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第九話 再会と出会い

◆


 翌朝、リリアが目を覚ました時、部屋にはもう朝の光が差し込んでいた。


 薄い帳の向こうで、冬の空が白く明るんでいる。


 しばらく天井を見つめてから、身体を起こした。


 知らない天井、知らない寝台。


 昨夜は本当に眠れるだろうかと心配だった。


 けれど、旅の疲れが残っていたらしい。


 思っていたより深く眠った。


 寝台から降りたところで、扉が控えめに叩かれた。


「はい」


「リリアさん。起きていますか?」


 ファリダの声だった。


「起きています」


 答えると、扉が開く。


 濃い茶色の髪を一つにまとめたファリダが入ってきた。


「おはようございます」


「おはようございます」


「眠れましたか?」


「はい。思っていたより」


「それはよかった」


 ファリダは窓を開けた。


 冷たい空気が入り込む。


 その向こうには、昨日は暗くてよく見えなかった皇宮の庭が広がっていた。


 白い石の回廊に細い水路。


 冬でも葉を落とさない低木。


 ところどころに植えられた淡い色の花。


 さらに遠くには、青い屋根が幾重にも重なっている。


「やっぱり……広いですね」


「皇宮ですから」


「迷いそうです」


「迷いますよ」


 即答された。


 リリアはファリダを見る。


「ファリダさんでも?」


「最初は」


「……それを聞いて、少し安心しました」


 ファリダが笑った。


「ですから、しばらくは一人で遠くへ行かないでくださいね」


「はい」


「それから、今日の昼に予定が入りました」


「予定、ですか?」


「皇帝陛下が、昼食をご一緒したいそうです」


「……皇帝陛下と?」


「はい」


 リリアは思わず背筋を伸ばした。


「正式な謁見は後日です。今日は私的な昼食会だそうです」


「私的……」


 皇帝との昼食に、その言葉が当てはまるのだろうか。


 リリアにはよく分からない。


「何を着ていけばよろしいでしょうか」


「まずそこですか?」


「大事ですよね?」


「ええ。大事です」


 ファリダは楽しそうに答えた。


 その表情を見て、リリアは嫌な予感がした。


「昨日の服では駄目ですか?」


「駄目ではありません」


「でしたら――」


「でも、せっかくですから、おめかししましょう」


「……必要でしょうか」


「必要かどうかではありません」


 どこかで聞いたような理屈だった。


 リリアは小さく息を吐いた。


◆


 朝食を終えたあと、リリアが女官たちに身支度を整えられている頃、皇宮の鍛錬場では、ヴィクトルが一本の木剣を握っていた。


 西門を通った際に、ローダンから持ってきた剣は皇宮側へ預けている。


 ただし、朝の鍛錬場を使うことと、そこに備えられた木剣を借りることは認められていた。


 ヴィクトルは木剣をゆっくりと振り下ろす。


 止める。


 横へ払う。


 踏み込みは浅く。


 もう一度。


 右肩の奥に、張るような感覚が残った。


 痛みではない。


 灰熊の爪を受けた傷は、葛花で過ごしたひと月の間にほとんど塞がっている。


 それでも、強く振り抜けばまだ突っ張る。


「無茶するなよ」


 ローダン語が飛んできた。


 ヴィクトルは木剣を下ろした。


 鍛錬場の入口に、シリルが立っている。


 腰には、皇宮への携行を認められた一本の短剣がある。


 外套の胸元には、青い布花が残っていた。


「無茶はしていません」


「怪我人はみんなそう言う」


「もう怪我人ではありませんよ」


「熊に引っかかれた肩だろ」


「だから確かめているんです」


「木剣で?」


「実剣は預けましたから」


 シリルがヴィクトルの腰へ目をやった。


「不便だな」


「あなたに言われると腹が立ちますね」


「何でだよ」


「一本とはいえ、短剣を持ったまま入れた人に言われたくありません」


「陛下の許可だ」


「分かっています」


 ヴィクトルは木剣を脇へ置いた。


「それより、あなたは何をしていたんです?」


「庭を見てた」


「庭?」


「皇宮の庭」


「朝から?」


 シリルが眉を上げる。


「皇宮だからだよ」


「どう違うんです?」


「水の引き方も、植えてるものもローダンとは違う」


 そこで言葉を切った。


「道も分かる」


 ヴィクトルの視線が止まる。


「道?」


