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平和という地獄

 深夜、新連邦中央庁舎の執務室。

 かつて戦場を渡り歩いた軍靴が、今は柔らかい絨毯の上で所在なげに浮いている。ジュリアは、目の前の書類の山――「空港建設の予算案」や「農作物の流通統計」を見つめ、かつてない焦燥感に突き動かされていた。


(……おかしい。何かが、致命的に間違っている)


 胃の奥が、冷たい氷を飲み込んだように重い。

 数年前まで、世界はもっと分かりやすかった。北方からは魔族が跋扈し、地には死の汚染が広がり、明日の生存すら不確かな破滅が裏側で常に胎動していた。ジュリアはその破滅を叩き潰すことだけに、魂の全能力を割いていれば良かった。

 だが、今はどうだ。「治安安定」、「物流の活発化」、「旅客操縦士の育成」……。積み上がるのは、生存とは無縁の「平和な暮らし」の報告書ばかり。

 周囲の人間は、昨日まで死線を共に潜り抜けたはずの戦友ですら、当然のようにこの平時という名の異質な構造に順応し、あまつさえ最適化までし始めている。


 ジュリアは静かに現状分析を行う。

 マクシミリアンは婚約。エドワードも婚約。セレスティーヌは孫を要求。ジェラルドは意味不明な恋愛的圧力を掛け始めている。強固な布陣と包囲網だった。

 恋愛。……結婚。……出産。その単語を脳内で反芻した瞬間、ジュリアは総毛立ち、全身に寒気を覚えた。今のジュリアにとって、それは世界の終焉よりも、大侵攻の再臨よりも、形容しがたい恐怖の対象だった。

 家族という名の拘束具を纏い、実家からの安心という無慈悲な要求に屈し、平穏という名の緩やかな死に呑み込まれていく自分。


(……まずい。このままでは、私は普通の幸福という呪いに浸食されて消滅する)


 ジュリアは震える指先で、机の端を強く掴んだ。かつての戦時経験が、最適化された戦場を求めて悲鳴を上げている。


「……何を、やっているんですか。魔族共は」


 独り言が、冷たく、そして切実に漏れる。


「サボりすぎでしょう。このタイミングで赤龍の一匹も寄越せないのですか。サンドゴーレムの大群でもいい。ヒュージスライムでもいい。……ああ、いっそ魔族の本拠地が新連邦の隣に移転してくればいいのに」


 窓の外を見上げるジュリアのサファイア色の瞳は、侵略者を待ちわびる狂気と、かつてないほどの平和への絶望の色に濁っていた。


 そんな鬱屈した気持ちのジュリアの執務室に、ノックの音が響いた。


 コンコン。ガチャ。


「入るぞ。…………なんかお前、顔色悪くね?」

「ジェド。魔族が来ません」

「いや何言ってんの?来ないほうがいいだろ」

「駄目なんです!平和が!平和が私を殺しに来ている!」

「お前は平和だと死ぬ魔王か何かか?」


 ◇


 ジュリアは再びエイダンの部屋の前に居た。


「……居ますよ」エイダンの声。

「失礼します」ジュリア。

「随分とやつれているようですね。新連邦は現在、平和を謳歌していると聞いていましたが?」

「そう、それが問題なのです…。エイダン。貴方、実は魔族と繋がっていたりしませんか?」


 エイダンの手が止まった。琥珀色の瞳が、細められる。


「緊急事態なのです。今すぐ我が国に進軍の指示を要請できませんでしょうか」


 静寂。


 時計の音だけが、やけに大きく響く。


 エイダンはゆっくりとカップを置き、こめかみを押さえた。


「貴女、とうとう壊れましたか?」

「失礼ですね」

「失礼なのはどちらです」


 即答だった。


 ジュリアは真顔のまま続ける。


「現在、新連邦内部では婚約、結婚、出産などの平和的圧力が急速に拡大しています」

「知りませんよ」


「このままでは、私まで“普通の幸福”へ巻き込まれる危険性があります」

「それの何が問題なんですか」


「重大事態です」


 断言だった。


 エイダンは深く溜息を吐いた。


「……なるほど」

「理解していただけましたか」

「ええ……」


 エイダンは静かに頷く。


「貴女、完全に戦時適応型人間ですね」


 ジュリアは少しだけ考え、


「否定はしません」


 と認めた。


 エイダンは椅子へ深く背を預ける。


「ですが安心しなさい」

「?」

「平和など、我々の時間では長くは続きません」


 あまりにも自然に言った。


 ジュリアが嫌そうな顔をする。


「それを聞くと、安心する自分が嫌になりますね」

「でしょうね」


 エイダンは紅茶を口へ運びながら、淡々と続けた。


「文明は加速している。物流は拡大し、人は増え、欲望は肥大化する」

「世界は必ず歪む」


 窓の外へ視線を向ける。


「貴女が止めようとしている“破滅”とは別の形でね」


 ジュリアは黙って聞いていた。


 やがて。


「……エンギュロイの件ですか」

「ええ。あれは始まりに過ぎません」


 静かな声だった。


「平和とは、“問題が消えた状態”ではない」

「“問題を戦争以外で処理し始めた状態”です」


 ジュリアは、ゆっくり目を閉じた。

 魔族。侵略。大侵攻。

 それらは、確かに分かりやすかった。

 敵が居た。

 斬れば良かった。

 だが今、自分の前に現れ始めているものは違う。


 効率化。

 格差。

 物流。

 中毒。

 開発。

 環境破壊。

 文明の歪み。


 どれも、人間自身が生み出している。


 そして、それは。

 剣では、解決できない。


「……面倒ですね」


 ジュリアは心底嫌そうに呟いた。


 エイダンは、少しだけ笑った。


「ようこそ、“平和”へ。だから貴女は少し……休暇を取りなさい」

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