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宵闇の影

 アークライト邸。夜。

 静まり返った廊下に、燭台の火だけが揺れていた。


 黒。そこに、いた。

 いつからいたのか分からない。

 細い。痩せた影。まるで夜そのものが人型を取ったように、衣の隙間から闇が滲み出している。


「……なるほど」


 ウーデ・ニクスが、静かに呟いた。


「器は、ここですか」


 次の瞬間。ルカが踏み込む。

 爆音。石床が砕け、白銀の剣閃が廊下を薙いだ。

 だが、斬った感触がない。闇が煙のように散り、剣先をすり抜ける。


「……!」

「速いですね」


 声だけが、別方向から響いた。


 リィンの耳がぴくりと震える。

(どこ――!?)


 匂いがしない。呼吸も、足音も聞こえない。なのに、“いる”。

 気配だけが、廊下全体へ薄く染み込んでいた。


 その時、廊下の奥から、


 ――かつん。


 乾いた靴音。


「へぇぇぇ?」


 間延びした女の声。黒衣の修道女が、気怠げに立っていた。

 銀髪。細い笑み。指先には、糸のように細い銀線。


 ベアトリクス・ザイル。


 その後ろから、もう一人。純白の修道服。感情を削ぎ落としたような瞳。


 クラウディア・ヴァイス。


「なんで、もう、戦ってるわけぇぇ?」


 ベアトリクスがわざとらしく、困ったように首を傾げる。


「もしかしてぇ、――――同業者ぁ?」


 銀線が、音もなく伸びた。空気すら裂かず、ただ“そこにあった”。


「あれ、殺していい?」

「違います。ベアトリクス」


 クラウディアが静かに訂正する。

「あれは魔族です」


 沈黙。


 ベアトリクスの笑みが止まった。

「……は?」


 一方。


 ウーデ・ニクスもまた、

 ゆっくりと二人を見ていた。


「…………聖堂」

 低い声。


 その瞬間。空気が変わった。

 互いに理解する。予定にない、想定外の鉢合わせ。


 そして――最悪の事態。

 聖堂は、セシリアを狙っている。

 魔族も、セシリアを探している。

 つまり、目的地が同じだ。


 ルカの剣先が、ゆっくりと動く。

 視線は魔族へ。

 だが意識の半分は、後方の異端審問官へ向いていた。


(……最悪だな)


 どちらも敵だが、どちらを先に斬るべきかが分からない。


 リィンもまた、じり、と一歩だけセシリアの側へ寄る。

 尾が膨らんでいた。


 その時、クラウディアが、静かに口を開いた。


「意外ですね」


 ウーデの闇が、わずかに揺れる。


「貴方方調停派は、まだ表へ出てこないと思っていました」

「……主戦派が騒がしいので」


 淡々と返る声。


「掃除に来ただけですよ」

「へぇぇ……?」


 ベアトリクスが細めた目で笑う。


「魔族にも、"派閥"とかあるんだぁ」


 銀線が、するりと床を這った。

 その瞬間、ウーデの周囲の闇が、ずるりと形を変える。


 リィンの本能が警鐘を鳴らした。

(まずい)


 直後。

 ――廊下の魔力が、“消えた”。


 ウーデの瞳が開く。術式が、編めない。

 魔力の流れそのものが、夜の中へ沈んでいく。


 その異様さに、クラウディアの瞳が、初めてわずかに細められた。


「……世界干渉?」


 そして、研究棟の方向から、ミシュリーヌの、ぽつりとした声が響いた。


「もう。だめだよ。そういうの。"臭い"から」


 次の瞬間。

 邸宅全体が、微かに軋んだ。


 誰も動かない。そして、動けなかった。


 世界そのものへ指が掛けられているような、不快な静寂。


 その中で、リィンの耳だけが、ぴくりと震えた。


(……まだいる)


 だが、見つからない。

 匂いがない。熱がない。殺気すら薄い。

 なのに、“視線だけ”が感じる。


 天井裏。梁の上、闇へ溶けるように、一人の男が張り付いていた。

 痩せ細った身体。濁った眼。泥のような外套。


 ヴェルミース。


 彼は笑うでもなく、ただ静かに観察していた。

(黒が止められた)


 ぎょろり、と目が動く。

(聖堂もいる)


 さらに、この感覚。

(……世界干渉型。ひひひ……)


 ぞくり。背筋が粟立つ。だが。ヴェルミースは逃げない。むしろ、嬉しそうだった。

(いい……混ざってる。………強いのが、いっぱい死ぬ)


 彼は最初から、戦うつもりなど無かった。

 主戦派も、調停派も、聖堂も、人間も。

 全部、最後に弱ったところを刺せばいい。それだけだ。

 だから、ヴェルミースは、じっと待っている――“最初に崩れる一人”を。


 ルカの剣が走った。最優先は、魔族。


 人間相手ならまだ交渉の余地がある。だが魔族は違う。

 “セシリアを確保する”ためなら、街一つ静かに消せる連中だ。


 白銀の斬撃。ウーデの右肩が裂けた。


「がっ……ふっ……!!」


 だが浅い。斬った感触が、途中で消えた。


 同時に、リィンが消える。

 狙いはベアトリクス。


 糸。あれだけは、セシリアへ届かせてはいけない。


 銀閃。


 ベアトリクスの左手首が宙を舞った。


「あ゛っ!?」


 何が起こったのか理解できない顔。

 遅れて血が噴き出す。


 クラウディアの眉が初めて顰められた。


(……速い)


 その瞬間、背後から風。

 反射で首を逸らす。


 前髪が一房、舞った。


 ――キィン!!


 袖から滑り出した聖針が、白銀の短刃を弾く。

 リィンが、いつの間にかそこにいた。


「あが、がああぁぁぁぁぁ!!!」


 絶叫。


 ベアトリクスだった。

 だが、おかしい。黒衣の修道服の下。肉が、蠢いていた。


 ぐにゃり。


 骨格そのものが捻じ曲がる。

 ベアトリクスは既に白目を剥いている。

 にもかかわらず、糸で吊られた人形のように、ゆっくり立ち上がった。


 ズルッ――


 落ちたはずの左手首が、床を這う。

 断面から伸びた黒い粘液が、触手のように蠢き。

 ネチャリ、と、元の位置へ吸い付いた。


 その場の全員が沈黙した。

 誰も、理解が追いついていない。


 ベアトリクスの口から、黒い液体が垂れる。

 指が痙攣し。彼女の首が、不自然な角度でぐるりと回った。


「ぁ、ぁぁ……」


 もう声帯の形をしていない。

 その背後、壁際に、いつの間にか立っていた。


 ツギハギだらけの肌。黒衣。縫い合わせたような口元。

 ヴェルミースの白い目が、にやり、と細められる。


「せっかく暴れられるんだから」


 ぐちゃり。


 ベアトリクスの背中から黒い棘が生えた。


「使わないと、勿体ないでしょう?」


 クラウディアの温度が消えた。


 ベアトリクスだったモノの、指が動く。


 瞬間、銀線が弾ける。

 シュルッ。

 ドア、床、天井、何もかもが、一瞬で細切れになる。


 ルカが咄嗟に大剣で受ける。

 だが、肩や肘、太ももから鮮血が飛ぶ。

 リィンも壁や天井に飛び瞬間的に避ける。


「……っ!!」


「ヴェルミース!!貴様はっ!!」


 床。黒い染みのようなものが広がると、あちこちが裂けたウーデが実体化する。


「ひひひひ……」


 ヴェルミースは縫い留められた唇から舌をシュルリと出すと、不気味に笑った。

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