「どの庭がどの棟につながってるか。どこに門があるか。壁が低いところはどこか」


「……庭を見ていたんですよね?」


「見てたよ」


 シリルは平然としている。


 ヴィクトルは息を吐いた。


「リリアさんの部屋は?」


「西庭から二本目の回廊。ここからなら走ればすぐだ」


 答えが早い。


 ヴィクトルは黙ってシリルを見る。


「何だよ」


「いえ」


「その顔やめろ」


「どんな顔です?」


「分かってるだろ」


 ヴィクトルは木剣を元の場所へ戻した。


 その胸元にも、白い布花が留められている。


 旅の町で選んだものを、二人ともまだ外してはいなかった。


 そのまま鍛錬場の外へ視線を向ける。


 白い回廊を、一人の侍従が歩いていた。


 こちらを見ることもなく、そのまま角を曲がっていく。


「……増えましたね」


 ヴィクトルが声を落とした。


「ああ」


 シリルの表情から、先ほどまでの軽さが消える。


「気づいていましたか」


「昨日からな」


「私に一人」


 ヴィクトルは言った。


「あなたにも一人」


「たぶんな」


 葛花を出てから、リリアには影がついている。


 役目は護衛と所在確認。


 私信も、日々の会話も報告させない。命の危険がない限り、部屋へ勝手に入らせることも、本人の判断へ介入させることもしない。


 中立庵で、ナディル自身がリリアへ告げている。


 問題は、皇宮へ入ってからだった。


「数が合いません」


 ヴィクトルが言った。


「ああ」


 シリルの目が、侍従の消えた回廊へ向く。


「皇宮内の警備でしょうか」


「わざわざ隠れて見る必要あるか?」


「私については警戒されても不思議ではありません。外国の王室騎士ですから」


「剣まで預けさせられたしな」


「それは当然です」


 ヴィクトルはシリルの腰へ目をやった。


「むしろ、分からないのはあなたです」


「俺?」


「陛下から、皇宮内でも守り人としての務めを妨げないよう命じられている。それなのに、あなたにも別の目がついている」


 シリルの口元から笑みが消えた。


「守り人だから警戒されてるんだろう」


「……それだけならいいのですが」


「何だよ」


「昨日、皇宮から来た騎馬の方も、あなたを見ていました」


「ああ」


「気づいていたんですか」


「気づく」


「心当たりは?」


「ない」


 短い返事だった。


 本当にないのか。


 あるが、話すつもりがないのか。


 ヴィクトルには分からなかった。


「ファリダさんへ確認しますか」


「した方がいいな」


「陛下の影なら、それで分かるでしょう」


「ああ」


 シリルは回廊の角を見た。


「違うなら――」


「その時は、リリアさんにも伝えましょう」


 シリルが頷いた。


「ただ、昼食会の前に余計な不安を増やす必要もない」


「まずファリダさんに確認してからですね」


「ああ」


 ヴィクトルは、人影が消えた回廊を見る。


「何もなければ、それでいいのですが」


「何もないやつは、あんな見方しないだろ」


「……そうですね」


 シリルも、それ以上は言わなかった。


◆


「……これ、本当に私ですか?」


 鏡の中の少女を見つめながら、リリアは呟いた。


「ほかに誰がいるんです?」


 後ろからファリダの声が返ってくる。


 リリアは答えられなかった。


 淡い灰紫の長衣は、腰のあたりで一度細く絞られ、そこから裾へ向かって柔らかく広がっている。


 袖は手首へ近づくにつれて細くなり、襟元から肩、袖口へかけて、銀糸で細い蔓と小さな花が刺繍されていた。


 光が当たるたび、銀糸だけが淡くきらめく。


 派手ではない。


 けれど、旅装とはまるで違った。


 そして何より違うのは、髪だった。


 いつもなら邪魔にならないようまとめるだけの黒髪に、今日は細かな編み込みが入っている。


 左右のこめかみの上から取った髪を細く編み、それを耳の上へ沿わせて後ろへ流す。


 二本の編み込みは後頭部で重ねられ、さらに下からすくった細い毛束を絡ませながら、一つにまとめられていた。


 その下から、結い上げなかった黒髪が背へ長く流れている。


 結び目には、葛花を出る朝から使っている淡い紫の髪紐。


 長く垂らした紐の端が、黒髪の間から覗いていた。


 女官が最後の編み込みを整える。


 ファリダが少し離れて、全体を眺めた。


「うん。いいですね」


「……そうでしょうか」


「そうです」


 リリアは鏡へ顔を近づけた。


 編み込まれた黒髪。


 淡い紫の髪紐。


