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原初の祈り

 その夜、ルカは単身、採掘場へと向かった。

 もう、姿を隠す気など毛頭なかった。白銀の甲冑が、月光を浴びて冷たく鈍く輝く。


「おい、何奴だ――ッ!?」


 静まり返った暗闇を突いて、上流の採掘場に鋭い怒声が響いた。

 だが、その声は肉と骨が潰れる重い鈍音によって、即座にかき消される。


 ルカの動きには、一切の無駄がなかった。

 大剣の重い腹で私兵の顎を正確に打ち抜き、一撃で昏倒させる。

 背後から無謀にも斬りかかってきたもう一人の腕を掴み、そのまま容赦なく岩壁へと叩きつけた。


「ひっ、せ、聖堂の騎士……!? なぜここに……っ」

「静かにしろ。実務の邪魔だ」


 ルカは冷淡に言い放ち、手際よく私兵たちの武器を足で蹴り飛ばしていく。

 怒りに任せた虐殺などしない。


 彼の目的は、これ以上下流の人間が死なないための『実務』をただ淡々と遂行することだけだ。


 ルカは躊躇なく、採掘場の中心に組まれていた木製の巨大な揚水設備へと歩み寄った。

 大剣を大振りに一閃する。

 凄まじい肉体質量を乗せた一撃が頑強な支柱を根元からへし折り、ジマタイト鉱石を削り出していた機構が、凄まじい轟音を立てて崩壊した。


 オアシスへと注ぎ込んでいた、濁った廃液の流出が、ピタリと止まる。


 奥の豪華な天幕から、騒ぎを聞きつけた聖堂貴族が寝間着姿のまま飛び出してきた。

 そして、傲然と立つルカの顔を見るなり、顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。


「な、何をする! ここがどこの領地か分かっているのか! 万死に値するぞ!」


 ルカは無言で歩み寄り、貴族の胸ぐらを片手で容赦なく掴み上げた。


「……あ、あがっ!?」

「帳簿と、採掘の許可証を出せ。あんたが上層部の誰と繋がっているかもな」


 男は、息の詰まるような恐怖の中で、ルカの襟元の階級章を怯えた目でちらりと見た。


「ひ、卑しい奴め……! 貴様、ただの下級騎士の分際で、なんたる不敬だ! 神罰が下ると思――」

「神罰だと?」


 ルカの黒い瞳が、極低温の殺気を孕んで貴族を正面から射抜いた。


「アストライア王国をはじめとする他国の魔術研究じゃ、黒の力は『白色魔力の反転現象』だととうに証明されてる」


 みしり、とルカの手の中で貴族の高級な衣服が悲鳴を上げる。


「あんたらが神罰だと民を怯えさせているものは、ただの人災だ」


 ルカの指先が、さらに力を強めて男の喉を圧迫する。


「……神の威光を、自分たちの汚い利権の隠れ蓑にするな。帳簿を出せ。今すぐだ」

「ひぃ……っ!!」


 貴族は恐怖に顔を醜く痙攣させ、懐から血相を変えて書類の束を差し出した。

 それを手際よく分分捕り、貴族の体を地面へと無造作に放り出す。


 原因は断った。証拠も押さえた。だが――。

 ルカは岩山の上から、眼下に広がる暗いオアシスの町を見下ろした。


 廃液の流入を止めたところで、すでに地下水も、オアシスの土壌も、猛毒に深く汚染されている。

 部分的な現象の抽出を書き換えるだけの『術式』では、この毒を分解することはできても、死にかけた大地そのものを蘇生させることはできない。

 それでは世界は戻らないのだ。


(……後は頼んだぞ、セシリア)


 ルカは心の中で、小さく未来の聖女の名を呼んだ。


----------------------


 同じ頃、下流の孤児院。

 セシリアは、激しい息を吐きながら、なおも冷たいベッドの横で膝をついていた。


「おねがい……おねがい、ルクス様……みんなを、たすけて……」


 何度も何度も奇跡の出力を絞り出した彼女の身体は、とっくに限界を迎えていた。

 視界が白くかすみ、指先が凍りつくように冷たくなっていく。

 それでも、目の前で苦しむ小さな子供の手を離すわけにはいかなかった。


「準聖女様、もうおやめください! これ以上はあなた様の命が持ちません……!」


 シスターが涙ながらにその細い体を抱き止めるが、セシリアは頑なに首を振った。


 一時しのぎの『治癒』では駄目なのだ。

 この子たちが生きるための水が、この町を包む大地そのものが、苦しんで悲鳴を上げている。

 もっと根本から、この世界そのものを――。


「……応えて」


 セシリアはそっと目を閉じ、胸の奥にある、最も純粋な願いを呼び覚ました。


 利権も、政治も、神殿の格式も何も関係ない。

 ただ、目の前の命が生きてほしい。

 それは、人類が原初、世界に向けて雨を、光を、大地の恵みを心から願ったのと同じ。


 ―― 一切の術式を排した、剥き出しの『祈り』だった。


 世界を根底から支える大樹へと、彼女の無垢な心が、深く、深く繋がっていく。


「世界を、癒してください」


 刹那。

 セシリアの身体から、かつてないほどの、優しく、そして暴力的なまでの純白の光が溢れ出した。


-------------------------


「――セシリア」


 遠く離れた岩山の上で、ルカは小さく声を漏らした。


 夜の帳に包まれていた暗いオアシスの町から、一条の巨大な光の柱が、天を衝くように真っ直ぐに立ち上るのが見えた。


 それは他国の魔導師が使うような、緻密で効率的な『術式』の光ではない。

 もっと圧倒的で、暖かく、世界そのものを丸ごと祝福するような――原初の祈りの輝き。


 純白の光の波が、同心円状にオアシス全体へと広がっていく。

 濁っていた水面がまたたく間に美しく澄み渡り、鉄臭い匂いが消え去り、ひび割れた土壌に瑞々しい潤いが戻っていくのが、遠目からでもはっきりと分かった。


 世界が、元の正しい姿へと「再計算」されていく。


「き、奇跡だ……! 本物の聖女様の奇跡だ……!」


 ルカの背後で頑丈に縛られていた貴族や私兵たちが、その人知を超えた神々しい光景に呆然と呟き、地面にガタガタと震えながら額を擦りつけて祈り始める。


 だが、ルカだけは祈らなかった。

 ただ、胸ポケットに入れた聖堂上層部の汚職の証拠書類を軽く叩き、ふっと小さく、獰猛に口元を緩める。


「神様ってのは、あんな小さな女の子にばかり無理をさせるな」


 男はそう呟くと、相棒のいる光の街へと歩き出した。

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