病気のオアシス
次に訪れたのは、砂漠の只中にぽつりと存在する、小さなオアシスの町だった。
本来ならば旅人たちの憩いの場となるはずのその町には、奇妙な静けさが漂っていた。
水辺には藻が浮き、風に乗ってどこか鉄臭い匂いが鼻を刺す。
道を歩く住民たちの顔色も悪い。
咳き込む者。
腹を押さえてうずくまる者。
乾いた路地の隅では、痩せた犬すらぐったりと横たわっていた。
「……酷い」
セシリアが小さく呟く。
二人が案内されたのは、町外れの孤児院だった。
中へ入った瞬間、むわりと熱気が押し寄せる。
「うぅ……」
「せんせ……みず……」
粗末な寝台の上には、苦しげに呻く子供たちが並んでいた。
肌はどす黒く変色し、唇は紫色に乾いている。
高熱。激しい嘔吐。痙攣。
セシリアの顔が青ざめた。
「こんな……どうして……」
年老いたシスターが涙ぐみながら頭を下げる。
「準聖女様……どうか、お救いください……」
「は、はい……!」
セシリアは慌てて子供の傍へ駆け寄った。両手を胸の前で組み、祈りを捧げる。
「世界神ルクスよ……どうか、この子に癒しの光を――」
淡い金色の光が広がる。次の瞬間、苦しんでいた子供の呼吸が少し落ち着いた。
「あ……熱が……」
「すごい……!」
周囲から安堵の声が漏れる。
だが。ルカだけは黙ったまま、その様子を見つめていた。
――そして、数時間後。
「っ……また熱が……!? さっきより上がっていますわ!」
シスターの悲鳴が響く。治療したはずの子供が、再び激しく苦しみ始めたのだ。
シーツに吐き出された吐瀉物には、黒ずんだ不気味な汚れが混じっている。
セシリアの顔から、今度こそ完全に血の気が引いた。
「ど、どうして……?」
再び祈る。
光が灯る。
一時的に熱が下がる。
だが、しばらくすると、それ以上の速度でまた悪化する。まるで終わりのない底なし沼のようだった。
「そんな……私の祈りが、届いていないというのですか……?」
セシリアの声が、絶望に震えた。
ルカはしばらく黙ったまま、孤児院を出た。
外では、事態を察知した住民たちが、不安げにひそひそと囁き合っている。
「帝国が“黒”を使ったらしい……」
「いや、これは神罰だ」
「終末が来る……」
「我らの不信心に、ルクス様がお怒りなんだ……!」
誰も彼もが、目に見えない恐怖に怯え切っていた。
病の本当の原因を知らない。
だから、自分たちの理解を超えた異常事態を、都合よく“神罰”として恐れるしかなかった。
長年、「祈り」に頼りすぎて病を治してきたこの国には、衛生も、医学も、水管理の技術も存在しない。
だからこそ、ひとたび「祈りの効かない病」が訪れただけで、社会はこうも簡単に崩壊しかけるのだ。
ルカは無言のまま、孤児院の裏手にある井戸の水をバケツに掬い上げた。
一見すれば、透明に見える水。だが、鼻を近づけると、風が運んできたものと同じ微かな金属臭が混じっている。
ルカの端正な眉が、僅かに動いた。
(……水か)
孤児たちの変色した皮膚。痙攣。激しい吐き気。これはただの疫病などではない。
「神罰なわけがない」
ルカは低い、地を這うような声で呟いた。
「……え?」
振り返ると、そこにはルカを追ってきたセシリアが立ち尽くしていた。
ルカは濁った水桶を見下ろしたまま言葉を続けた。
「これは、ただの毒だ」
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その日の夕方。ルカは単身、オアシスの水源があるという上流の渓谷へと向かった。
乾いた未踏の岩場を登り、細い水路の跡を辿る。
やがて、渓谷の奥から、ガン、ガン、と岩を穿つ鈍い金属音が聞こえてきた。
岩陰から息を殺して覗き込んだ先。
そこには、神殿の正規兵ではない、私設の武装を纏った男たちがいた。
私兵だ。
そして彼らの背後には、不気味な黒灰色の鉱石が大量に積み上げられていた。
他国で高値で取引される、希少な魔法資源――ジマタイト。
砕かれた鉱石の脇から、ドロドロとした濁った液体が、何の処理もされずにそのまま川へと流れ落ちている。
ルカの黄金の瞳が、怒りに細まった。
(水に溶けやすい鉱石。だが同時に、人体を内側から蝕む猛毒だ)
(……これを、下流の飲み水に垂れ流しているのか)
そのさらに奥。聖堂の輝かしい紋章が入った豪華な馬車と、ふんぞり返る聖堂貴族の姿が、ルカの視界を捉えた。
「下流の連中なんざ放っておけ。どうせスラム上がりの孤児どもだ、代わりなどいくらでもいる」
「へへっ、“黒の呪い”ってことにしときゃ、本山の聖堂も調査を諦めて黙りますさ。何せ、触れたら穢れる禁忌ですからな」
私兵たちが下卑た笑い声を上げる。
アストライア王国をはじめとする他国の先進的な魔術研究では、すでに「白色魔力の反転現象」として証明されつつある「黒の力」。
それを、この国の特権階級は、都合のいい怪異として利用している。
上層部の私利私欲と利権のために、罪のない子供たちの命を使い捨てにしながら。
ルカの中で、何かが静かに切れた。
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孤児院へ戻った頃には、夜の帳が完全に下りていた。
セシリアはまだ、祈り続けていた。衣服を汗だくにし、自身の魔力を限界まで消費しながら、小さな子供の細い手を握り続けている。
「お願い……治って……お願いだから、ルクス様……!」
彼女の指先から放たれる光が、疲労で小さく揺れる。だが、子供の激しい咳は止まらない。
ルカはその痛々しい姿をしばらく見つめ、そして静かに歩み寄ると、セシリアの小さな手を優しく、しかし力強く掴んで止めさせた。
「……ルカ様?」
「もういい、セシリア」
それは、酷く低い声だった。
「あんたの信仰や、祈りが足りないんじゃない」
セシリアの瞳が、大粒の涙を蓄えて揺れる。ルカは窓の外、月光に照らされて不気味に濁るオアシスの水面を見つめた。
「神罰なんかじゃない」
胸の奥でグツグツと煮え返る、聖堂へのドス黒い怒りを完全に押し殺しながら、彼は吐き捨てるように言った。
「これは、人間が起こした、ただの人災だ」




