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ボルドスの小屋

 バルトルトとゲルダを〈転移〉で回収した一行は、カルナの残した『カラカの実』を辿り、やがて東側へ通じる遺跡の出口へたどり着いた。

 重厚な石扉をくぐり、一歩外へ出る。


 ──その瞬間、ジュリアたちの肌を刺したのは、西側とは明らかに異なる重く湿った空気の塊だった。


 遺跡の扉の先に広がっていたのは、濃い霧が谷を埋め尽くす深い渓谷だった。

 空は鉛色の雲に覆われ、小雨が静かに降り続いている。

 ゼオガンダル山脈を吹き下ろす湿った風が霧を揺らし、数十メートル先さえ白く霞んで見えない。


「……生憎の天気ですね」

 ジュリアは襟元を軽く合わせ、冷たい雨に煙る山肌を睨み据えた。


「どうするんだ、このまま強行軍で山を降りるか?」

 背後でレオンが、雨に濡れる白霧の奥を警戒しながら尋ねる。


「却下です。見知らぬ土地、かつ遠方の地形すら見通せない天候の中。ここで無策で進むのは二流です。一旦、この遺跡の入り口を拠点として、次の作戦を練るべきでしょう」


 幸いにして、各々の背嚢には、寝具一式が詰め込まれている。

 さらに、バルトルトが操縦する新型パワードスーツの外部ラゲッジには、防寒仕様の簡易天幕まで積載されていた。

 何より、最悪の事態に陥ったとしても、ジュリアたちであれば〈転移〉を展開して西側のアストライアへと一瞬で帰還できるのだ。

 食料や生存に関わる物資の心配は、現時点では極めて低い。


「──あの、待ってくれ」

 そんな会話の最中、カルナが何かを思い出したように声を上げた。


「この近く……ここから少し谷を下ったところに、ボルドスじいさんの小屋があるんだ。この人数だと、少し手狭かもしれないけど、雨露をしのぐならちょうどいいと思う」


「それはいい案です」

 ジュリアは顎に手を当て、静かに頷いた。


「ほう。東方のドワーフの住まいか。……カルナよ、そのボルドス殿というのは、まだご存命なのか?」

 同じ種族の、それも未知の大陸の同胞の名を聞き、パワードスーツのコックピットのバルトルトが、興味深そうに身を乗り出した。


「……残念ながら。四年前に、老衰で静かに亡くなったんだ」

「そうじゃったか……。知らぬとはいえ、すまぬな」

 バルトルトは短く嘆息し、黙祷を捧げるように目を伏せた。

「いえ」


「今は、俺がこの山脈で猟をするときの、休憩所として使っているんだ。じいさんが使っていた道具なんかも、そのまま残してある」

「なるほどな。……ジュリア殿、これは行く価値があるぞい」


 バルトルトの横から、助手のゲルダが知的探究心に瞳を輝かせて進言する。

「ドワーフの老職人が遺した庵ならば、歴史の検閲を受けていない東方の独自の魔導工学、あるいはこの遺跡に関する詳細な手記や研究資料が、何かしら遺されている可能性が極めて高いですわ」


