功績と褒章
眼前にそびえ立つのは、純白の、あまりにも美しく荘厳な大聖堂だった。
天を突き刺すかのように整然と立ち並ぶいくつもの尖塔。その中心には、数万人を一度に収容できるという、白亜の巨岩を削り出して作られた巨大な堂宇が鎮座している。
周囲の広場には、大陸全土からの巡礼で集まった人々の、熱狂と活気に満ちた営みが地平線の彼方まで広がっていた。彼らが捧げる神聖な祈りの歌は、地鳴りのような地響きとなって、ルカたちの乗る馬車の頑丈な木壁を震わせ、車内にまで絶え間なく響き渡ってくる。
白大理石の正門へ着くと、二人は促されるように馬車から降ろされた。
見上げるほどに天井の高い、広大なピロティ。神話の神々や歴代の聖人たちが緻密に彫り込まれた美しい円柱が、視界の終わりまで幾重にも整然と並び、見る者を圧倒する権威を放っている。
「待て、貴様はこちらだ」
大聖堂へ足を踏み入れようとした瞬間、周囲の空気が一変した。
磨き抜かれた漆黒の甲冑を纏った、本山の精鋭騎士たちが、冷徹な足音を響かせてルカの周囲を包囲する。
彼らはセシリアの進路を遮るように壁を作り、ルカだけを本殿とは違う、陰気な離れの部屋へと連行しようとした。
「私は準聖女様の専属護衛だ。公務である以上、その指示は受け入れられん」
「だまれ!下賤の騎士が!ここをどこぞの地方神殿と心得ている、身の程を知れ!」
「……今回の召喚は、オアシスの街を救ったセシリア様への報奨、およびその実務報告のはずだろう。ならば、現場のすべてを知る私が同席してはならん理由がどこにある」
「ぐっ……それは」
本山の騎士たちが言葉に詰まる。
剣呑な空気がピロティに行き渡り、緊張が極限に達した、その時だった。
「まあ、良いではありませんか。本日は我が聖教国にとって、これ以上ないめでたい日なのです。その忠義に免じて、通してあげなさい」
背後から響いたのは、どこかねっとりとした高い声だった。
振り返れば、深紅の豪奢な法衣を纏った枢機卿らしき男が、数人もの従属聖職者を従えて歩み寄ってくる。
「……はっ。仰せのままに」
本山の騎士たちが一斉に居住まいを正し、道を開けた。
張り詰めた空気のまま、騎士たちに監視されるようにして二人が通されたのは、重厚な高級木材で設えられた応接室だった。
セシリアが部屋中央のふかふかとした、しかしどこか落ち着かない豪奢なソファへと座らされる。
それを見届けたルカは、静かにその後ろの壁際へと直立し、周囲への警戒を怠らない。
入ってきた枢機卿は、卓を挟んで座るなり、感情の失せた目で今日の儀式についての流れを淡々と説明し始めた。
「いいですか、セシリア。教皇様がおっしゃる言葉には、儀礼のいかんにかかわらず、全て『はい』とだけ答えなさい。それが、神の光を地上に体現する者の務めです」
「は、はい。……わかりました」
セシリアが小さく頷く。
「では、頼みましたよ」
最後にそれだけを告げると、枢機卿の冷徹な視線が、値踏みするようにチラリと壁際のルカを捉えた。だが、すぐに興味を失ったように視線を逸らし、男は部屋を後にした。
やがて案内された先は、言葉を失うほどにいびつな空間だった。
天井こそ遥か高くに存在しているが、床面はそれほど広くはない、すり鉢状の円形の間。
二人が立たされた中央の底舞台を囲むように、周囲にはぐるりと高い仕切り壁がそびえ立ち、その遙か上層から、底にいる人間を見下ろすように無数の傍聴席が段々畑のように並んでいる。
それは、祝福を与える謁見の間などでは決してない。罪人を吊るし上げるための、――『異端審問所』そのものの構造であった。
「……なんだ、ここは?」
ルカが不快そうに声を漏らした、その瞬間。
――カァァァァァン……。
重く引きずり込まれるような鐘の音が、円形のホール内に厳かに響き渡った。
それを合図に、上層の席へと、一様に冷徹な表情をした法衣姿の聖職者たちが続々と入場し、瞬く間に席を埋め尽くしていく。見下ろす数百の視線が、底に立つ二人へと突き刺さる。
『――大教皇猊下、ご入場!!』
割れんばかりの、ひときわ大きな先触れの声。
ザッと、上層の聖職者達が一斉に深く頭を下げた。劇的な静寂が空間を支配する中、底舞台の二人もまた、ルールに従って硬い石畳に片膝をついた。
極限の静寂。
わずかな、衣の擦れる音だけが近づいてくる。
入ってきたのは、純白と金の法衣に身を包んだ、最高権威たる大教皇。
