第八話 花と蜜の皇都
◆
皇都の西門が見えたのは、翌朝だった。
まだ朝の光が街道を斜めに照らしている。
それでも門の前には、すでに長い列ができていた。
荷馬車や旅人、商人。荷を背負った驢馬に、年始めの祭りを目当てに来たらしい家族連れ。
巨大な城壁の上では、赤、青、黄、白、紫の布が冬の風にはためいている。
その向こうに、昨日、丘の上から見た皇都がある。
リリアは栗毛の手綱を握り直した。
「緊張していますか?」
隣からヴィクトルが尋ねた。
「……はい。少し」
「昨日よりも?」
「昨日よりも……です」
ヴィクトルが笑った。
「まだ大丈夫ですね。本当に怖くなったら、『少し』とは言わないでしょう?」
「言います」
「言うんですか?」
「たぶん」
前方を行くシリルが振り返った。
「そこ、張り合うところか?」
「張り合ってません」
「そうか」
リリアは少し手綱を緩めた。
昨日から先導してくれた二人の騎馬が、列の手前で馬を止める。
一人がファリダへ何かを告げた。
ファリダがリリアを見る。
「このまま皇宮まで案内できるそうです。門も、別の通路から入れます」
リリアは長い列を見る。
それから、皇宮の騎馬を見る。
「皆さんは、ここに並んで入るんですよね?」
「ええ」
「では、私たちもここから入ります」
ファリダはすぐに頷いた。
「分かりました」
騎馬の男へヤシャラ語で伝える。
男は一度リリアを見たあと、胸元へ手を当てた。
別れの挨拶だ。
リリアも、この旅で覚えた言葉を返す。
発音が合っていたかは分からない。
けれど、男は笑った。
二人の騎馬が列から離れていく。
その背を見送りながら、ヴィクトルが言った。
「案内していただければ、門で待たずに済んだのでは?」
「……少し、もったいなかったかもしれません」
「今さらかよ」
シリルが言う。
「皇都へ観光に来たみたいだな」
「観光ではありません」
「昨日から市場も見て、菓子も食ってるだろ」
「それとこれは別です」
「そうか?」
「意地悪です」
シリルは肩をすくめ、前を向いた。
◆
門を抜けた途端、音が変わった。
人の声に、荷車の車輪。
店先から客を呼ぶ声が重なり、遠くでは鐘が鳴っている。どこかから弦を弾く音まで聞こえてきた。
香辛料の匂いに、焼いた肉と甘い菓子の香り。
その間を縫うように、水路から冷たい水の匂いが上がってくる。
白や淡い黄土色の建物が道の両側に並び、青く塗られた窓枠が朝の光を返していた。
道の中央近くには細い水路が流れ、ところどころに石橋が架かっている。
祭りの準備なのだろう。
窓や軒先には、色とりどりの布花が飾られていた。
リリアは馬上から街を見回した。
目に入ってくるものが多すぎる。
その中で、ふと気づいた。
「黒い髪の人が、たくさんいます」
前を歩く女性。
店先で荷を運ぶ青年。
橋の欄干に座る子ども。
振り返れば、門から入ってくる商人の中にもいる。
真っ黒な髪もあれば、黒褐色の髪もある。光を受けると、青みを帯びて見える髪もあった。
珍しくない。
「ええ」
ファリダが答えた。
「ヤシャラでは珍しくありませんよ」
そして、ちらりとヴィクトルを見る。
「ヴィクトルさんの金髪の方が、よほど珍しいですから」
「私ですか?」
「見られていますよ」
リリアもそちらを見る。
通りの向こうで、若い女性が二人、ヴィクトルを見ていた。
目が合うと、慌てて顔を寄せ合う。
少し先でも、店先にいた娘が振り返った。
「本当ですね」
リリアは素直に言った。
「ヴィクトルさんの方が見られています」
「……そうですか?」
ヴィクトルは本気で分かっていない顔をしている。
シリルが呆れたように言った。
「おまえ、そういうの鈍いよな」
「何の話です?」
「分からないならいい」
ヴィクトルは納得していないようだった。
リリアはもう一度、通りへ目を向けた。
黒い髪の人が、当たり前のように歩いている。
誰も振り返らない。
誰も、それを特別なものとして見ていない。
ただの髪の色。
それだけだった。
◆
「……何か見ていますね」
ヴィクトルに言われ、リリアは視線を戻した。
「見ていません」
「さっきから三回、同じ店を見ています」
道沿いの屋台では、掌ほどの丸い生地を鉄板の上で焼いていた。
焼き上がったものへ蜂蜜を細く垂らし、砕いた木の実と香辛料を振りかけている。
甘く香ばしい匂いが、風に乗って流れてきた。
「あれは何ですか?」
とうとうリリアが尋ねると、ファリダが屋台を見た。
「金蜜輪です」
「きんみつりん?」
