崩壊
アストライア王国は、もはや王一人で統治できる国家ではなかった。
物流は商会が握り、政務は上位貴族が分割し、軍事は辺境貴族が担い、宗教が社会秩序を補っている。
王とは、その全てを辛うじて繋ぎ止める、“均衡の象徴”に過ぎない。
ヨーゼフ五世でさえ、その父は元傍流。
旧王家を簒奪した王と陰口を叩かれ続けた。
そして王位を継いだヨーゼフ本人もまた、生来病弱で、ついに正妃も後継も定めぬまま崩御した。
――空位。
その瞬間、王国を支えていた均衡が崩れる。
誰が次代の王権を担うのか。
誰が中央を制するのか。
誰が軍を従え、誰が物流を握り、誰が宗教を支配するのか。
均衡国家において、王とは単なる支配者ではない。
各勢力が互いを殺し合わないために置かれた、“最後の杭”だった。
その杭が抜けた今。
王国中の諸侯が、静かに剣へ手を伸ばし始めていた。
◇
マントノン公爵邸。夜。
重厚な執務室の窓から、王都の灯りが見えていた。
ヴァレリアン・ド・マントノンは、静かに手紙を読んでいた。
アークライト家からの返書。
短い。丁寧。そして、曖昧。
――明確な拒絶だった。
「……ファルケンリート、だと?」
低い声。
側近が息を呑む。
「はい。アークライト嬢は先日、北方山岳地帯へ。ファルケンリート家当主エルチェとの接触が確認されています」
沈黙。
ヴァレリアンは窓の外を見た。
王が死んだ。
今こそ、地方貴族を束ね、新たな王権を築く時だった。
脳裏に浮かぶのは、あの夜会での蒼い瞳。
『……近いです』
『あと香水が強い』
さらりと足を踏みつけ、
腕を払い除け、
何事もなかったように去っていった令嬢。
普通の令嬢なら、王族の血を引く公爵家嫡男からの誘いを断れない。
だが彼女は違った。
媚びない。恐れない。必要ならば、王権すら盤面の一つとして見る。
ぐしゃり、と。
手紙が音を立てる。
「私なら、この国をまとめられる」
低く押し殺した声。
ヴァランタンの旧体制では遅い。
ベルンシュタインの商業偏重では脆い。
地方貴族の寄り合いでは、いずれ魔族に食い破られる。
だからこそ、中央集権による新王権が必要だった。
その中核に据えるなら、ジュリア・アークライト以上の存在はいない。
――そう、本気で考えていた。
だがジュリアは、その手を取らなかった。代わりに選んだのは、国境の番犬――ファルケンリート。
つまり彼女は、誰かを王にする側ではなく、“誰にも王国を壊させない側”へ立ったのだ。
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重苦しい会議室。
窓の外では冬の雨が降っていた。
「僕はまだ動くべきではないと思う」
長男エーリック・ベルンシュヴァイクが静かに言った。
「急ぐな、ゲラルト」
整った声音。理性。貴族らしい気品。彼は最後まで、ベルンシュヴァイクであろうとしていた。
だが。
「兄上では、この乱世を生き残れない」
弟ゲラルトは即座に切り捨てた。
「王が死んだんだ。もう始まってる」
机へ叩きつけられる報告書。
地方軍閥の離反、聖堂騎士団との接触、傭兵契約、兵糧移送。
全てが、すでに“戦後”を見据えて動いていた。
「国家は、動くものに従う」
ゲラルトが低く言う。
「正しいだけでは、人は守れない」
エーリックの眉がわずかに動く。
「……だから武力で支配するのか?」
「違う」
ゲラルトは冷たく返した。
「支配される前に、握るんだ」
エーリックは静かに言った。
「民を切り捨てる国家など、守る意味があるのか?」
沈黙。
長い沈黙。
そして。
「……それでも」
ゲラルトは背を向けた。
「俺は俺のやり方で進む」
扉が閉まる。
その瞬間。
ベルンシュヴァイク家は、静かに二つへ割れた。
後日、ベルンシュヴァイク領を望む地平線に複数の旗。
地方貴族の軍旗、そして聖堂貴族の旗。
その中心に、ゲラルトの旗があった。
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ジュリアは報告書から目を離し、窓の外を見る。
『エーリック・ベルンシュヴァイクが、グランヴァルド家へ亡命した』
報告書にはそう記されている。
単なる家督争いではない。
“正統性国家”と、“実効支配国家”の分裂。
そして、この内乱の本質はそこではない。
──問題は、それが「どちらが正しいか」を巡る争いであるということだった。
ジュリアの指先が、紙の上でわずかに止まる。
(これは……長引く)
妥協しないもの同士は、必ず、国家の形そのものを壊す。
窓の外では、冷たい冬雨が王都を濡らし続けていた。
──ドゴォォォン!!
鼓膜を破らんばかりの凄まじい大爆音。
次の瞬間、頑強なアークライト侯爵邸の屋敷全体が、地震のようにガタガタと激しく揺れ動いた。
「何ごとですか!?」
ジュリアは報告書を机に叩きつけ、即座に立ち上がった。
感情より先に、状況整理が走る。
(爆発位置は研究棟。距離は許容範囲。二次被害の可能性は低い)
思考はすでに“対策”へ移っている。
研究棟へ駆け込むと、壁の一部が綺麗さっぱり消し飛んでいた。
黒煙。
崩れ落ちる石材。
焦げた魔導結界の残滓。
「ジュリア様!いったい何があったんですか!!」
「襲撃か?」
駆け寄ってくる侍女服のリィンとルカ。
そして。
「ゲホッ、ゴホッ。だから言ったじゃない!」
「……理論値から0.7%ほど出力が上振れしました」
瓦礫の中から現れる、煤だらけのミシュリーヌとエリザ。
「……誤差で壁を吹き飛ばさないでください」
ジュリアの声は静かだった。
王国は内乱寸前。
貴族は分裂。
魔族は動き始めている。
なのに。
(なぜ我が家は平常運転なんですか……)




