ユーリアリナの髪
帝国軍将校、ハインリヒ・フォン・グロースが報告書を机へ置いた。
「帝国西方海域にて、“ユーリアリナの髪”の発生を確認しました」
「……ユーリアリナの髪、ですか」
ジュリアが小さく目を細める。
『海姫ユーリアリナ』
昔々。西の海には、美しい人魚の姫がいた。
その歌声は嵐を鎮め、その祈りは海を豊かにした。
だが。ある日、彼女は人間の航海士へ恋をする。
航海士もまた彼女を愛した。
しかし、人間たちは、人魚の涙が宝石になると知った。
欲に駆られた者たちは、航海士を唆し。
彼は、ユーリアリナを海へ沈めた。
沈みながら彼女は歌った。涙を流し。髪を海へ広げ。
そして呪った。
――『ならば、あなたたちも海へ還りなさい』と。
以来、海では時折、“ユーリアリナの髪”が現れる。
海藻に絡まれた船は沈み。
歌声を聞いた者は、自ら海へ身を投げる。
そんな伝承。
「実際のところは、異常増殖する海洋植物です」
ハインリヒが淡々と続けた。
「正式には、『ザ・プロリフェラ』。“増殖するもの”」
「帝国魔物学会では、そう分類されています」
ジュリアは静かに報告書へ目を落とす。
黒ずんだ海面。
船底へ絡みつく巨大海藻。
霧。
そして。消えた船団。
「ただの海藻、と片付けるには被害が大きすぎますね」
「ええ」
ハインリヒが頷く。
「何より異常なのは、生態系です」
「近海の魔物分布が崩れ始めています」
その言葉に。
ジュリアの視線が上がった。
「……崩れている?」
「はい」
「本来、西方深海域へ生息していたクラーケン種が、沿岸側へ移動を始めています」
「セイレーンの目撃数も増加」
「さらに、一部海域では魚群そのものが消失しました」
沈黙。
ハインリヒは低い声で続ける。
「まるで、……海の魔物たちすら、住処を追われているようだ」
部屋が静まり返る。
ジュリアだけが、静かに目を伏せた。
(……海が、壊れ始めている?)
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改良試験中の飛空艇アルシオンは、西方海域上空を静かに飛行していた。
龍種の生態術式を応用した新型浮遊機関。
従来の飛空艇よりも遥かに軽く、静かだ。
今回の目的は試験運用。
そして同時に、帝国西方海域で続発する海難事故の調査でもあった。
“白の聖堂”の巡礼活動中だったセシリアも、一時的に呼び戻されている。
乗船しているのは、
ジュリア、セシリア、ルカ、ミシュリーヌ、ジェラルド。
そして帝国側代表として、ハインリヒ・フォン・グロース。
飛空艇の窓から見下ろせば、海は確かに灰色へ染まっていた。
濁っている。
生きた海の色ではない。
「……誰かが、泣いています」
ぽつりと、セシリアが呟いた。
ジュリアが視線を上げる。
「泣いている?」
セシリアは小さく頷く。
その青い瞳は、まるで遠くの声へ耳を澄ませているみたいだった。
「あっちです」
細い指が、海霧の向こうを指し示す。
「歌みたいなのが……聞こえます」
船内の空気が、少しだけ張り詰めた。
ジュリアは静かに海図へ目を落とす。
「進路変更。セシリアの示す方向へ」
「了解しました」
飛空艇が、ゆっくりと進路を変えた。
◇
「……ここです」
しばらくして、セシリアが再び口を開く。
「ここから聞こえます」
飛空艇の下。
海面は、異様なほど黒く淀んでいた。
油を流したみたいな色。
その上を、灰色の霧が低く漂っている。
「ひどい有様ですな」
ハインリヒが眉をひそめる。
ジェラルドは腕を組み、海を見下ろした。
「なんか気味悪ぃな」
「……うん」
そこで、ミシュリーヌが小さく鼻を押さえた。
「なんか、臭い」
「臭い?」
ジェラルドが振り向く。
「海藻じゃねぇの?」
「違うわ」
ミシュリーヌは、嫌そうに眉を寄せた。
「もっとこう……嫌な感じ」
「腐ってるっていうか……歪んでるっていうか……」
言葉を探すように、少し視線を泳がせる。
「たぶん魔術よ。魔道具か何か」
「自然発生じゃない」
その瞬間、ジュリアの目つきが変わった。
「……人為的、ということですか」
「たぶんね」
ミシュリーヌが、海の奥をじっと見つめる。
沈黙。
灰色の海だけが、静かに揺れていた。
「でも海の中だろ?」
ジェラルドが頭を掻く。
「どうすんだよ」
「でしたら」
ジュリアが前へ出る。
「私が潜ります」
「耐圧術式と多重結界を併用すれば、短時間なら調査可能です」
「待って、ジュリア」
ミシュリーヌが、ぱっと彼女の袖を掴んだ。
「もっと簡単で、安全な方法があるわ」
「……は?どうすんだよ」とジェラルド。
そこに居た新連邦組が全員、嫌な予感を覚えた。
「こうするのよ」
次の瞬間。
ミシュリーヌが、海へ向かって手をかざした。
――ズゴゴゴゴゴゴゴ。
轟音。
海面が震える。
いや。
割れていた。
「は?」
ジェラルドが固まる。
灰色の海が、巨大な壁みたいに左右へ押し退けられていく。
海底が露出する。
深海。
黒い岩盤。
絡みつく“ユーリアリナの髪”。
そして。
不自然なほど、静かだった。
波の音が消えている。
風も。何もかも。
まるで、海そのものが、息を止めているみたいに。
ミシュリーヌが、少しだけ得意げに胸を張る。
「どう?」
「いやいやいや、どう、じゃねぇだろ……」
ジェラルドさえも、引いていた。




