世界樹の力
落ちた赤龍を、セシリアは静かに見つめていた。
全身は裂傷だらけだった。
鱗は砕け、片翼は原形を留めていない。
荒い呼吸。
弱々しく上下する胸。
もう長くはない。
「私、あの龍さんを治癒してきます」
セシリアが一歩前へ出る。
「やめろ!!」
鋭い声が響いた。
モーリガンだった。
セシリアが驚いたように振り返る。
「なぜ、でしょうか」
戸惑いの色を浮かべながらも言う。
「私なら、あの龍さんを助けられます」
沈黙。
モーリガンは答えない。
ただ、瀕死の赤龍を見つめていた。
まだ若い個体だった。必死に生へしがみつくような呼吸。
それを見つめる琥珀の瞳が僅かに揺れる。
やがて。
「深淵種は今すぐここから離れよ!!」
凛とした声が戦場へ響いた。
「不死種もだ!! 一刻も早く距離を取れ!!」
ざわめきが広がる。
「なっ……?」
「どういうことだ?」
魔族達が困惑する。
ジュリアも眉をひそめた。
「モーリガン殿?」
理解が追い付かない。
だがモーリガンは表情を崩さない。
静かに。
どこか諦めたような声で告げた。
「聖樹の力は強すぎるのだ」
その言葉に、セシリアが首を傾げる。
「聖樹?」
「我々魔族の一部は、その力に耐えられん」
モーリガンは続けた。
「深淵種も。不死種もだ。……浄化……される」
「浄化、ですか?」
セシリアが小さく呟く。
モーリガンは即座に首を振った。
「違う」
低い声。
「消滅だ」
空気が凍った。
誰も言葉を発しない。
モーリガンはセシリアを見る。
「お前達が"世界神"と呼ぶ存在」
そして。
「それは、世界樹だ」
聖樹。世界樹。
その単語を聞いた瞬間。
ジュリアの脳裏に、学園時代のある光景が蘇った。
『エイダン先生!』
一人の女子生徒が勢いよく手を挙げる。
エリザ・クロネッカーだった。
『聖樹は、本当に存在するんでしょうか?』
その瞬間。
エイダンの動きが、ほんの僅かに止まった。
『……エリザ君、だったかな』
静かな声。
『なぜ、それを?』
『かつてエルフ達は聖樹を守っていた、と記録にあります』
エリザが続ける。
『ですが、それ以降の歴史では、聖樹について全く触れられていません』
講堂が静まり返る。
そして。
エイダンは数秒だけ沈黙し――
『……それは、貴方方が知る必要のない話です』
記憶が途切れる。
あの時は理解できなかった。なぜ隠すのか。なぜ触れさせないのか。ただの歴史の空白だと思っていた。
だが今ならば分かる。
あれは秘匿だった。世界そのものに関わる真実の。
ジュリアはゆっくりとセシリアを見る。
聖堂。いや、ファロン・ネヴァンが、なぜ彼女を恐れたのか。その理由を。
「……治療してやってくれ」
長い沈黙の末。モーリガンはそう言った。
まるで何かを諦めたように。あるいは、覚悟を決めたように。
視線を逸らしたまま。
セシリアは頷いた。
そして赤龍へ向かって歩き出した。
膝をつく。
そっと、その砕けた鱗へ手を添えた。
「大丈夫です」
優しい声だった。
「もう、痛くありませんから」
次の瞬間。
天へ向かって青白い光が立ち上った。
誰も詠唱を聞いていない。
術式も見えない。
魔力の奔流すら感じない。
ただ。
空気そのものが澄んでいく。
まるで世界から濁りが取り除かれていくように。
遠くで見ていた深淵種たちが息を呑む。
胸の奥が焼ける。
本能が叫んでいた。
近付くな、と。
あれは、自分たちが近付いてよいものではない、と。
光は数秒で消えた。
静寂。
そして。
赤龍がゆっくりと身体を起こす。
自分の腕や羽根を不思議そうに見つめる。
湧き上がる古龍種達の歓声。
遠くで他の魔族たちが、ただそれを、驚愕の眼差しで見ていた。