 灰紫の衣に散る銀色の小花。


 見慣れない。


 けれど、嫌ではなかった。


 むしろ――。


「……綺麗です」


 口にしてから、リリアは慌てた。


「あ、服と髪が、です。私がという意味ではなくて」


 ファリダが吹き出した。


「誰もそこまで聞いていませんよ」


「でも」


「リリアさんも綺麗です」


「……」


 今度こそ返事ができなくなる。


 その時、卓の端に置かれていたものが目に入った。


 淡い紫の布花。


 旅の町で、自分で選んだ花だった。


 ――再会。


 失った人や物、場所。


 もう一度出会いたいものへの願い。


 リリアは花へ手を伸ばした。


「ファリダさん」


「はい?」


「これも、つけていただけますか?」


 ファリダの視線が、リリアの掌へ落ちる。


 すぐに微笑んだ。


「もちろんです」


 布花を受け取り、灰紫の衣の胸元へ留める。


 銀糸で刺繍された小さな花々の中に、淡い紫が一輪加わった。


 リリアは鏡を見る。


 今度は、少しだけ自分らしく見えた。


 その隣には、小さな銀の花鈴も置かれている。


 リリアは指先で触れた。


 ちり。


 澄んだ音が鳴った。


「こちらは?」


 ファリダが尋ねる。


 リリアは少し考えてから、首を横に振った。


「今日は置いていきます」


「いいんですか?」


「はい。食事の途中で鳴ったら、気になってしまいそうなので」


「それもそうですね」


 ファリダは笑った。


「帰ってきたら、またつけましょう」


「はい」


 ファリダ自身の胸元には、赤い布花があった。


 リリアはそれを見て、町で交わした言葉を思い出す。


 ――勇気が要らなくなる人なんて、いませんから。


 リリアは自分の紫の花へ触れた。


 祭りの日、その時、自分は何と出会っているのだろう。


「ほら。行きますよ」


「待ってください」


「何です?」


 リリアはもう一度鏡を見る。


「……変ではありませんか?」


「四度目です」


「三度では?」


「今ので四度目です」


「……そうでしたか」


「何度聞かれても答えは同じです。よく似合っています」


 鏡の中の少女、それが自分なのかと、まだ不思議だった。


◆


 部屋を出る。


 回廊には、ヴィクトルが待っていた。


「ヴィクトルさん」


 呼ぶと、ヴィクトルが振り返った。


 最初に、その視線がリリアの肩越しを通り過ぎる。


 回廊の角。


 もう、誰もいない。


「どうかなさいましたか?」


「いえ」


 ヴィクトルはリリアへ視線を戻した。


 そして、そのまま止まった。


「……?」


 リリアも足を止める。


「ヴィクトルさん?」


「……」


 返事がない。


 リリアは急に不安になった。


「やっぱり、変でしょうか」


「いえ」


 返事は早かった。


「では、どこかおかしいですか?」


「そうではなくて」


 ヴィクトルの視線が、編み込まれた黒髪から灰紫の衣へ移る。


 一瞬、胸元の淡い紫の花で止まり、すぐにリリアの顔へ戻った。


「……よくお似合いです」


「本当ですか?」


「はい」


 今度は迷わなかった。


「とても」


 リリアの表情が明るくなる。


「よかったです。自分では見慣れなくて」


「見慣れないのは……私も同じです」


「ヴィクトルさんも?」


「はい」


 それ以上は続かなかった。


 耳が少し赤い。


 リリアが不思議そうに見ていると、ふとヴィクトルの胸元に目が止まった。


 白い布花。


 今日も、まだそこにある。


「ヴィクトルさんも、つけているんですね」


「え?」


「その花です」


 ヴィクトルは自分の胸元を見た。


「ああ……はい」


 リリアは少し笑った。


「よかった」


 ヴィクトルは不思議そうにリリアを見る。


 その時、後ろから足音がした。


 シリルだった。


 曲がり角を抜ける前に、一度背後へ目をやる。


「何してるんだ?」


「これから昼食へ伺うところです」


「知ってる」


 そう答えながら、シリルがリリアを見る。


 足が止まった。


 今度はリリアも気づいた。


「……シリル?」


「……」


「何ですか?」


「いや」


 視線が一度、髪へ向く。


 編み込まれた黒髪と、その間から垂れる淡い紫の髪紐。


 それから、いつもとは違う衣へ。


 最後に、胸元の紫の花へ。


 シリルはすぐに顔を逸らした。


「変でしょうか?」


「誰もそんなこと言ってないだろ」


