夜露に消える
「アークライト家所属、リィンです」
ぺこり、と小さく頭を下げる。
だが。
執務室にいた側近たちは誰一人、その可愛らしい仕草に騙されなかった。
気配が薄すぎる。
いつからいたのか分からない。
護衛を完全に抜いてここまで来ている時点で異常だった。
「相変わらず、とんでもない潜入技術ですね」
「ありがとうございます」
「褒めてません」
リィンの尻尾が少しだけ揺れる。
「それで」
マクシミリアンの声が低くなる。
「アークライト家は、何を掴んでいます?」
「ヴィリバルト・カルヴェインは、まだ港を取っていません。ですが、今夜中に港湾区画の掌握を開始します」
「やはり」
「狙いは三つ」
リィンが淡々と指を折る。
「物流」
「資金」
「帝国交易路」
「港を押さえれば、ベルンシュタイン家の心臓を止められる」
「ええ」
短い沈黙。
そしてリィンは、静かに続けた。
「なので」
「先に逃がしてください」
「……は?」
「船です」
リィンの瞳が真っ直ぐ港を向く。
「商船」
「輸送船」
「港湾技師」
「船大工」
「積荷管理人」
「全部です」
側近が目を見開く。
「ま、待ってください! 港を捨てると!?」
「違います」
リィンが即答する。
「“空にする”んです」
マクシミリアンの目が細くなった。
なるほど、と。
「船だけ残っていても意味はありません」
リィンが続ける。
「航路を知る船長」
「積荷を管理する商人」
「荷役人夫」
「港湾魔導技師」
「物流は、人で成り立っています。港そのものを奪われても、“流れ”を持っていかれなければ再建できます」
静かな声。
だが。
完全に戦時思考だった。
「……ジュリア様ですか?」
「はい」
リィンが頷く。
「『港は焼かれても戻せる。でも人材は戻らない』と」
マクシミリアンは、思わず乾いた笑みを漏らした。
「本当に十五歳ですか、あの方」
「最近、エドワード様も時々そう言います」
「でしょうね」
窓の外。
港町には、まだいつも通りの灯りが残っている。
だがもう遅い。
内乱は始まった。
ならば。
奪われる前に、流れそのものを逃がす。
「……分かりました」
マクシミリアンが立ち上がる。
「西港の商会へ緊急伝令」
「帝国便を含め、全船を即時出航」
「積荷より人員優先」
側近が息を呑む。
「旦那様、本当に港を放棄するのですか!?」
「放棄じゃありません」
マクシミリアンは静かに言った。
「“残さない”だけです」
そしてリィンを見る。
「アークライト家は、どこまで先を見ているんです?」
リィンは少しだけ困ったように耳を揺らした。
「ジュリア様は」
金色の瞳が、ジュリアの言葉を思い出すようにゆっくり瞬く。
「『戦争になるなら、なおさら物流を止めてはいけない』って」
数時間後。
ヴィリバルト・カルヴェイン率いる武装騎士団が、ベルンシュタイン港へ雪崩れ込む。
「急げ!! 港湾区画を制圧しろ!!」
騎士たちが倉庫街を占拠していく。
だが。
「……なんだ、これは」
ヴィリバルトの顔が歪んだ。
静かだった。
あまりにも。
巨大港湾都市のはずなのに。
船が、いない。
荷役人夫も。
商人も。
船乗りも。
港湾技師も。
誰一人残っていない。
あるのは。空になった倉庫。
打ち捨てられた縄。
そして、潮風だけ。
ヴィリバルトが低く呟く。
「……逃がしたのか」
その頃にはもう。
ベルンシュタイン家の船団は、
夜霧の海を抜け、
各地の秘密港へ散開を始めていた。




