蠢き
クラウディアだけは違った。冷静。異様なほど冷静だった。
(魔族同士が割れている……。なら利用できる)
ベアトリクスはもう助からない。魔族ニ体も危険。
だが、今、この場で最優先すべきはただ一つ。
――器の確保。
セシリア。クラウディアの瞳から、完全に情が消える。
袖口。するり、と。聖針が滑り落ちた。無音。無殺気。視線すら向けない。
ただ、“結果だけを置く”ような刺突。
セシリアの背後、一直線。
だが、
――ガギィィン!!
白銀が割り込んだ。
リィンだった。
短刃が針を弾く。火花が、二人の顔を、一瞬照らす。
そのままリィンが床へ着地する。
低い姿勢。耳が逆立っていた。
「……セシリア様には、触らせません」
小さな声。なのに、獣の唸りのような殺気が、廊下一帯へ満ちていた。
クラウディアの針が、二本、三本。飛ぶ。
音もなく消える。
リィンが動く。
だが、間に合わない。
――だが、その瞬間。
針が、途中で“落ちた”。
チリンチリン。
乾いた音。
「……は?」
クラウディアの瞳が、初めて揺れる。
空中で、聖別されたはずの針が、ただの鉄釘みたいに落ちていた。
廊下の奥。
ミシュリーヌが、ぼんやり立っている。
「その術式」
淡い金髪が揺れる。エメラルドの瞳が淡く光っている。
「もう、この家では繋がらないよ」
ぞわり。
その瞬間、誰もが理解した。
――術式そのものを、世界側から切断された。
「貴様。その力は……」
ウーデが、じりっと後ずさる。
ルカは、それを見逃さなかった。振り向きざまの一閃。
ヒュン!
ウーデの頭が、体と離れ離れになった。
クラウディアも、ガクンと膝を落とした。
そのまま、床に倒れ込む。
短剣を両手に構えたまま。リィンだった。
「はれれれ?」
ヴェルミースは一瞬だけ白い目を見開き、
そして、縫い留められた唇から舌をシュルリと出すと、不気味に笑う。
「ひひひひ……これは、分が悪くなりましたね」
そう呟くと、ザラッ。
一瞬にして大量のウネウネとした蟲に変化した。
蟲。
蟲。蟲。蠢く。
壁の裂け目。
床板の隙間。
燭台の影。
あらゆる“暗がり”へ、黒い群れが染み込んでいく。
ぞわぞわぞわぞわ。
耳障りな羽音。細い脚が石床を擦る音。
リィンの毛が、ぶわりと逆立った。
「きもちわるいぃぃぃ!!」
天井へ張り付きながら叫ぶ。
ルカは大剣を構えたまま、低く舌打ちした。
「斬っても意味がないタイプか……!」
実際、さきほど切り裂いた蟲は、すぐまた蠢いて動き出している。
物理的破壊では止まらない。
ヴェルミースの笑い声だけが、廊下中から響いた。
『ひひひひ……』
『怖いですねぇ』
『嫌ですねぇ』
『だから私は正面戦闘が嫌いなんですよぉ』
声の位置が定まらない。
壁から。
床から。
天井から。
屋敷そのものが喋っているようだった。
セシリアが小さく息を呑む。
「これ……まずい、です……」
蟲達が、ゆっくりと円を描くように広がっていた。
逃げ道を塞ぐ動き。
しかも、黒い蟲が通った場所から、じわり、と魔力が腐っていく。
術式が乱れる。灯りが落ちる。空気そのものが濁っていく。
「毒か」
ルカが低く言う。
『ええ。“世界”への毒です』
くつくつ。
笑う声。
『術式』
『結界』
『加護』
『祈り』
『そういう綺麗なものを、腐らせるのが得意でしてねぇ』
黒泥が、なおも床を侵食していく。
じゅう、と。
石材そのものが腐っていた。
ルカが眉を顰める。
「触れるな」
だが。
セシリアが、震える足で一歩前へ出た。
「……セシリア様!」
リィンが止めようとする。
それでも、セシリアは、ゆっくり膝をついた。
祈るように、両手を重ねる。
「還ってください」
小さな声。
ただそれだけ。
瞬間。
淡い光が、
黒泥へ静かに触れた。
穏やかだった。
腐っていた魔力が、ゆっくり解けていく。
濁った空気が澄む。
軋んでいた屋敷が、静かに呼吸を取り戻していく。
ヴェルミースの残滓が、初めて苦痛の声を漏らした。
『や、め――』
「もう、大丈夫です」
セシリアの声は、泣きそうなくらい優しかった。
「ここは、あなたの居場所ではありません」
その瞬間。
黒泥が、さらさらと灰になって消えた。
静寂。
窓の外。
遠く地平線の向こう。
空が、白み始めていた。
夜が終わる。
けれど。
一匹の羽虫だけが、
誰にも気づかれぬまま、
静かに屋敷を飛び去っていった。