「でも、二人とも黙るので」


「いつもと違うからだよ」


 リリアは自分の袖を見る。


「やっぱり変ですか?」


「だから違うって」


 シリルが頭を掻く。


「似合ってる」


「本当ですか?」


「ああ」


「よかった」


 リリアがほっと笑う。


 シリルはその顔を見たあと、また視線を逸らした。


「……行くぞ」


 それだけ言って、先に歩き出す。


 青い布花が、その胸元で小さく揺れた。


◆


 昼食の席が設けられていたのは、大広間ではなかった。


 庭に面した小さな食事室だった。


 白い壁に、青と金の細い装飾。


 大きく開いた窓の向こうには、水路と淡い黄色の花が見える。


 長大な宴席を想像していたリリアは、入口でほっとした。


 それでも、中にいる人物を見れば緊張が戻ってくる。


 ナディル・サルヴァーン。


 ヤシャラ皇帝。


 濃紺の長衣をまとい、窓際に立っていた。


 琥珀金の瞳がリリアへ向く。


 室内には侍従と女官もいる。


 彼らは皇帝へ深く礼を取っていた。


 リリアの足が止まった。


 自分は、どうすればいいのだろう。


 片膝をつくのか。


 ローダン式に深く頭を下げるのか。


 隣からファリダの声がした。


「そのままで」


 ごく小さな声だった。


 リリアはファリダを見る。


「立ったままで結構です」


 理由は分からない。


 けれど、今は従う。


 リリアはナディルの前まで進み、立ったまま丁寧に頭を下げた。


「本日はお招きいただき、ありがとうございます。皇帝陛下」


「ああ」


 ナディルは、それを当然のように受けた。


 その視線が一瞬、リリアの胸元に留まった。


 淡い紫の布花。


 けれど、何も言わなかった。


「座れ」


「はい。失礼いたします」


 席へ着いても、背筋から力は抜けなかった。


「旅の疲れは?」


「お気遣いありがとうございます。もう大丈夫です」


「昨夜は眠れたか」


「はい。おかげさまで、よく休むことができました」


「食事は?」


「朝食もいただきました」


「そうか」


 そこでリリアは迷った。


 ただ食事をするためだけに、皇帝が自分を呼ぶのだろうか。


「あの……本日は、何かお話がおありなのでしょうか」


 ナディルが片方の眉を上げた。


「食事をする」


「お食事だけ、でしょうか」


「食事に、それ以上の目的が必要か?」


「いえ。ただ、皇帝陛下からお招きいただいたので、何かお話があるのかと……」


「私も食事くらいする」


「それは……存じております」


 答えてから、妙な返事だったことに気づいた。


「申し訳ありません。今のは少し失礼だったかと」


「なぜ謝る」


「皇帝陛下に対して、そのような言い方をしてしまいましたので」


「それをやめろ」


「……はい」


 葛花でも、似たようなことを言われた。


 リリアが口を閉じると、ナディルの口元が少しだけ緩んだ。


「ひと月で多少は変わったと思ったが、そこは変わらないな」


「気をつけます」


「だから、それをやめろと言っている」


「……では、どうすればよろしいのでしょう」


「知らん」


「皇帝陛下が仰ったのに?」


 口にしてから、また失礼だったかもしれないと思う。


 だが、今度は謝る前にナディルが言った。


「今、謝ろうとしたな」


「……していません」


「しただろう」


 リリアは答えに困った。


 その時、扉の外で声がした。


 侍従が応じる。


 扉が開いた。


 一人の女性が入ってきた。


◆


 最初に目を引いたのは、姿勢の美しさだった。


 背筋を伸ばし、歩幅は一定。


 けれど、堅苦しくはない。


 濃い黒褐色の髪を高くまとめ、深い青緑の長衣をまとっている。


 二十代半ばほどだろうか。


 穏やかな顔立ちだが、立ち姿には自然と人の目を引くものがあった。


 女性はナディルへ礼をした。


 それはリリアが先ほど見た臣下たちの礼とは違っていた。


 皇族としての礼なのだろう。


「兄上」


 女性がヤシャラ語で何かを言った。


 リリアには、最初の呼びかけしか分からなかった。


 兄上。


 ということは。


 ナディルがローダン語へ切り替える。


「紹介する」


 女性がリリアを見る。


「妹のサフィーヤだ」


 リリアは思わず立ち上がった。


「皇女殿下……」


 どう礼をすればいい。


 また迷う。


 深く頭を下げようとしたところで、


「そのままで結構です」


