確保
夜の帳が降りた女子寮の一室。
ミシュリーヌが部屋を去った後も、ジュリアは一人、机に向かっていた。
窓外の闇を見つめていたサファイアの瞳が、ゆっくりと手元の白紙へと落とされる。
無言のままペンを取ると、硬質な金属音を立てて、鋭いペン先が静かに植物紙の上を走り始めた。
『エリザ・クロネッカー』
インクが紙に染み込んでいく。その一文字一文字には、前世の戦場で数々の脅威を識別してきたジュリアの、冷徹なまでの観察眼が込められていた。
『至急調査をお願いします』
『古典術式学派所属。研究適性、極めて高。思想傾向、不明』
そこで一度、ペンが止まる。
ジュリアの美しい眉が、わずかに、しかし深くひそめられた。
ミリーが言っていた言葉が、脳内で不吉な警報となって鳴り響いている。
――“人間の意思を介さずに、魔道具自身に判断をさせられる”。
それは、この世界のパワーバランスを根底から消し飛ばす、事実上の"自律型禁忌兵器"の思想そのものだ。
ジュリアはさらに力を込め、ペン先を走らせる。
『ミシュリーヌ・ヴァランタンとの接触を確認』
『危険度を上方修正』
数秒、部屋の中に完全な沈黙が満ちた。
ミリーという野生の天才が、エルザという論理の怪物を手に入れてしまった。これを放置することは、戦術的に見れば"敵に新型の魔導兵器の量産ラインを無償で提供する"に等しい。
ジュリアは瞳の奥に冷たい光を宿し、冷酷な結論を最後に記した。
『放置した場合、魔導技術体系そのものへ影響する可能性があります。クロネッカー家の早急な裏取りと社会的拘束を推奨します』
書き終えると、ジュリアはインクを乾かし、紙を小さく厳重に丸めた。
気配もなく背後に控えていたリナへと、それを差し出す。
「これをお父様へ。至急、最高速度の伝書使い魔で送ってください。最優先機密扱いです」
手紙を受け取ったリナは、主人の瞳にある本気を瞬時に察し、一瞬だけ表情を引き締めて深く一礼した。
「承知いたしました。ただちに手配いたします」
リナが闇に溶けるように部屋を出ていく。
残されたジュリアは、再び窓外の暗闇を見つめながら、静かに、まるで獲物の喉元を狙う猟師のように呟いた。
「……エリザ・クロネッカー。貴女が未来をどこまで見据えているのか、徹底的に"検分"させてもらいます」
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深夜。アークライト公爵邸、執務室。
娘がいない静かな邸宅で、フィリベール・アークライトはここ数ヶ月、かつてないほどの健康を謳歌していた。
ジュリアが学園へと移り、毎日のように届いていた血の気の引く報告書が途絶えたからだ。最近は食事も美味い。胃薬の量も劇的に減っていた。
――だが、その平穏は、窓を叩いた一羽の伝書使い魔によって無惨にも打ち砕かれた。
「……は?」
届けられた最高機密扱いの報告書を、フィリベールは一度、二度、そして三度読み返した。
読書用の眼鏡を何度も拭き直し、自分の目が狂ったのではないかと疑う。
『人間の意思を介さずに、魔道具自身に判断をさせられる』
ジュリアの端正な文字で記されたその一文を目にした瞬間、フィリベールの背筋に、氷水を浴びせられたかのような凄まじい悪寒が走った。
「……いや、待て。落ち着け、私」
思わず眼鏡を外し机に置き、深くこめかみを押さえる。こめかみの血管がドクドクと脈打っていた。
おかしい。何かが致命的におかしい。
「なんで学園入学数ヶ月の子供達が、“次世代魔導兵器構想”へ到達している?」
完全に治癒していたはずの胃の腑が、内側からシクシクと波打つように痛みを訴え始めている。
しかも、この報告書の差出人は、アークライト家でも最も冷徹で、最も嘘を吐かない、最も物事を俯瞰できる実の娘なのだ。つまり、一文字の誇張もない"純然たる事実"である。
つまり冗談ではない。
「ミシュリーヌ嬢だけでも大変だったんだぞ……? あの子の周りにはなぜこうも厄介な者達が吸い寄せられる?」
いっそこのまま机へ突っ伏して、現実からの逃避行に走りたくなる衝動を必死で堪えながら、震える手で眼鏡を着け直して続きの文字を読む。
そこには、獲物を補足したジュリアの非情な文字が並んでいた。
