帰路
学園からの帰路。
夕暮れの街道を、一台の馬車が静かに走っていた。
窓の外では、運河都市アイギスのきらびやかな灯りが、少しずつ遠ざかっていく。
心地よい春の風。
規則的な車輪の音と、柔らかな揺れ。
車内には、どこか物憂げで、穏やかな静寂が流れていた。
座席には、書類を手に思考を巡らせるジュリア。
その隣には、ミシュリーヌ。
だが、学園を出てからというもの、ミシュリーヌは少しだけ口数が少なかった。
いつもなら真っ先にジュリアに話しかける彼女が、今はじっと窓の外を見つめたままだ。
「……疲れましたか? ミリー」
ジュリアが静かに尋ねる。
「うーん……」
返ってきたのは、どこか心ここにあらずといった曖昧な返事だった。
窓硝子に映るその横顔には、どこか薄い影のように落とされている。
それを見たジュリアは、それ以上何も言わなかった。
しばらくして。
こてん、と。
不意に、左の肩へ、柔らかな重みが乗った。
「……ミリー」
ミシュリーヌが、ジュリアの肩へ頭を預けていた。
「今日くらい、いいでしょ」
少しだけ声音を弾ませた、甘えるような声。
ジュリアはわずかに困ったように眉を下げた。
だが、その体を振り払うようなことは決してしない。
そのまま、二人だけの静かな時間だけが流れていく。
がたごと、と馬車が優しく揺れる。
悪戯な春風が、カーテンの隙間から滑り込んで二人の髪を揺らした。
「ねえ、ジュリア」
「なんです?」
少しだけ、躊躇うような間が空く。
「私って、そんなに危ない?」
ジュリアはすぐには答えられなかった。
脳裏をよぎるのは、あのダークエルフの琥珀色の瞳と、冷徹な言葉。
――世界を書き換える側。
だが、ジュリアは書類から視線を外し、隣の温もりに向けて、静かに口を開いた。
「……危険ですよ」
ミシュリーヌの肩が、ぴくりと揺れる。
車内の空気が、一瞬だけ凍りついたように止まった。
けれど、ジュリアの言葉はそこで終わりではない。
「ですが」
「貴女が居なければ、私はここまで来れませんでした」
それは、ジュリアなりの、最大の誠意だった。
ミシュリーヌが、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、少しだけ潤んでいるようにも見えた。
「そっか……」
そして。
「えへへ」
心の底から安心したように、いつもの眩しい笑顔を浮かべた。
真っ直ぐに向けられたその笑みに、ジュリアは無意識に、ふいっと視線を逸らした。
白い耳朶が、ほんのり赤く染まっている。
(……今日は、少し怖がらせてしまったかもしれませんね)
そんな罪悪感もあったからだろうか。
ジュリアは小さく息を吐いてから、少しだけ声を潜めて言った。
「……ありがとうございます。ミリー」
「……うん」
ミシュリーヌは、少しだけジュリアの顔を見つめた。
自分の居場所を、確かめるように。
(私を怖がらないの、ジュリアだけなんだよね)
その瞬間。ふと何かが、彼女の中で限界を超えた。
ぎゅっ、と。
「わっ」
ミシュリーヌが、ジュリアの首に細い腕を絡めて抱きつく。
「ミ、ミリー?急にどうし――」
言いかけたジュリアの言葉は、最後まで紡がれなかった。なぜなら――。
ちゅ。
いたずらで、けれどひどく甘い、軽い音が車内に響く。
ジュリアの思考が完全に停止した。
「…………は?」
数秒遅れて、
ようやく絞り出すようにして声が出る。
ミシュリーヌは、
顔を真っ赤にしながら、いたずらが成功した子供のように笑っていた。
「……えへへ」
「前から、やってみたかったんだ」
「なっ……、貴女は……っ!」
ジュリアは、置物のように固まってしまう。
ミシュリーヌはそれで満足したようで、ふにゃりと力を抜くと、再びジュリアの肩へと頭を預けた。
がたんがたん、と心地よい時間が流れる。
しばらくして。
すー、すー、と健やかな寝息が聞こえ始める。
どうやら安心したらしい。
ジュリアは、呪いにでもかかったかのように硬直したまま、しばらくの間動きを止め。
それからようやく、ぎこちない動作で、膝の上の資料へ手を伸ばした。
だが。
肩に乗る心地よい重み。衣服越しに伝わるミシュリーヌの確かな温もり。
ありえない距離。
――集中できるはずがなかった。
「……はぁ」
文字が滑って全く頭に入ってこない書類を前に、ジュリアは諦めたように小さく息を吐く。
窓の外。
燃えるような春の夕焼けが、二人が乗る馬車を、ゆっくりと茜色に染め上げていた。