 流暢なローダン語だった。


 リリアは顔を上げる。


 女性――サフィーヤが穏やかにこちらを見ている。


「ですが……」


「私は皇女です」


「はい」


「そして、あなたは私の臣下ではありません」


 リリアは瞬いた。


 その言葉をどう受け取ればいいのか分からない。


 サフィーヤはそれ以上説明せず、立ったまま軽く頭を下げた。


「サフィーヤ・サルヴァーンです」


 皇女の方から、自分へ。


 リリアも慌てて一礼した。


「リリアと申します」


「ええ。存じています」


 サフィーヤの目元が柔らいだ。


「お会いしたかったわ、リリア」


 名前で呼ばれた。


 リリアは一瞬、返事を忘れそうになった。


「私も、お目にかかれて嬉しく思います」


「座りましょう。兄上がお腹を空かせています」


「私は待っていたんだが」


「女性の支度を急かすものではありません」


「急かしていない」


「昨日到着したばかりの方を、翌日の昼食へお招きすること自体、十分お急ぎです」


 リリアは二人を交互に見た。


 皇帝に、こんなふうに話す人がいる。


 しかもナディルは怒らない。


「何だ」


 見ていたことに気づいたナディルが言った。


「いえ……」


「言え」


 リリアは迷った。


「失礼でしたら、申し訳ありません」


「もう謝っているぞ」


「あ……」


 サフィーヤが小さく笑った。


 リリアはますます困る。


「皇帝陛下にも、このようにお話しになる方がいらっしゃるのだな、と……少し驚きました」


「おりますよ」


 サフィーヤが答える。


 ナディルは嫌そうな顔をした。


「残念ながらな」


◆


 料理が運ばれてきた。


 焼いた薄いパン。


 香草を使った鶏肉。


 豆と野菜の煮込み。


 小さな器には、色の濃い果実のソース。


 リリアは並べられた食器を見る。


 どれから使えばいいのだろう。


 サフィーヤが、最初の皿へ手を伸ばす。


 リリアはその動きを見て、同じようにした。


「ヤシャラの食事はどう?」


 サフィーヤが尋ねる。


「とても美味しいです」


「辛くない?」


「最初は驚きました。でも、少しずつ慣れてきました」


「言葉は?」


「挨拶と、簡単な言葉だけです」


「誰に習ったの?」


「ファリダさんと、シリルに教えてもらっています」


「シリル?」


 サフィーヤが名前を繰り返した。


 ナディルが茶器へ伸ばしかけた手を止める。


 ほんの短い間だった。


 そのまま何事もなかったように茶器を取る。


「私の守り人です」


 リリアが答える。


「ヤシャラ語もローダン語も話せるので、旅の途中でも教えてもらいました」


「そう」


 サフィーヤはそれ以上は尋ねなかった。


「もっと覚えたい?」


「はい。できるだけ早く、話せるようになりたいと思っています」


「どうして?」


「自分のことを知るために、この国へ来ました。それなのに、いつまでも誰かに訳していただかなければ話せないのは……嫌なんです」


 最後だけ、少し本音が強くなった。


 サフィーヤが静かにリリアを見る。


「文字も読めるようになりたいと思っております」


「古い記録を読むため?」


「はい。黒百合のことも、母のことも、できるなら自分で読みたいのです」


「礼法は?」


 リリアは驚いた。


「礼法も、教えていただけるのでしょうか?」


「望むなら」


「でしたら、ぜひお願いいたします」


 ナディルが口を挟んだ。


「ちょうどいい」


 リリアが皇帝を見る。


「サフィーヤには、おまえが皇宮にいる間の接待役を頼んだ」


「接待役、ですか?」


「皇宮をご案内したり、必要な方につないだり、ヤシャラで困らないようお手伝いする役目です」


 サフィーヤが説明した。


「女性皇族や女官たちの教育も、私が見ています。言葉や礼法なら教えられますよ」


「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」


「ただし」


 サフィーヤはナディルを見る。


「私は監視役ではありません」


 ナディルの目が妹へ向く。


「誰も監視しろとは言っていない」


「今は、でしょう?」


「サフィーヤ」


「兄上は心配すると、すぐ人を増やしますから」


「必要な警護だ」


「本人が息苦しいと感じるほど増やせば、それは警護とは呼びません」


 リリアの動きが止まった。


 中立庵で交わした言葉が蘇る。


 ――もし、私が影をつけてほしくないと言ったら?