「ええ。皇都ではよく食べられる菓子ですよ」
ちょうど焼き上がった一枚へ、琥珀色の蜜が落とされていく。
リリアはしばらく見つめた。
「……食いたいなら買えばいいだろ」
シリルが言った。
「食べたいとは言っていません」
「じゃあ行くか」
「……待ってください」
シリルが笑った。
結局、四人分を買った。
まだ温かい金蜜輪を一口かじる。
薄い生地の端が、ぱりりと小さく音を立てた。
中は少し柔らかい。
蜂蜜の甘さのあとから、炒った木の実と香辛料の香りが広がる。
「……美味しいです」
思ったより、声が弾んだ。
リリアは手の中の金蜜輪を見て、もう一口かじった。
頬が自然に緩む。
「よかったですね」
ヴィクトルが言う。
「はい」
リリアは素直に頷いた。
それから、もう一度屋台を振り返る。
「帰りにも、まだ売っているでしょうか」
「相当気に入ったな」
シリルが言った。
「今すぐもう一つ食べるとは言っていません」
「あとでなら食うんだな」
「……シリル」
シリルが笑った。
ヴィクトルまで口元を緩めている。
「ヴィクトルさんまで」
「私は何も言っていませんよ」
「笑っています」
「それは否定できません」
リリアも堪えきれず笑った。
手の中には、まだ温かい金蜜輪。
胸元では淡い紫の花が揺れ、その下で銀の花鈴が小さく鳴った。
ちり。
◆
皇宮へ近づくにつれ、道幅が広くなった。
店が減り、代わりに白い石壁と庭園が増えていく。
やがて、青い屋根を持つ大きな門が見えた。
昨日、丘から見た皇宮。
近くで見ると、さらに大きい。
リリアは無意識に背筋を伸ばした。
門前には武装した衛兵が並んでいる。
ファリダが先へ進み、懐から封書を取り出した。
衛兵の一人が受け取り、封を確認する。
続いて、リリアたちへ視線を向けた。
ヤシャラ語で何かを尋ねる。
ファリダが答えた。
しばらくやり取りが続いたあと、門番がヴィクトルを見る。
リリアは気になって尋ねた。
「ヴィクトルさんも、一緒に入れますか?」
「ええ」
ファリダが答える。
「ヴィクトルさんについては、陛下から指示が出ています」
「指示ですか?」
ヴィクトルが聞き返した。
「ローダン王国の騎士であることを承知した上で、リリアさんの同行者として皇宮内への滞在を認める、と」
リリアはヴィクトルを見る。
「よかったです」
「ただし」
ファリダが続ける。
「皇宮内での武器の扱いについては、こちらの決まりに従っていただきます」
「当然です」
ヴィクトルは迷わず答えた。
門番が腰の剣を示す。
ファリダが訳した。
「皇宮内での帯剣は認められていません。剣はこちらで預かるそうです」
「承知しました」
ヴィクトルは腰の留め具を外し、鞘ごと剣を差し出した。
門番は両手で受け取り、傍らの係へ渡す。
係の者が剣の特徴を確認し、記録板へ書き留めた。
それから、門番がシリルを見る。
シリルも察したらしい。
「俺もか」
外套へ手を入れた。
一本の短剣を取り出す。
続いて、腰の後ろからもう一本。
さらに反対側から、細身の短剣を抜いた。
リリアは目を瞬いた。
「……そんなに持っていたんですか?」
「まだある」
「まだ?」
シリルは平然と答え、外套の内側から小さな短剣を取り出した。
門番の表情が初めて動いた。
何かをヤシャラ語で尋ねる。
ファリダが訳した。
「まだありますか、と」
「ある」
「あるんですか?」
リリアが思わず聞く。
「守り人だからな」
「それは理由になっているんでしょうか……」
シリルがもう一本を取り出した。
石台の上に短剣が並んでいく。
門番は一本ずつ鞘から抜き、刃渡りや形を確かめた。傍らの係が、本数と特徴を記録していく。
最後の一本を置いたところで、門番がシリルへ何かを尋ねた。
「今度は?」
「これで全部か、と」
ファリダが答える。
「全部だ」
門番は念のためシリルの外套や腰回りを確認した。
それから、奥に控えていた上役らしい男へ声をかける。
男はファリダの持っていた書面を改め、その目をシリルへ向けた。
短く何かを告げる。
「どうしました?」
リリアが尋ねる。
「シリルさんについては、別の指示が出ています」
「俺に?」
シリルが眉を寄せる。
ファリダは男の言葉を聞き、リリアたちへ訳した。
「黒百合の守り人について、皇宮内においても、その務めを妨げてはならない――陛下からの指示です」
リリアはナディルの顔を思い浮かべた。
「それは……全部、持って入っていいということですか?」
「いいえ」
ファリダは首を横に振った。
「携行を認められるのは、一本だけです」