「そうですね。最初の拠点としても最適そうです。──まずはその小屋へと向かいましょうか」


 細かな雨粒が木々の葉を叩く静かな音と、ぬかるむ土を踏み締める軍靴の音だけが谷に響く。

 カルナの確かな案内で、深い霧の奥から姿を現したのは、西側大陸のドワーフ特有の質実剛健な石造りの建築とは、根本的に趣を異にする建物だった。


 それは、周囲の巨木をそのまま組み上げた高床の二階建ての丸太小屋だった。

 西側では見ることのない、大きな木造建築である。

 雨に濡れた木肌が深い鈍色に光り、山脈の自然の景観に見事に溶け込んでいる。


「……随分と、趣があって素敵なお宅ですね。失礼ながら、ドワーフの堅牢な家というよりは、木こりの隠れ家のようです」

 狩猟服のフードを細い指先で軽く上げ、雨の雫を払いながらジュリアが感嘆の息を漏らした。


「石造りでもなく、地下構造でもない、か……。なるほど、木材の特性を活かして高い湿度に耐える構造か。確かに我らの常識からすれば珍しいな」

 パワードスーツから降りたバルトルトが、職人の視線でその木造の家を見上げ、満足げに鼻を鳴らすのだった。


 ◇


 中はドワーフの家らしく、工具や部品が散乱しているのかと思った。

 しかし意外にも、居間は広々として綺麗に片付いている。


 カルナによれば、工房は裏庭側、研究室は二階にあるらしい。


「中がちゃんと片付いています。なんだかドワーフらしくありませんね」

 ジュリアが感心したように呟く。


「儂らを何じゃと思っとる?」

 バルトルトが即座に抗議した。


 紅茶と菓子が行き渡ると、ジュリアはカルナへ向き直った。


「カルナ。あなたは幼馴染を助けるために、この遺跡へ『最後の魔術』を探しに来たのでしたね」

「ああ」


「つまり、完全に無策というわけではなかった」

「でも俺、『最後の魔術』は見せてもらっただけで、どんな魔術かまでは聞いてなかったんだ」

「そうなんですか?」

「見た目からして、すげえ強力な攻撃魔術だと思ってた」


 エリザが小さく笑う。

「まあ、確かに派手ではあるわね」


 ジュリアも頷いた。


「ですが、〈転移〉も誰にでも教えてよい魔術ではありません」

「そうなのか?」

「ええ。この中でも使えるのは、私とミシュリーヌだけです」


「どうしてだ?」

 ジュリアは少しだけ考え、静かに答えた。


「……これが誰でも使えるようになると、戦争そのものが変わってしまうからです」


「戦争が?」

「ええ」


「行軍、兵站、奇襲、諜報、要人救出、補給。あらゆる軍事の常識を書き換えてしまいます」

「……」

 ジュリアが並べた単語に、カルナも絶句する。


「だからこそ、軽々しく広めるべき術ではありません」

「そうか」


「ですが、ボルドス殿があなたに〈転移〉の存在だけは伝えていた理由は分かる気がします」

「理由?」


「〈転移〉は、戦うための魔術ではありません。生還の魔術です。もしもの時は、生きて帰れ、と」

「じゃあ……」

 カルナが身を乗り出して目を輝かせる。


「そうですね。カルナには教えましょう」

「本当か!!」


「ただし、条件があります」

 ジュリアがピッと指を立てる。


「条件?」

「この東側の地図、もしくは周辺の地形についての知識が欲しいです」


「地図か。そんなものでいいのか?」

「ええ。知らない土地の情報を得るのは戦略の初歩です」


「わかった」

「交渉成立です」


「なあ。俺にも教えろよ」ジェラルド。

「ジェド。話を聞いていなかったのですか?」ジュリア。


 ◇


 夜の帳が落ち、森は深い闇に包まれた。

 外では、しとしとと雨音だけが静かに響いている。


 そんな中、ジュリアは居間の暖炉の前で、カルナに魔術講義を行っていた。


「すばらしい……理解が早いですね。では、魔力量の調節をして実際に転移門を作ってみて下さい」


「こうか?」


 カルナが手をかざす。

 すると掌の上に、黒紫色の小さな転移門が一瞬だけ開いた。


「……出た!」


 だが門は不安定なまま揺らぎ、すぐ霧散してしまう。


「あっ……」


「その感覚です。なかなか飲み込みが早いですね。私の兄のエドワードよりよほど魔術の素質がありそうです」


 ジュリアが教えるのは、魔力隠蔽。

 さらに、術式工程の簡略化と折りたたみによる圧縮、魔力経路の短絡など、高度な魔術理論まで及んでいた。


 カルナはそれらを、まるで乾いたスポンジが水を吸うように次々と理解していく。


(なるほど。ボルドス殿が気に入るわけですね)

 ジュリアは内心で納得した。


「すごいです。凛暴のジュリアス様の生講義!!」

 その様子を羨望の眼差しで見つめていたリィンが、目を輝かせる。


「リィン。……その名前だけは、本当にやめて下さい」

 ジュリアの耳が赤いのは、暖炉の炎のせいだけではないだろう。


 どうやら彼女は、その二つ名で呼ばれるのを本気で嫌がっているらしかった。

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