 ――今は外せない。


 けれど、ナディルは約束した。


 嫌だと言ったことを、覚えておく、と。


 その時と同じ琥珀金の瞳が、今もリリアへ向いていた。


「……何だ」


「いえ。何も申し上げておりません」


「顔に出ている」


「出ていないと思います」


「出ていますよ」


 サフィーヤまで言った。


 リリアは困って、果実のソースへ視線を落とした。


◆


 食事が終わる頃には、最初ほど身体に力は入っていなかった。


 サフィーヤが茶器を置く。


「では、明日から始めましょうか」


「明日から、ですか?」


「ヤシャラ語と礼法」


 リリアは顔を上げた。


「はい。よろしくお願いいたします」


「何から学びたい?」


 考える。


 言葉。


 文字。


 食事。


 衣服。


 皇宮の決まり。


 知りたいことはいくらでもあった。


 けれど、リリアは昼食室へ入った時のことを思い出した。


 臣下たちは皇帝へ深い礼を取っていた。


 自分もそうするのだと思った。


 けれど、ファリダに止められた。


 そして皇女であるサフィーヤにも、同じようにする必要はないと言われた。


「あの……」


「何?」


「まず、礼について教えていただいてもよろしいでしょうか」


「礼?」


「はい」


 リリアはナディルを見る。


「先ほど、皆さんが皇帝陛下に深く礼をしているのを見ました」


「あれは臣下の礼です」


 サフィーヤが答える。


「けれど、私はファリダさんに止められました」


「ええ」


「それに、サフィーヤ殿下からも、同じ礼をする必要はないと仰っていただきました」


「そうですね」


 リリアは言葉を選んだ。


「……どうしてでしょうか」


 サフィーヤはすぐには答えなかった。


 ナディルも口を挟まない。


「知らないから、教えてほしい?」


「はい」


 リリアは頷いた。


「知らないまま、間違ったことをしたくありません」


「間違えてもいいのよ」


 思いがけない言葉だった。


 リリアは目を瞬いた。


「……よろしいのですか?」


「知らないことを間違えるのは、恥ではありません」


「ですが……」


「そのために学ぶのでしょう?」


 サフィーヤの声は穏やかだった。


 リリアは何も言えなくなった。


 失敗すれば叱られる。


 知らなければ責められる。


 間違えないように先回りする。


 それが、ずっと普通だった。


「明日、教えます」


 サフィーヤが言った。


「あなたが誰に、どんな礼をすればいいのか」


 そして微笑んだ。


「それより先に――」


 リリアを見る。


「あなたが、誰にもする必要のない礼から」


「誰にも……ですか?」


「ええ」


 サフィーヤはそれ以上説明しなかった。


 ナディルも黙って茶を飲んでいる。


 リリアは自分の右腕へ目を落とした。


 服の下には、黒百合の痣がある。


 この国には、自分の知らない決まりがまだたくさんある。


 けれど、知らないことを、知りたいと言っていい。


 間違えたなら、そこから覚えてもいい。


 そう考えると、皇宮という場所が、昨日よりほんの少し近くなった気がした。


 ふと、胸元の淡い紫が視界に入る。


 再会を願って、自分で選んだ花。


 リリアは指先で、布花の端へそっと触れた。


◆


 昼食室を出ると、回廊の向こうに二人の姿があった。


 ヴィクトルとシリル。


 ヴィクトルは壁際に立ち、シリルは窓から庭を見ている。


 リリアは驚いた。


「待っていてくださったんですか?」


