一時の休息
陽はすでに傾き、地平線を赤く染めていた。
地面には魔族たちの長い影が伸びる。
風が草原を吹き抜けるたび、焦げた草の匂いと血の匂いが運ばれてきた。
戦場には無数の亡骸。
その上を夕焼けだけが静かに照らしている。
やがて東の空に、一番星が瞬き始めた。
それを合図にしたように、両軍の動きが変わる。
魔族たちは陣地の周囲へ篝火を並べ始めた。
大鍋が吊るされ、湯気が立つ。
負傷者の手当てをする者。
天幕を張る者。
見張りを配置する者。
それは、彼方のヴァルザ達も同様だった。
互いに視認できる距離。
それでも突撃は起きない。
ただ睨み合いながら、それぞれが夜を迎える準備をしていた。
張り詰めた緊張感の中に、奇妙な生活の匂いが混じる。
まるで明日も同じ朝が来ることを疑っていないかのように。
一時の休息だった。
魔族たちは思い思いに輪を作り、篝火を囲んで夕食を摂り始める。
武勇伝を語る者。歌を歌う者。酒を酌み交わす者。
あるいは肩を叩き合い、ふざけ合い、笑い合う者。
だが誰も、その日の戦死者については語らなかった。
それが弔いなのか。
あるいは、明日も戦うためなのか。
それはこの場の誰にも分からない。
ただ一つだけ分かることがあった。
その光景は、人間の軍隊の夕食風景と何一つ変わらない。
篝火を囲み。仲間と笑い。明日の生存を願う。
それは敵軍ではない。どこにでもいる兵士達の姿だった。
ジュリアは静かに目を伏せる。
前世では何度も見た光景だった。
戦場が違うだけで変わらない。
明日死ぬかもしれない者達が。
今日だけは生きていることを祝う。
ただ、それだけの時間。
ジュリアはそれでも落ち着かなかった。
前世の戦場では、この時間から死者が増える。
冷たくなった兵士たちの多くは、陽が沈んだ後に命を落としていた。
魔族の中には、夜こそ本領を発揮する種族が少なくないからだ。
やがて大きなキャンプファイアを囲み、作戦会議が開かれた。
古龍種:老白竜ゴルズ=ヴィム。
深淵種:暗黒騎士バザラード・ゲドニクス・アトリウス。
魔貴族:影冥大公フェゴニール・ド・ヴァイスラント。
暗黒魔術師:ザーデ・エル・ニクス。
錚々たる顔ぶれだった。
「モーリガン。貴様、人族の祈り子を連れていたな」
低い声だった。
暗黒騎士バザラードが焚火の向こうから睨みつける。
「我々を謀ったか」
空気が重くなる。
だがモーリガンは肩を竦めただけだった。
「だが結果として赤龍は救われた」
「それで済む話ではない」
黒い兜が僅かに動いた。
暗黒騎士バザラードの低い声が響く。
「我ら深淵種にとって、あれは災厄そのものだ」
篝火が揺れる。
「貴様は災厄を戦場へ持ち込みながら、一言の説明もしなかった」
バザラードの体から溢れる漆黒の瘴気が、さらに濃くなる。
それだけで周囲の魔族たちの額に冷たい汗が滲んだ。
篝火の火さえ弱まったように見える。
そんな中。
ミシュリーヌは焚火で焼き芋を頬張りながら首を傾げた。
(え、セシリアってそんなヤバい子なの?)
もぐもぐ。
焼き芋は甘かった。
すると隣から小声が飛んでくる。
(いや、お前も十分ヤバい側だぞ)
ジェラルドだった。
ミシュリーヌはぱちぱちと瞬きをする。
(私は普通だよ?)
(海割った奴が言うな)
(あれは海底を調べる必要があったのよ)
(普通は潜るんだよ)
(でも海底まで遠かったし)
(だから海を割るな)
ミシュリーヌは納得いかない顔をした。
だが。
「その通り」
静かな声が場を支配した。
豪奢なローブを纏ったザーデ・エル・ニクスが初めて口を開く。
「我が一族、ウーデを消滅させた者」
沈黙。
ザーデはそれ以上語らない。
だが、その場の魔族達は誰も続きを求めなかった。
必要が無かったからだ。
ジュリアは息を呑んだ。
だがセシリアは首を振った。
(違う。私じゃない)
(ルカさんが倒したよね?)
(あの時、魔術を止めたのはミシュリーヌ様でしたよね)
(そうだったかも)
その横で。
「私の連れが失礼しました」
ジュリアが静かに頭を下げる。
すると。
ガタリ、と大きな音が響いた。
「貴様は……白銀の小娘!!」
暗黒騎士バザラードが立ち上がる。
黒い兜の奥から鋭い視線が突き刺さった。
「なぜ貴様まで居る」
「モーリガン!!」
怒声。
「貴様らダークエルフはやはり我々を謀ったな!!」
篝火が大きく揺れる。
会議の空気が一気に張り詰めた。
その時だった。
東の空。
神の壁の稜線に。
月が、昇った。
否。
月にしては大きすぎた。
そして近すぎた。
夜空の半分を埋めるような圧倒的な質量感。
誰も声を出せない。
「なっ……」
誰かが息を呑む。
「月……?」
「違う」
即座に否定が飛ぶ。
「あれは……!」
言葉が続かない。理解が拒絶する。
そして。
「神鳥……シームルグ……」
震える声で呟いたのは老白竜ゴルズ=ヴィムだった。
古龍種最古の一角。数百年を生きた白龍。その老竜が。初めて恐怖を滲ませていた。




