気が広場を包む。


 ジュリアが、静かにシャンパン瓶を掲げた。


 そして。


 船首へ叩きつける。


 鈍い破砕音。


 一瞬の静寂。


 次の瞬間、割れんばかりの歓声が上がった。


「進空を祝して!」


 船体側面へ刻まれた術式が、青白く発光した。重力制御膜が展開される。


 魔導エンジンが唸りを上げる。


 音楽隊が勇ましい行進曲を奏でる。


 ゆっくりと。巨大な船体が、地面から浮かび上がっていく。


 群衆が熱狂する。子供たちが目を輝かせる。

 空を見上げる人々の顔には、希望が満ちていた。

 文明が、前へ進んでいる。


 その光景の中で。リィンだけが、ほんの少しだけ目を細めていた。

 リィンにはそれが、これまでの平和な日常が、ひび割れる音のように感じられた。


(……森に、帰った方がいいのかな)


 理由は、まだはっきりしない。

 ただ。“何かが起きている”。その感覚だけが、静かに確信へ変わり始めていた。


---------------


 新造飛空艇ケレスアイテールは、低空を滑るように飛行しながら、南方を経由し、東方の大森林へと差し掛かっていた。


 遥か下方には、果てしなく広がる緑の海。

 木々は密集し、地平線そのものを飲み込んでいる。


「では予定通り、森林国側へ刺激しないよう、この地点で調査団を投下します」


 新連邦伯爵マティアス・マストハインが静かに告げる。


「了解しました。あとは任せる」


 ジュリアは短く応じた。束の間の執務から解放された顔は、どこか軽い。


「ご武運を」


 形式的な挨拶と共に、準備が進む。


 今回の調査団は少数精鋭だった。

 リィン。ミシュリーヌ。エルソン商会の案内役。そして志願した若い騎士二名――ゴードンとサム。

 小型飛空カッターへと乗り込むと、切り離し装置が作動する。


 ――カン、と乾いた金属音。


 次の瞬間、機体は飛空艇から静かに離れた。

 空気が変わる。

 上空の機械的な振動が遠ざかり、代わりに“森の圧”が一気に押し寄せてくる。

 風の音。鳥の声。遠くの枝葉の揺れ。


(……懐かしいな)


 リィンは無意識に、尻尾の位置を気にした。

 森は歓迎しているようでいて、同時に、外からの侵入を“測っている”ようでもあった。


 カッターはゆっくりと高度を下げていく。

 巨大な樹冠が近づくにつれ、緑は濃度を増し、光を飲み込み始めた。

 その中心へ。彼らは降りていく。


----------------------


 夜。篝火が森を照らしていた。


 獣人たちの歓迎の宴。

 焼いた肉の匂い。酒。太鼓。笛。


「おーい! リィン!」


 毛並みの良い狼獣人の青年が、大きく手を振った。


「戻って来たなら踊れー!」

「え、いや私は……」

「何だよその喋り方!」


 周囲がどっと笑う。


「ほんと変わったなぁ」

「なんか貴族サマみてえ」

「前はもっと木ザルだったのに」


「木ザル言うな!」


 反射的に返した瞬間、周囲がさらに笑う。


「お、今の昔のリィンだ」

「中身は変わってねえのか?」


 リィンが、ちょっとだけ居心地悪そうに耳を伏せた。


 だが。太鼓の音が強くなる。

 獣人たちが輪を作り始めた。


「ほら来い!」


 腕を引かれる。


「ちょっ……!」


 気づけば、輪の中へ放り込まれていた。

 足が動く。考えるより先に。

 地を蹴る。回る。跳ぶ。


 篝火の光が、金色の瞳へ映る。

 しなやかな動き。軽やかな足運び。

 枝を渡るような身体さばき。


 その瞬間だけ。

 リィンは、アークライト家の侍女でも、隠密でもなく。

 森の獣人だった。


 少し離れた場所で、ミシュリーヌが目を丸くしていた。


「……へえ。リィンちゃん、あんな顔するんだ」


 ◇


 森を進む途中。

 ゴードンが、ふと足を止めた。


「……なんだ、あれは」


 その先。巨大な“壁”が立っていた。


 違う。木だ。空を突くような巨木。

 幹の太さは、下手な砦より大きい。

 枝葉は雲のように広がり、森そのものへ影を落としている。


 だが。それは、ゆっくりと動いていた。


 ギギギ……。


 枝が軋む。樹皮が鳴る。

 巨大な腕のような枝が、静かに持ち上がった。


「――レッドウッド・トレントです」


 リィンが、どこか当たり前みたいに言った。


「森の守護者ですね」


 サムが絶句する。


「いやいやいや待て待て待て、あれ魔物だろ!? 危なくないのか!?」

「え? 基本的にはとても優しい生き物ですよ」


 リィンは首を傾げた。


 その間にも、獣人の子供たちが、トレントの根元を駆け回っていた。

 枝へよじ登る者。昼寝している者。蔦を使って遊ぶ者。

 完全に、生活へ組み込まれている。


 巨大な枝が、そっと子供を支える。まるで老人みたいに。


 ミシュリーヌが、ぽかんと口を開けた。


「……え、かわいい」


「かわいい、ですか。……あれが?」


 ゴードンが真顔で返す。


 一方、ジュリアだけは、言葉を失っていた。


(……嘘でしょう)


 脳裏へ蘇る。

 前世。


 大侵攻。

 空を埋める樹冠。城壁を踏み潰す根。

 無数のトレントの群れ。

 火でも止まらない、森の暴走。

 人類圏を飲み込んだ、“緑の災厄”。


 だが、眼の前の存在は、あまりにも穏やかだった。

 子供を見守り。木漏れ日の中で眠り。

 静かに森を支えている。


(……トレントって、本来、こんな生き物だったのか)

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