――そして、その後ろにぴったりと影のように従う、もう一人の男。顔を不気味な白銀の仮面で覆った、謎の人物だった。
張り詰めた数秒の沈黙の後、玉座から声が降ってきた。
「準聖女、セシリアよ。顔を上げなさい」
老いた、しかし妙に柔らかな声。だが、すり鉢状の構造によって反響したその音は、逃げ場のない威厳を伴って響く。
「……はい」
セシリアが緊張で身を強ばらせながら、顔を上げた。大教皇はゆっくりと言葉を続ける。
「今回の地方での務め、そしてオアシスの街で起こしたという大いなる奇跡。……よくぞやり遂げましたね。神の光は、あなたと共にあります」
「はい。もったいなきお言葉、大変光栄でございます」
「その大いなる行いを報いて、今後は地方の巡礼を免じ、この大聖堂の直轄にて務めを果たすこととします。よろしいですね」
「はい……」
セシリアの身柄の完全な囲い込み。それを確認した大教皇は、次に、その冷たい視線をその後ろの壁際に跪くルカへと移した。
「聖堂騎士、ルカよ」
「はっ」
「あなたもまた、僻地における腐敗した地方聖堂貴族の悪行を暴き、ジマタイトの汚職を正した。その忠義と武勲を報います。その類い稀なる腕を見込み……我が聖教国の西部国境地域、その地方管区長の地位を授けましょう」
「……っ」
ルカの奥歯が、無意識のうちに軋んだ。即座に言葉を返すことができない。
西部国境地域――そこは、未だ魔物の襲撃が絶えない最前線の荒野であり、同時に本山からの補給も届かない最果ての地だ。
名目こそ栄転だが、その実態は完全なる左遷。そして何より、それを拝命すれば、セシリアと完全に離れ離れにされることを意味していた。
「……よろしいですね、聖堂騎士ルカ」
促す教皇の声。しばしの、息の詰まるような沈黙がホールを支配する。
ルカが覚悟を決め、言葉を発しようとした、その時だった。
「――恐れながら、教皇猊下」
鈴を転がすような、しかし明確な意志を持ったセシリアの小さな声が、円形の間にはっきりと響いた。
大教皇の眉が僅かに上がる。
「どうされましたか? セシリア」
「ルカを……彼を、これからも私の専属護衛のままとすることは、できないのでございましょうか? 彼は私の命の恩人であり、誰よりも民を想う正しい騎士です。どうか……」
その瞬間、ホールの空気がざわりと目に見えて低く、冷たく凍りついた。
大教皇の言葉は、この国における神の代弁であり、絶対。それを遮り、あまつさえ異議を唱えることなど、例え聖女候補であっても、枢機卿であっても、決して許されない絶対の禁忌だった。
上層の聖職者たちが不敬だと息を呑む中、教皇の真後ろに佇んでいた仮面の男が、静かに教皇の耳元へと近づき、何かを小さく耳打ちした。
それを聞いた大教皇は、深く深く頷く。
「……なるほど。ならば、お前から説明しなさい」
仮面の男――ファロンが、衣服を揺らすことなく、静かに一歩前へ出た。
「準聖女セシリア」
仮面の奥から響いたのは、低く、驚くほど穏やかな声だった。
「貴女の起こした奇跡は、間違いなく本物です」
その一言に、場内が再び別の意味でざわついた。
奇跡が、本物。その事実を、大聖堂のまさに中心で、最高上層部が公然と認めたのだ。
セシリアは戸惑ったように長い睫毛を揺らし、目を瞬かせた。
「……ありがとうございます」
「ですが同時に、あまりにも大きすぎました」
「え……?」
ファロンは淡々と続ける。
「人は、一度救われれば、必ず次を望みます」
「病を治せば、次は飢えも救えと言うでしょう」
「水を浄化すれば、枯れた土地も蘇らせろと言うでしょう」
「十人を救えば百人が集まり、百人を救えば国家が跪く」
静かな声。
だがその言葉は、妙に現実的だった。
「やがて国家そのものが、貴女の奇跡へ依存するようになる」
「それはもはや、信仰ではありません」
「……機能です」
セシリアの小さな肩が、ぴくりと震えた。
ファロンはなおも続ける。
「凶作が起きれば、雨を降らせろと言われる」
「疫病が流行れば、国境を越えて歩かされる」
「戦争が起これば、兵士を癒やせと言われる」
「そして――」
僅かな間。
「誰かを救えなかった日」
仮面の奥の視線が、真っ直ぐセシリアへ向けられる。
「今度は貴女自身が、“なぜ救わなかった”と責められる」
ホールが静まり返る。
その空気を最初に破ったのは、ルカだった。
「……だから引き離すのか」
低い声。
「準聖女を、大聖堂の管理下へ置くために」
