学園訪問
春。
エリュシオン小国連邦――学術都市アイギス。
アストライア新連邦の東国境を越えた先。
そこには、まるで別世界のような都市が広がっていた。
幾筋もの運河が街全体を巡る。
陽光を受けた水面は、砕いた宝石を流し込んだようにきらめいていた。
運河沿いには白大理石造りの建築群。
壁面を彩る極彩色のステンドグラス。
風に揺れる旗。春の花々の香り。
そして。
馬車の正面に現れる。
『硝子の学舎』
幾重にも重ねられた硝子構造。
巨大な学舎は陽光を反射し、まるで都市そのものが輝いているようだった。
懐かしい風景。
静かな庭園。
行き交う学生たちの声。
遠くから聞こえる鐘の音。
だが。
隣に座るミシュリーヌだけは、少しだけ表情を曇らせていた。
遠ざかる校舎を眺めた、退学の日。
あの日の記憶が、脳裏を過ぎる。
「……大丈夫ですか?」
ジュリアが小さく尋ねる。
ミシュリーヌは一瞬だけ目を丸くし、すぐにいつもの笑顔を浮かべた。
「うん。平気」
でも、その答えが、少しだけ無理をしていることくらい、ジュリアにも分かった。
◇
ダークエルフ、エイダン・ブレスラックの研究室。
扉の前へ立つ。
ノックをするより先に、中から静かな声が響いた。
「開いていますよ」
ジュリアとミシュリーヌは顔を見合わせ、研究室へ入る。
室内には、本棚と古い術式書。
窓際では、エイダンが紅茶を淹れていた。
長い黒髪。琥珀色の瞳。
相変わらず年齢不詳の男だった。
「来ると思っていました」
穏やかな声。
「……私が来ると分かっていたんですか?」
ジュリアが問い返す。
エイダンは静かにカップへ湯を注ぎながら答えた。
「ええ」
「貴女は、“気づき始めた”ようですから」
ミシュリーヌが、こっそりジュリアの後ろへ半歩下がる。
(うわ……やっぱりこの先生、苦手……)
全部見透かされている気がする。
ジュリアは真っ直ぐエイダンを見据えた。
「帝国西方海域の件」
「貴方、何か知っていますよね?」
エイダンはすぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向け、一口、紅茶を飲む。
「セイレーン。クラーケン。海霧」
静かな声。
「どれも、“古い種”です」
「……種?」
ジュリアが眉を寄せる。
「人類が国家を作るより遥か以前から存在しているものたちですよ」
エイダンは淡々と続ける。
「海には海の理がある」
「森には森の理がある」
「空も、地も同じです」
そこで一度、言葉を切った。
「ですが」
琥珀色の瞳が、ジュリアを真っ直ぐ射抜く。
「貴女たちは、その均衡を壊し始めている」
共同研究。
通信技術。
飛行術式。
白の聖堂。
文明が、急速に繋がり始めていた。
「文明の加速は、必ず“向こう側”を刺激する」
その瞬間。
ジュリアの背筋に、冷たいものが走った。
向こう側。
それは魔族だけではない。
もっと古い、世界そのものの均衡。
「……だから止めろと?」
ジュリアが問う。
エイダンは静かに首を横へ振った。
「いいえ」
「もう、止まらないでしょう。貴女たちは」
その声には、諦めにも似た響きがあった。
そして。
エイダンの視線が、ゆっくりとミシュリーヌへ向く。
ミシュリーヌの肩が、びくりと震えた。
「特に、そちらのお嬢さんは」
静寂。
「世界を書き換える側だ」
空気が変わる。
だが、敵意ではない。
ただ、あまりにも深い何かを見ている目だった。
ジュリアが静かに口を開く。
「……貴方は、一体何者なんですか?」
しばしの沈黙。
窓の外では、春風が運河を揺らしていた。
やがてエイダンは、わずかに微笑む。
「ただの、教師ですよ」
「……少なくとも、今はまだ」




