夜明けと決意と
雨は夜明け前には上がっていた。
朝もやが谷を白く覆い、昨夜の雨を吸った森が静かに息づいている。
早起きのジュリアは、二階の寝室から階段を降り、居間へと姿を現した。
「オハヨウゴザイマス」
「おや、おはようございます、ジュリア様」
「よう、代表殿」
暖炉の前では、オメガとクライヴ、レオンがすでに起きていた。
ぱちぱちと薪の爆ぜる音が響き、室内は朝の冷え込みを感じさせないほど暖かい。
「オメガはともかく……お二人は、ちゃんと寝たのですか?」
ジュリアが少し呆れたように尋ねる。
「俺たちは普段から野宿が多いからな。ソファくらいがちょうどいい」
クライヴが肩を竦める。
「それに、見張りの交代時間になると勝手に目が覚めちまうんだよ」
レオンも苦笑した。
「なるほど。なんとも冒険者らしい職業病ですね」
ジュリアは紅茶を淹れながら微笑む。
「そういう積み重ねが、生き残る秘訣なのでしょうね」
◇
やがて、一人、また一人と居間へ集まり始める。
台所からは包丁がまな板を叩く軽快な音が聞こえていた。
オメガとリィン、それに聖職者のセレスが朝食の支度をしているようだ。
焼き立てのパンの香りと、煮込まれたスープの匂いが部屋いっぱいに広がっていく。
ジュリアは湯気の立つ紅茶を片手に、室内を見回した。
「そういえば、バルトルト顧問たちの姿が見えませんね」
「ん? あいつらなら昨日から工房に籠もってるぞ」
レオンが何でもないことのように答える。
「……ということは、まだ寝ていないのですか?」
「さあな。夜遅くまで何か作ってたみたいだが」
「実に研究者らしいですね」
ジュリアは苦笑した。
そして、もう一人足りないことに気付く。
「カルナは、まだ寝ているのでしょうか」
「昨日の魔術講義で疲れちゃったんじゃない?」
ミシュリーヌが砂糖をたっぷり入れた紅茶をかき混ぜながら言う。
「そうかもしれませんね」
ジュリアは少し反省したように目を伏せる。
「昨日は少し詰め込みすぎたかもしれません」
「じゃあ、俺が起こしてくる」
ジェラルドが立ち上がり、軽い足取りで二階へ向かった。
しばらくすると、朝食の準備も整う。
オメガが焼き立てのパンと湯気を立てるスープをテーブルへ並べていく。
「おいしそうですね」
「スープはセレス様が味付けしてくださったんです」
リィンが自分のことのように嬉しそうに胸を張る。
「楽しみですね」
穏やかな朝の時間が、ゆっくりと流れていく。
そんな中、ミシュリーヌがふと顔を上げた。
「……そういえば、ジェド遅くない?」
「確かに」
ジュリアも時計代わりの懐中時計へ目を落とす。
その時だった。
二階から、慌てたジェラルドの声が響いた。
「おい、みんな!!」
一同が一斉に階段を見上げる。
「カルナが居ねえ!!」
「「えっ?」」
穏やかだった朝の空気が、一瞬で張り詰めた。
◇
時は遡って、深夜。
二階の客室。
月明かりも入らない、暗い部屋だった。
カルナは寝具を抱えたまま、床に座り込んでいた。
眠れない。
昼間に習った術式が、頭の中で何度も繰り返される。
魔力隠蔽。圧縮。経路の短絡。
ジュリアの言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
――行軍、兵站、奇襲、諜報。
戦争そのものを変えてしまう力。
だからこそ、軽々しく使うべきではない。
分かっている。
分かっているのに。
カルナは手をかざした。
目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、地図でもない。座標でもない。
肩に乗っていた小さな鳥の精霊。鈴を転がすような笑い声。
――カルナ、生きて。
あの日、引き剥がされる瞬間の、アディの声。
胸の奥が、痛いくらいに熱くなる。
魔力が、勝手に動き出す。
ジュリアに教わった通りの工程ではなかった。完璧ではない。教わった理論とは違う。だが。
それでも。
黒紫の光が、掌の上で渦を巻く。
昨夜は、すぐに霧散してしまった。
だが今は違う。
黒紫の光は揺らぎながらも消えない。
門が。
そこに、存在していた。
安定している。
「……」
カルナは、自分の手のひらを見つめた。
門は、ゆっくりと、確かに広がっていく。
恐怖はなかった。
あったのは、ただ、抑えきれない衝動だけだった。
ここまで来た。
ここまで、来てしまった。
ジュリアの言葉が、また頭をよぎる。
――条件があります。
地図と引き換えに教わった魔術。
守るべき約束。
待って、相談すれば。
きっと皆、一緒に来てくれる。
分かっている。
それでも。
カルナは、開いた門の奥の闇を見つめた。
もし、ここで待てば。
その間にアディの何かが奪われるかもしれない。
すでに自由は奪われている。
次に奪われるものは――。
カルナは強く目を閉じた。
それだけは。
それだけは、絶対に嫌だった。
「……ごめん」
誰に対しての言葉かは、自分でも分からなかった。
ジュリアか。
ボルドスか。
アディか。
それとも、これから約束を破る、自分自身か。
カルナは一歩、前へ踏み出した。
黒紫の門が、静かにその身体を包み込む。
次の瞬間。
部屋には、誰もいなかった。