『エリザ・クロネッカー。古典術式学派所属。研究適性、極めて高。思想傾向、不明。ミシュリーヌとの接触を確認。放置した場合、世界の魔導技術体系そのものが崩壊する恐れあり。クロネッカー家の早急な裏取りと社会的拘束を推奨します』
「増えた……」
贅沢な執筆室に、フィリベールの弱々しい声がぽつりと落ちた。
「怪物が、また一人……」
しかも、その怪物を「危険だから排除する」のではなく、"危険だから道具として拉致・囲い込みする"という娘のシンプルな思考。
フィリベールは、引き出しの奥底に封印していたはずの胃薬の小瓶へと、おそるおそる手を伸ばすのだった。
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研究棟。第拾八実験室。
その扉がノックされた。
「あ、ジュリア。あなたがここにくるのは珍しいわね」
ミシュリーヌが気軽にジュリアを受け入れる。
「……貴女が、エリザ・クロネッカーね。あの自律駆動兵器の仕組みの発案者」
感情を一切排した、だが空間の温度を数度下げるような硬質な声。
エリザは一瞬、その兵器という物騒な単語の選択に眉をひそめたが、すぐに不敵な笑みを口元に浮かべ、手元の植物紙をトントンと机に叩いて揃えた。
「ええ。そうだけれど。貴女は?」
怯えも、へつらいもない。ただ純然たる"演算者"としての、底知れないプライドがそこにはあった。
ジュリアはスカートの裾を完璧な所作で引き、戦場の一等星のごとき冷たい輝きをそのサファイアの瞳に宿して、静かに、だが絶対的な威圧感をもって名乗った。
「ジュリア・アークライトです」
――沈黙。
静かに視線が交差する。
完全に防音・防爆が施された密閉空間の中で、天井の魔導灯がジジ、と微かに鳴った。
エリザは、眼鏡の奥からジュリアを冷徹に観察していた。
年齢に対して異様に完成された、隙のない所作。微動だにしない完璧な姿勢。
そして何より。
(……目が、研究者のそれではないわ)
あれは。おそらく幾千、幾万の死線を越え、戦場という名の地獄を知り尽くしている者の目だ。
一方。
ジュリアもまた、エリザを測っていた。
机上へ積み上がる術式紙。紙面上の複数同時並列の演算式。
魔力干渉を避けるため意図的に分離された配置。
(合理主義者。しかも、倫理より先に、可能性を優先するタイプ)
最悪だ。だからこそ価値がある。
――それから、一時間後。
第拾八実験室を支配していた、あの肌を刺すような重苦しい空気は完全に霧散していた。
室内の長机には、ジュリアが持ち込んだ携帯式の茶器から注がれた、琥珀色の美しい紅茶が湯気を立てている。
壁一面の黒板には、エリザの鋭い筆跡とジュリアの正確な図形が入り乱れ、常人であれば一目で発狂するような高密度の数式がこれでもかと書き殴られていた。
「すばらしいわ。つまり、古典的な魔術理論を一旦分解し、抽象概念として平均的に落とし込み、そこへ色属性、空間属性、指向性、強度などの要素を変数として代入するわけね」
エリザは眼鏡の奥の灰色の瞳をかつてないほどギラギラと輝かせ、紅茶のカップを握る指先を興奮に震わせている。目の前にあるのは、自分が孤独に追い求めていた計算魔術の遥か先を行く、あまりにも冷徹で美しい純粋論理の数式だった。
「そう言うことよ。詠唱なんてくだらない様式美はもはや不要なのよ。そもそも上位魔族戦においては、一音節の遅れがそのまま部隊の壊滅に直結する。現象の発現までに三秒以上要する術式など、実戦においてはただの自殺志願者の的でしかないわ」
ジュリアもまた、合理的な魔術理論に狂喜して頷く目の前の怪物に対し、普段の鉄面皮が嘘のような晴れやかな笑顔を浮かべていた。前世の過酷な戦場を生き抜いた彼女にとって、この世界のお上品な魔術は生ぬるいお遊びに過ぎなかったのだ。自分の意図を完璧に、それどころか数歩先まで理解して並列演算してみせるエルザを前に、ジュリアは口角泡を吹くように滔々と自らの戦術論を展開していた。
「ねえ、お茶菓子持ってくる?」
実験室の隅で虚無の表情を浮かべていたミシュリーヌが、つまらなそうに机の端を指でトントンと叩きながら声をかける。
「ええミリー、頼める?」
「はいはーい」




