聖教国
乾いた冷気。
ひび割れたスラムの石畳。
濁った水路脇に座り込み、虚ろな目でこちらを見る子供たち。
薄い豆粥の匂い。
川魚を焼く生臭い煙。
泥に汚れて擦り切れた毛布。
遥か遠く、白亜の聖堂からは、世界を祝福するような美しい祈りの鐘が響いている。
それでも。
今日も、ここでは誰かが飢えている。
タッタッタ、と軽い足音が響いた直後、一人の子供が走ってきて、近くを歩いていた大人にわざとらしく体当たりした。
そのまま、何事もなかったかのように通り過ぎようとする子供。
だが、その細い腕を、ルカの無骨な手がガシッと掴んだ。
見れば、子供の小さな手には、今しがた大人の懐から抜き取ったばかりの、金が入った革袋が握られている。
「そんなことをするな」
「はなせっ! クソ聖騎士!」
痩せ細った子供が、捕まった腕を振り回して必死に暴れる。
その目に宿るのは、飢えた獣のような光。
ルカは黙ったまま、懐から乾パンを取り出した。
「……持ってけ」
一瞬。子供の動きが止まる。
次の瞬間、子供はルカの手から引ったくるように乾パンを奪い取り、掴まれていた腕をすり抜けて一目散に駆けていった。
細い背中が路地裏へ消える。
「……追わないんですか?」
隣でフードを目深に覆ったセシリアが、少し驚いたような声で聞く。
ルカは視線だけを路地へ向けたまま、短く答えた。
「腹が減ってる奴は、説教しても聞きません」
「……優しいんですね、ルカ様は」
「違います、準聖女様」
ルカは即座に、突き放すように否定した。
「ああいう奴を放っておくと、明日には死ぬだけです。俺は幼少時に、何度もそういう奴を見てきた」
子供が消えた、その後。
革袋を奪われかけた、身なりの良い商人風の男が、ようやく事態に気づいて青い顔で駆け寄ってきた。
「た、助かった……! 聖堂の騎士様、ありがとうございます!」
男の額には冷や汗が浮かんでいる。中には、今日の仕入れ金が全て入っていたのだろう。
ルカは何も言わず、ただ黙って男の手に、取り返した革袋をぽんと返した。
「気をつけろ。この先は、世界神ルクスの目も届かない場所だ」
聖堂から響く鐘の音は、このスラムの底までは、暖かさをもたらしてはくれなかった。
それでも人々は、明日を願って祈るのだ。
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ルカとセシリアがたどり着いたのは、ひび割れた大地に囲まれた、小さな水不足の村だった。
すれ違う村人たちの顔は一様に暗く、その肌は乾燥して灰色にくすんでいる。
活気という言葉は、とうの昔にこの土地から干上がってしまったかのようだった。
「どうしたのでしょうか……」
セシリアがフードの隙間から痛ましげに周囲を見やる。
村の中央にある、小ぢんまりとした聖堂。そこへ足を運んだルカが、対応に出てきた年配の修道士に事情を聞けば、返ってきたのは深いため息だった。
「……何者かによって、山の上から引いている貴重な水路を意図的に破壊されてしまいましてな。このままでは数日で村の貯水が尽きる。
一刻も早く修復せねばならんのですが、大聖堂からの支援もなく、この村には動ける人手があまりにも不足しているのです」
それを聞いたルカは、一瞬だけ目を細めた。
人手が不足している。聖堂の上層部が、自分たち厄介者をこんな僻地に放り出した本当の理由が、ここにも透けて見えていた。
「準聖女様。あんたはここで修道士たちの手伝いをしてろ」
「ルカ様? どこへ行くのですか」
「現場の様子を見てきます。死体が増える前に、やれることをやるだけです」
セシリアを安全な聖堂へと預け、ルカは単身、水路の破損現場へと向かった。
――だが、そこでルカが目にしたのは、ただの災害の現場ではなかった。
チョロチョロと、決壊した水路の隙間から不自然に漏れ出すわずかな水。
地面に落ちたそれは、流れること無く砂へ吸い込まれていく。
その周りに群がっていたのは、村の生き残りの人々だった。
彼らは壊れた水路を直そうとするどころか、その泥の混じった貴重な水を、我先にと手持ちの革袋へと詰め込んでいた。
その目は一様にギラつき、明日の命さえ見えない狂気を孕んでいた。
ザッ、とルカが草を踏み鳴らして近づくと、人々はびくりと肩を揺らした。
彼らの視線がルカの纏う聖騎士の甲冑に注がれた瞬間、誰もが罪悪感と怯えの混じった目で、一斉に顔を背けた。
彼らは分かっているのだ。自分たちがしていることが、村全体の命を縮める盗水であるということを。
そしてルカもまた、彼らを責める気にはなれなかった。
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戻ってきたルカの身体は、乾いた砂と土埃だらけだった。
「ルカ様、おかえりなさい! 水路は……水路は無事に修復されたのですか?」
セシリアが駆け寄り、心配そうにルカの顔を覗き込む。
「ああ……」と、ルカは短く生返事をした。
一応は、現場にいた者たちを制止し、物理的な決壊部分だけは応急処置を施してきたのだろう。
しかし、彼のその黒い瞳は、どこか浮かない。目的を果たしたはずなのに。
「……ルカ様? どうかされたのですか? 現場で、何がありましたか?」
「……あれは」
セシリアの純粋な問いに、ルカは言葉を濁した。
視線を落とし、白銀の小手についた砂を払う。その手が僅かに震えているのを、セシリアは見逃さなかった。
「……上流側の家だけ、水瓶が満たされていた」
ルカは絞り出すように、低く呟いた。
「下流の連中は、もう限界だったんだろう」
「それって……どういうこと、ですか……?」
「おそらくあの水路、元々水が均等に分配されていない構造だったんだろう。上に住む権力者か、それとも一部の裕福な連中だけが水を独占し、下流の貧しい奴らには最初から泥水すら回っていなかった」
ルカはしばらく黙ったまま、
乾いた夜風へ視線を向けた。
「……野党や魔物が壊したんじゃない」
低い声。
「水路を壊したのは――住民たちだ」




