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ユーリアリナのハープ

 飛空艇は、割れた海の底へゆっくりと降下していく。


 左右には、灰色の海の壁。

 まるで世界そのものが裂けたみたいな光景だった。


 眼の前には、水が存在するのに無音。

 そしてそこを泳ぐ魚たち。


 帝国の乗組員たちは、誰もが言葉を失っていた。


「こんな大規模な術式……聞いたこともありませんぞ」

 ハインリヒ・フォン・グロースが、額の汗をハンカチで拭う。


「当然です。こんな術式は、存在しません」

 ジュリアもまた、軽い頭痛を覚えながら答えた。


 ミシュリーヌだけが、少し得意げに胸を張っている。


「えへへ」

「褒めてません」


 だが、セシリアだけは、どこか青ざめた顔で海の壁を見上げていた。


「……私、こういうお話、聖本で読んだ覚えがあります」


 全員の視線が向く。


 セシリアは、困ったように眉を寄せた。


「でも……変なんです」


「変?」


「はい……」


 セシリアは、自分でも整理できていないみたいに呟く。


「“海を割る奇跡”は、本来……」


 そこで言葉が止まる。


 静寂。


 飛空艇の駆動音だけが、低く響いていた。


 そして。


 セシリアは、小さく呟く。


「……“聖者の御力”だったはずなんです」


 空気が止まった。


 視線が、ゆっくりとミシュリーヌへ集まる。

 本人は、きょとんとしていた。


「え? なになに?」


(……こいつが?)


 ジェラルドはそう思った。

 だが、流石に口には出さなかった。


 ◇


 ――ズゥゥゥゥン。


 鈍い振動と共に、

 飛空艇が海底へ着床した。

 船体がわずかに軋む。


 窓の外には、黒い岩盤と、灰色の海の壁。

 まるで、巨大な峡谷の底へ降り立ったみたいだった。


「……本当に降りたのかよ」


 ジェラルドが呆れたように呟く。


「今さらです」


 ジュリアは短く返しながら、外套を翻した。


「周囲警戒を」


 タラップが降ろされる。


 帝国側の乗組員たちは、未だ半信半疑の顔だった。

 海の底だ。

 本来、人間が立てる場所ではない。


 だが。

 そこには確かに、空気が存在していた。

 セシリアが、静かに海底へ降り立つ。


 白い靴が、濡れた岩盤を踏む。


「……静か」


 ぽつりと、彼女が呟いた。


 波の音が無い。

 風も無い。

 魚の群れだけが、海の壁の向こうをゆっくり泳いでいる。

 その異様な光景に、誰もが言葉を失っていた。


 ミシュリーヌが小さく肩を震わせる。


「やっぱり臭う……」


 先ほどよりも強い。

 海藻の臭いじゃない。

 もっと、じっとりとした、嫌な気配。


 セシリアが、ゆっくりと前を見つめる。

 そして。


「あっちです」


 細い指が、海底の奥を指し示した。


 ミシュリーヌも、同じ方向を見て頷く。


「うん」


 ジュリアは、小さく息を吐いた。


「行きましょう」


 全員が、静かに歩き出す。


 黒い岩盤。

 絡みつく灰色の海藻。

 ところどころ、沈没船の残骸が埋もれていた。

 朽ちたマスト。砕けた舵輪。

 まるで、海そのものが墓場になっている。


 その中心。

 不自然なほど、何も存在しない空間があった。

 海藻すら、そこだけを避けている。


 まるで、そこだけ、スポットライトが当たっているかのように。


 そこにあったのは。


 古びた、黒い、ハープだった。


 だが、朽ちてはいない。

 黒曜石みたいな艶を帯びた楽器が、海底の中央に静かに置かれていた。

 どこか、寂しげに。


 ジュリアが警戒しながら、ゆっくりと近づいていく。


 その瞬間。


 ……ポロン。


 誰も触れていない。

 なのに。

 黒い弦が、ひとりでに震えた。


 静かな音色が、海底へ広がる。


 セシリアもハープへ近づく。

 すると。


「……悲しい」


 と言った。


 ジュリアが眉をひそめる。


「呪い、ではないのですか?」


 セシリアは困ったように首を振る。


「いいえ……違います」


「これは、誰かを傷つけたい音じゃない」


 セシリアが、ハープへ触れようとする。


「待て、触るな」とルカ。


 だが、ルカを振り返り、セシリアは首を振る。

 迷わなかった。そっとそれに触れる。


 淡い光。


 静かな祈り。


 すると。

 黒く染まっていたハープが、すうっ、と白へ変わっていく。

 まるで、長い悪夢から醒めるみたいに。


 同時に、セシリアに聞こえていた、あの泣き声が。少しずつ静かになっていった。


 そして、同時に。

 海面を覆っていた“ユーリアリナの髪”が、ゆっくりとうねりを止め始めた。


 ◇


 飛空艇が再び海面まで上昇する。


 ミシュリーヌが、掲げていた両手をゆっくり下ろした。


 裂けていた海が、轟音と共に閉じていく。

 灰色だった海面。


 だが。

 先程までとは違う。

 どこか、海が呼吸を取り戻したような静けさだった。


 その時。


 遠くから、大きな水音が響く。


 海面を割って現れたのは、巨大なシーサーペントの群れだった。


「うおっ!?」


 ジェラルドが身構える。


 だが。

 シーサーペントたちは、飛空艇を襲わなかった。


 代わりに。

 海面へ広がる“ユーリアリナの髪”へ噛みつき、次々と食べ始める。

 まるで。本来あるべき海へ、戻そうとするみたいに。


 白く変わったハープが、海底で静かに光を放っていた。

 その音色はもう、泣いていなかった。


 セシリアは、そっと目を閉じる。


「……寂しかったんですね」


 誰に向けた言葉だったのか、誰にも分からない。


 ただ。灰色だった海に、少しずつ青が戻り始めていた。

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