「一本?」
「守り人としての務めに必要な最低限の武器として、短剣一本のみ。残りはこちらで預かるそうです」
シリルは石台に並んだ短剣を見下ろした。
「選べってことか」
門番が頷く。
シリルは迷う様子もなく、そのうちの一本へ手を伸ばした。
他のものより少し長い。
柄にも鞘にも目立つ飾りはなく、使い込まれた革が手になじんでいる。
門番は選ばれた短剣を受け取り、もう一度刃を確かめたあと、携行する一本として記録する。
残りはヴィクトルの剣とともに、預かり箱へ収められた。
シリルは許可された短剣を腰へ戻す。
リリアはその一本を見る。
「一本なんですね」
「一本あれば十分だ」
シリルは何でもないことのように言った。
リリアは少し考える。
「……シリルが言うと、安心していいのか分かりません」
「どういう意味だよ」
ヴィクトルが横から静かに言った。
「私には分かる気がします」
「おまえまで何なんだよ」
リリアは思わず笑った。
門番たちは笑わず、預かった武器と記録をもう一度照らし合わせている。
リリアは改めて、大きな門を見上げた。
その向こうには、白い石造りの建物と青い屋根が重なっている。
ここから先が、皇宮なのだ。
隣では、シリルもその奥を見ていた。
「どうしました?」
「別に」
「皇宮、嫌ですか?」
「好きではないな」
「無理に来なくても――」
「行く」
返事は早かった。
「でも」
「おまえが行くんだろ」
「はい」
「なら、行く」
リリアはシリルを見る。
「守り人だから?」
シリルは答えるまで、ひと呼吸置いた。
「そうだ」
それだけを言った。
◆
門をくぐった先には、さらに別の庭があった。
外から見た皇宮より、ずっと静かだった。
水路を流れる音に、木々を揺らす風。遠くを歩く女官たちの衣擦れだけが、ときおり静けさの中へ混じる。
先ほどまでいた皇都の喧騒が、石壁一枚向こうに消えていた。
案内役の女官が迎えに来た。
深い青の衣をまとった女性だった。
リリアの前で足を止め、丁寧に礼をする。
「ようこそお越しくださいました、リリア様」
ローダン語だった。
リリアは反射的に振り返りそうになった。
「……様?」
「はい」
女官は不思議そうな顔をしない。
ファリダが隣で囁く。
「慣れてください」
「慣れられるでしょうか」
「すぐには難しいかもしれませんね」
「ファリダさんでも、そう思いますか?」
「ええ。昨日まで呼ばれていなかったものを、今日から当然のように受け入れろという方が無理があります」
リリアは少しだけ安心した。
女官は続ける。
「皇帝陛下より、まずは旅のお疲れを癒やすように、とのお言葉を預かっております」
「……また休めと言われました」
思わず漏れた。
後ろから、小さな笑い声がした。
リリアは振り返る。
シリルが何事もなかったような顔で立っていた。
「今、笑いましたよね?」
「行くぞ」
「誤魔化しました」
ヴィクトルが視線を逸らした。
「ヴィクトルさん?」
「私は何も」
「まだ何も聞いていません」
「……そうでしたね」
リリアは二人を見比べた。
案内役の女官が、少しだけ口元を緩める。
「お部屋へご案内いたします」
◆
案内された部屋を見て、リリアは入口で立ち止まった。
「……広すぎませんか?」
寝台が一つ。
机と長椅子。
窓際には小さな卓が置かれ、壁際には大きな衣装棚がある。
その奥には専用の洗面室まで続いていた。
ローゼンベルク家で暮らしていた小部屋とは比べるまでもない。
葛花で使っていた部屋よりも、ずっと広い。
「客室ですから」
ファリダが答える。
「これで一部屋なんですか?」
「一部屋です」
「何人で使うんですか?」
「リリアさん一人です」
リリアは寝台から長椅子へ、長椅子から窓際の卓へと視線を移した。
「……どこにいればいいのか迷いそうです」
「好きなところにいればいいんですよ」
「そういう問題でしょうか」
「そういう問題です」
ファリダは平然と答えた。
部屋には三人の女官が待っていた。
一人がリリアの外套へ手を伸ばす。
「あ、自分で――」
言いかけて、止まった。
葛花でファリダに言われたことを思い出す。
――できることと、人にやってもらうことは別ですよ。
リリアは伸ばしかけた手を下ろした。
「……お願いします」
女官にはローダン語が分からない。
それでも意味は伝わったらしい。
柔らかく微笑み、外套を受け取る。
肩から、その重みが消えた。
淡い紫の花が揺れる。
その下で、銀の花鈴が小さく鳴った。
ちり。