 シリルが振り返る。


「別に」


「では、何をしていたんですか?」


「庭見てた」


「また?」


「悪いか」


「悪くありませんけど……」


 ヴィクトルが口を開いた。


「昼食はいかがでした?」


「緊張しました」


「やはり」


「でも、サフィーヤ殿下という方を紹介していただきました」


「皇女殿下ですか」


「はい。明日から、ヤシャラ語と礼法を教えてくださるそうです」


 リリアは嬉しくなって続けた。


「それから、間違えてもいい、と言っていただきました」


 ヴィクトルが黙った。


 シリルもリリアを見る。


「……そうか」


「はい」


「じゃあ、いっぱい間違えろ」


「どうしてそうなるんですか」


「その方が早く覚えるだろ」


「もう少し言い方がありませんか?」


「ない」


「シリル」


「何だよ」


 シリルが笑う。


 ヴィクトルも小さく笑った。


「ヴィクトルさんまで」


「すみません」


「笑いながら謝らないでください」


 三人の声が、白い回廊へ響いた。


 その時だった。


 シリルの視線が、ふいにリリアの肩越しへ動いた。


 ほとんど同時に、ヴィクトルも同じ方向を見る。


 リリアは振り返ろうとした。


「……どうかしましたか?」


「いや」


 シリルはもう前を向いている。


 ヴィクトルも穏やかな表情に戻っていた。


「何でもありません」


 二人とも、そう言った。


 リリアは振り返るのをやめた。


 けれど、二人を見比べる。


 今のは、偶然ではなかった。


 同じ方角を、ほとんど同時に見た。


 旅の途中にも、似たことが何度もあった。


 自分が景色に目を奪われ、知らない言葉や市場の花、菓子に気を取られている間も、二人は時々、自分とは違うところを見ていた。


 道の先や、行き交う人々、周囲の物音。


 そして、自分には気づけない何か。


 ――ずっと、こうだったのだろう。


 リリアは今さら、そのことに気づいた。


「リリアさん?」


 ヴィクトルに呼ばれる。


「どうしました?」


「……いえ」


 一度そう答えてから、リリアは少し迷った。


「ありがとうございます」


 二人が同時にこちらを見る。


「何がだ?」


 シリルが尋ねた。


「分かりません」


「は?」


「何に対してなのか、うまく言えません」


 リリアは少し笑った。


「でも、言いたくなりました」


 ヴィクトルが何かを言いかけて、やめた。


 シリルは眉を寄せる。


「変なやつ」


「お礼を言ったのに」


「分かったから、行くぞ」


「……はい」


 シリルが先に歩き出す。


 ヴィクトルもそのあとへ続いた。


 リリアは二人の背中を見てから、その間へ追いついた。


 胸元で、淡い紫の花が小さく揺れた。


 シリルの歩調が、わずかに落ちる。


 ヴィクトルは振り返らなかった。


 ただ、窓硝子へ視線を向ける。


 そこに映っていた人影は、もうなかった。


「それで、最初に何を習うんだ?」


 シリルが何事もなかったかのように尋ねた。


「まだ分かりません。でも、まずは礼について教えていただきます」


「難しそうだな」


「まだ習ってもいませんよ」


「だから言ってる」


「どういう意味ですか?」


「そのままの意味だ」


「分かりません」


 リリアの声が白い回廊へ響く。


 その向こうには、もう誰の姿もなかった。




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