周囲の聖職者たちの顔が険しくなる。
だがファロンだけは、まるで感情を動かさなかった。
「聖堂騎士ルカよ。貴方は優秀です。地方の実情を知り、民を守ろうとする意思もある」
声が、一層低くなる。
「だからこそ、準聖女の側に立ち続ければ、いずれ貴方自身も巨大な影響力を持つ」
ルカの目が細まる。
「それの、何が悪い」
「力は人を狂わせるからです」
即答だった。
その声音には、不思議なほど実感があった。
「貴女方はまだ知らない」
ファロンは静かに言う。
「“本物の祈り”が、この世界に何を齎すのかを」
ルカの背筋に、ぞくりとした悪寒が走った。
この男。
ただの聖堂側の人間ではない。
もっと古い何かを知っている。
「……大きすぎる祈りは」
ファロンが、ぽつりと呟く。
「時に、世界そのものを歪めるのです」
その瞬間、
仮面の中、琥珀色の瞳がルカを射抜いた気がした。
ルカは確信した。
この男は、“過去”を知っている。
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円形の間を後にし、控室へと戻る果てしない回廊の途中だった。
張り詰めた空気のなか、案内役の聖職者が、二人の行く手を阻むように冷酷に立ち塞がった。
「準聖女様はこちらへ」
セシリアが、弾かれたように不安げな瞳でルカを振り返る。
「……ルカ様?」
ルカが即座にその細い手を掴み、引き戻そうとした瞬間――
周囲を囲んでいた本山の精鋭騎士たちが、一斉にガシャリと重々しい金属音を響かせ、明確な臨戦態勢で大剣の柄へと手をかけた。
包囲網の先頭に立つ騎士が、ルカにしか聞こえないほどの極小の声で、冷たく囁いた。
「抵抗すれば、準聖女様への反逆と見なす」
数秒の張り詰めた膠着の後……ルカは静かに、剣帯からその手を離した。
案内されたのは、息を呑むほどに広い部屋だった。
足が深く沈み込むような分厚い高級絨毯、精緻な金細工が施された調度品や、最高級のシルクで設えられた大きな寝具。
それはまるで、おとぎ話に登場する高貴な姫君が住まうような、贅を尽くした空間そのものだった。
――だが。
ふと視線を向けた美しい窓の向こうには、外の景色を幾重にも分断する、無骨で頑丈な太い鉄格子。
カツカツと、後ろから硬い足音が響く。
振り返れば、いつの間にか部屋の入り口に、一切の感情を削ぎ落としたような顔の女聖職者が佇んでいた。
手には、刻印が施された法記帳を携えている。
「本山直轄、異端審問官のマヌエーラです。教皇猊下およびファロン様の命により、本日から私が貴女の管理・同行を行うこととなりました」
「異端? ……あの、わたし、悪いことをしたんですか?」
セシリアは怯えたように自身の胸元を抑え、尋ねた。自分はただ、苦しむ人々のために祈っただけなのに、なぜ罪人を裁く者が現れるのか。
だが、マヌエーラはその問いには一切答えず、ただ冷徹な声で、これからの『公務』を淡々と読み上げ始めた。
「これより、許可なき外出は一切禁止」
「外部の人間、およびこれまでの関係者との面会・接触の全面禁止」
「日常における全発言の記録、および思想検査の実施」
「そして――大聖堂が指定した場所以外での、あらゆる『祈り』の使用制限」
突きつけられる言葉の数々に、セシリアは芯から身体を戦慄させた。
これは、功績を称えられた準聖女への待遇などではない。公務という名の、完全な"隔離"だった。
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その日の夜。
与えられた豪奢な寝台の上で、セシリアは横になったまま、一睡もできずにいた。
窓の鉄格子の隙間から差し込む月光が、冷たく部屋の床を照らしている。
ルカは無事だろうか。もう二度と、あの優しい騎士に会うことはできないのだろうか。
絶望が波のように押し寄せ、涙が溢れそうになった、その時。
静まり返った部屋の外で、微かに、何かが擦れるような奇妙な物音が聞こえた。
――ガチャリ。
深夜、絶対に開くはずのない強固な二重結界の施された扉が、音もなく、滑らかに開かれる。
(だ、誰……!?)
セシリアは思わず寝具で顔を覆う。
気配が、ゆっくりと、近づいてくる。
そして、一拍の静寂。
「――セシリア。起きろ、逃げるぞ」
寝具の隙間から恐る恐る覗いた、薄暗い闇の中。
そこには、彼女が最も見慣れた、頼もしい聖騎士ルカの顔があった。




